第百四十一話
二時間程経っただろうか。微かに感じていた疲労が消え去り、思考に絡みついていた様々な感情が洗い流されたのを感じる。
……未熟、私はあまりにも未熟。怒りに我を忘れてしまっていた。
けれどもこの怒りは正当な物であり、誰かに否定されていいものではないと、はっきりした今の思考でもそう思う。
「尤も……唯一否定出来るのが貴方ですけれど」
私は、自分の腕の中で眠るユウキを強く抱きしめる。
……こうして見ると本当大人の男性のようですね。
そういえば……こんな大きな異性を自ら腕の中に迎えて眠るのは、前の人生を含めて初めての事ですね。
……不思議な物です。こんなに大きくても、愛しいと、大切だと強く思える。
もう一度強く抱きしめ、ユウキの首元に顔を埋める。
ユウキ成分が充填されていきますね。
「……疲れていたのですね、ユウキも」
ユウキの歩みを聞いた。
唯一の家族である私が、生死の狭間にいると騙され、ひたすらに戦いを強いられてきたという。
それはあんまりではないか。そんなやり口はあんまりではないか。
生前の自分が、ユウキに近い境遇にあった事を思い出し、もう一度強くユウキを抱きしめる。
おっと、少し力み過ぎてしまいましたか。ユウキが呻いています。
「……きっと、女の子が放っておきませんね」
寝苦しいのか、少しだけ表情を歪めるユウキを見つめる。
綺麗な顔立ち。元々可愛かったのだから、当然といえば当然だ。
……実務研修で、この姿をクラスメイトの皆さんにも見せたのでしょう。
その事について詳しく聞きたいと思うも、今のユウキにそれを聞くのは……酷だ。
みんな、良い子でした。良いお友達でした。よく手伝い、よく笑い、時には道を踏み間違いそうになり、そして自分に出来る事を必死に考える、賢くて勇気のある子供達。
皆さんがどう成長していくのか。ユウキとどんな関係になっていくのか。
もしかしたら、ユウキと結ばれる子も出てくるのかもしれない。
そんな風に考えていた。
けれども……ユウキは、全てを捨てて私の元に来た。来てしまった。
私は貴方に何を返せますか? 親の愛だけでは足りませんよ、これでは。
ユウキに何が出来るのでしょう。
「……私は、全てを捧げるつもりですからね」
頬に小さく口づけをする。
胸がドキドキと強く脈打つ。
珍しい、そして少しだけ間違った感情。
今のユウキがあまりにも大人びて見える所為です。
私はユウキが目覚めるまで、もう少しだけこの幸せな時間を堪能しようと、もう一度瞳を閉じる。
強く、強くユウキの身体を抱きしめながら。
「――さん、イクシアさん」
「……はい」
「そろそろ起きましょう、あまり沢山寝ると夜眠れなくなりますから」
「そうですね……ん-!」
どれくらい時間が経ったのか、ユウキに揺り起こされる。
最後にもう一度だけユウキを強く抱きしめ、毛布から抜け出した私は、隣にいるユウキを改めて見つめ『ああ、本当に私の元に来てくれた』と噛みしめる。
「ユウキ、お腹は空いていませんか? ここのお食事はとても美味しいと評判ですよ」
「あ、そういえば……かなりお腹、空いてますね。もう夕食時ですし、行きましょうか」
ユウキの手をしっかりと握り、宿を先導する。
少しだけ照れ臭そうな顔をしていますが、今日はダメですよ、ずっとこうです。
宿施設から飲食施設に移動し、マスターさんに席は空いているかと聞くと――
「お、おお……勿論、特等席をご用意しますとも。……良かったですね、再会出来て」
「はい、本当に」
「テラス席、そっちの宿泊者用の方が空いてますからどうぞ」
「そういえばそちらで頂くのは初めてでしたね」
「ええ、普段は夜限定の席です。お客さん、夕食はいつも港町の方で摂っていたようですから」
「そうでしたね。港が閉まる夜までずっと毎日通っていましたから、自然と朝食以外は港の方で頂いていました」
「……イクシアさん、まさか毎日朝から晩まであそこに……?」
「はい。朝食を早めにいただいてから、すぐに朝一のトラムウェイで港に」
日課でした。ユウキを乗せた船がいつ来ても良いように、と。
「……なんだか、申し訳ないです」
「いいえ、いつか必ず来ると私には分かっていました。だから、待つ時間だって……楽しみの一つだったんですから」
「……お客さん、とりあえず席の方に……ここまで露骨にこう、目の前でのろけられると、私も堪えてしまいますよ」
「も、申し訳ありません。 イクシアさん、行きましょう」
のろけ……これも一種ののろけなのですかね?
「ユウキ、ここは山の中ではありますが、港から新鮮な食材も届くので、山と海、その両方の幸を堪能できますよ」
「おー! 聞いた事のない食材がいっぱい載ってますね」
「ふふ、実は私の方はなじみが深かったりします。やはり食材の名前は、そうそう変化はしていないようですから」
私は、どこか懐かしい食材の名を見ながら、興味深い調理法の一品を選ぶ。
「ふむ……『サン・ポルチーニのこんぶっぽいの蒸し』これにしましょう。確かこのサン・ポルチーニは有名なキノコです。昔は高級食材だったんですよ」
「へぇーじゃあ俺も同じ物にします」
遠く離れた地。そして……私がかつて生まれ育った大陸。
そんな場所で、愛する息子と共に、美しい夜空を眺めながら夕食を取る。
初めてです。こんなに満たされた夕食、初めてです。
ただ幸せなのではない。このこみ上げてくる充実感は、一体なんなのでしょう。
「ユウキ。もう一度、私の口から約束します。いつか……いつか全てが終わったら、二人で北海道に行きましょう。それだけではありません、沖縄だって、京都だって。ユウキが以前行ったフロリダだって」
「……俺、地球に戻れるんですかね」
「はい、必ず。私達の行いが悪だとは思っていません。もしも悪であるのなら……リョウカさんがそれを止める。そして正しい行いは、必ずいつか報われる。だからユウキ……貴方は何も失ってなんかいない。一時的に置いて来ただけです。今ならそう言えます」
「……置いて来ただけ。はい、俺もそう思います。いつの日か……必ず」
イクシアさんとのディナーは、正直緊張で味がよく分からなかったし、周囲からの視線に身の危険を感じたので、そこまでリラックス出来ませんでした!
いやぁ……後で店主さんに聞くと、イクシアさんって港だけじゃなくてここの利用者からもかなり注目されてたらしいっすね。
まぁ美人だし。同じ空間にいたら嫌でも意識するレベルの美人だし。
実際、イクシアさんが来ると宿の喧騒が一気に静まる事なんてザラなんだとか。
で、そんな彼女の待ち人である俺が来た事で、隠れファンたちからのヘイトを一気に集めてしまったと。
いいぞ、そういう勘違いどんどんしてくれ。店主さんも俺の事恋人だと思ってるみたいだし。
ともあれ、再会の一日が無事に終わり、今度は昼寝でなくしっかりと眠ろうとしたところで、今度も一緒に眠る事になってしまった。
「今日は私の言う事を聞いてくださいね」
「……はい」
また、半身にイクシアさんのぬくもりを感じながら、緊張に固くなる身体を落ち着ける様に深呼吸をしつつ、瞳を閉じる。
……抱き着くというか、もはやしがみ付いてるんですが……。
翌朝。眠りが浅かったのが自分でも分かる。緊張して眠れなかった。
去年、俺の全身を癒す為に、毎晩イクシアさんが眠りながらも魔力を浸透させる為にくっついて一緒に眠っていたが、今回はそういうのではないぞ……。
手も足も、絡みつくようにこちらに回され、本当に『恋人』のように一緒に眠っているのだ。
こんなん辛すぎる……! ある意味生殺しですが!
「ああ、ユウキ。目が覚めたのですね? 今離れますから」
「おはようございます。……さすがにちょっとこういうのは今日から控えましょう……」
「……嫌でしたか?」
「嫌じゃないですが、こう、なんというか照れ臭いというか」
「……では、明日からは二人部屋に移動しましょう。部屋は一緒で構いませんよね」
「それなら大丈夫です」
照れるけど、まだ精神衛生上助かります。
朝食は別館で食べる事になり、俺とイクシアさんは昨日の会議室へと向かう。
ここ、普通に談話室や食堂としても利用できるみたいです。普通に先客として、六光とここのメンバーと思われる人間が食事中でした。
「「おはようございます」」
昨日、ここの幹部らしき人が俺の存在について懐疑的……というかモロに敵対意識を向けて来たのでちょっと気まずい。まぁあの人たちはここにいないみたいだけど。
「おお、坊主にイクシア姐さん。おはようさん、先に頂いてる」
「姐さんって、なんだよそれ」
「……いやだって、格上の相手にはなぁ? リオの姐さんだってそうだし」
あ、なるほど。昨日ロウヒさん締め上げてたもんね。
「おはようございます。昨日はお騒がせしました。改めまして、イクシアと申します。ここでは二カ月程前からお世話になっています」
「こりゃご丁寧に。俺は六光って呼ばれてるしがない傭兵ですわ。これもコードネームなんですがね、もう俺の名前みたいなもんなので」
「なるほど、では六光さん、宜しくお願いします」
さて、とりあえず六光とは問題なく挨拶を済ませられたが……他の面々は……。
「リーダーが連れて来た兄さんだな。……そうか、イクシアさんの待ち人がアンタだって訳か」
「まだ、貴方と打ち解けられないメンバーもいるわ。けど大体の境遇は知る事となった。貴方がした行いについては……そうね、プラスマイナスで僅かにプラスに傾いてるってところかしら」
「……感情論を抜かせば、貴殿は歓迎すべき同胞なのだろう。だが、人は感情を持つ生き物。私も含めて、まだ多少懐疑的な者もいる事はどうか容赦してもらいたい」
六光と相席していた三人がそれぞれそう語る。
だよな。ひとまず追い出されたり敵対されるよりはだいぶマシだ。
俺とイクシアさんは、昨日破壊してしまった窓辺に座る。
今は板が打ち付けられているので景色は楽しめないが、なんとなく。
「ユウキ、朝食が済んだらリョウカさんのところへ向かいましょう。今日の予定を聞いておかなければ」
「ですね。さてと……ここってバイキング形式なんですね」
「宿の食材の余りをこちらに回してくださっているみたいです。私は宿の方とこちらの方、日替わりで食べていましたよ」
用意されていたメニューは、いかにも王道といった朝食メニュー。
厚切りのハムのソテーに、トマトサラダ。焼いたウィンナーにグリーンサラダ。
スクランブルエッグか、綺麗に焼かれた目玉焼き。さらに食パンとコッペパン、バゲットまで用意されている。
……凄いな、どれもしっかり出来立てだ。普通に美味しそう。
「ユウキ、好きな物を食べてくださいね」
とりあえずですね……肉だ肉。ソーセージとハム頂きます。
「……美味しかった。でも食べ過ぎた……」
「まだ、その身体に完全に慣れていないのですね、恐らく」
もっと食べられると思ったら、そこまで入りませんでした。
残すのもあれだし頑張って食べたけれど。
「きっと気疲れもしているのでしょうね。昨夜の物がまだ胃に残っているのでしょう」
「っと、おはようございます、リョウカさん」
「おはようございます」
食べ終わると同時にリョウカさんもやってきた。よかった、話を聞きに行く手間が省けた。
「今日の予定を教えてくれますか? 打ち合わせ……作戦会議でしょうか」
「その予定ですが、どうやらロウヒが外部組織の人間の相手をする必要があり、戻るのは夜となっております。ですので、夜までは自由にしてくださって結構ですよ」
「外部……他の勢力でしょうか」
「ええ。今回の一件は、一応ですが協力関係にありました。その事後報告を聞きにやって来たのでしょう」
なるほど。じゃあ今日は夜まで自由行動か。
「では、私も朝食を頂いてきますね」
「おすすめは厚切りのハムです。美味しかったですよ」
「……そんなー」
え、今なんて?
「ユウキ、自由行動なのでしたら……どこかに出かけませんか? ここは観光地としても有名だそうですし」
「そうですね。じゃあ……近くにある湖、山の上にあるらしいので行ってみたいです」
昨日、リオちゃんに教えて貰った場所だ。
「なるほど、山方面は私も行った事がありませんでした。では行ってみましょうか」
山村は、まだ午前中という事もあり、人混みもなく、山特有の澄んだ冷えた空気が爽やかな気分にさせてくれた。
通りでは屋台の組み立ても行われており、今からもう観光客相手の準備をしていた。
空が近い。秋って空が高くなるって思っていたけれど、山の上はやっぱり空が近い。
ここって標高結構高かったんだよな。
「イクシアさんも生前、ここに来た事があるんですか?」
「いえ、当時はまだ山はここまで開かれていませんでした。漁村も、あの場所にはなかったと記憶しています。元々私は大陸中央に住んでいた身ですので、はっきりとは言い切れませんが」
「なるほど、じゃあお互い初めてですね」
なんだか嬉しい。北海道ではないけれど、こうして二人で観光名所を見て回る事が出来るのは。
途中、短距離のロープウェイを使い、高原湖広場と呼ばれる場所にやって来た。
話の通り、なんだか湿地帯のような場所に、沢山の木橋の遊歩道が作られている。
俺は行った事がないけれど、日本の尾瀬もこんな場所なんだろうか?
「あまり見たことのない植物が沢山ですね。夏だともっと沢山の葉や草に囲まれそうです」
「そういう意味ですと秋の今はベストのタイミングでしたね」
湖にはどんな生き物が棲んでいるのか、紅葉が散ったらもうそろそろ冬だな、湖は凍るのだろうか。そんなとりとめのない会話を楽しみながら、朝の湖を見て回る。
嬉しい。イクシアさんが傍にいる。それだけで楽しい。
「ユウキ、あちらに東屋が見えます。少し休憩していきましょうか」
「分かりました。あそこも景色が良さそうですね」
湖の畔にある東屋。なんとも絵になるスポットだ。
が、そこへ近づくと、先客がそこで休憩中だという事に気が付いた。
しかも、あの後ろ姿には見覚えがある。
「リオちゃん、早いねこんな時間に」
「ん? あ、ユウちゃん! と……お母さんですか」
「先日は申し訳ありませんでした。ユウキの母のイクシアと申します」
リオちゃんが、どこか物憂げに東屋の中で腰かけ湖を眺めていたのだった。
「早い時間はここも静かだからね。人が増えたら宿に戻るよ」
「そっか」
「ふむ……」
すると、リオちゃんと俺のやり取りを見ていたイクシアさんが、何か気になるところでもあったのか、不思議そうな表情を浮かべていた。
「イクシアさん?」
「ユウキ、この方とは随分親し気ですね。よろしければお名前をお伺いしても」
「あ、忘れてました。リオと言います。ユウちゃんとは……結構長い付き合いなのかな」
「言われてみれば……一応リオちゃんは今この村にいる中じゃ一番付き合いが古いのか」
思えば、俺がこの世界で生き始めてから一月足らずで出会った相手だ。
それに全ての始まりの人でもある。しっかり紹介しないとな。
「イクシアさん。この人が、俺が前から言ってた『女の子』のリオちゃん。今はグランディアにいるから俺と同じで身体が成長している姿なんだ」
「まぁこっちが本来の姿……だとは思うんだけどね。でもあっちで過ごした時間が長くて……ちょっと子供感覚が抜けないんだよね」
「まぁ……では、前に言っていた病室に忍び込んだ子や、訓練施設で敗北した相手というのが……」
「あ、私です私。ん-……ユウちゃんのお母さん美人さんだね」
「だろ? 自慢の家族」
「まぁ……有り難うございます」
なんだかリオちゃんが敬語なのって新鮮だ。
「俺が、東京に出ようと思えたのも、全てはリオちゃんの言葉があったからなんだ。つまり……イクシアさんと出会えたのも、きっかけはリオちゃんなんだ」
「まぁ! では私が家族をまた持てたのは……リオさんのお陰、なんですね」
「ううん、私はただユウちゃんに選択肢を提示しただけ。それを選んで、その果てにユウちゃんは今、お母さんとここにいる。それだけだよ」
どこか遠い目をしながら、リオちゃんはそう語る。
「お母さん、昨日はロウヒの事凄く怒ってた。でも、私だって同罪なんだ。私はね、もっともっとずっと前から、ユウちゃんを私達の方に迎え入れようと思ってた。……いつか、ユウちゃんは必ず地球で居場所を失う。そう思ったから」
「……それは、どういう意味ですか?」
「ユウちゃんは私と同じに見えた。私は過去に孤立し、最後には居場所を失ってここに流れ着いた。でも、違ったんだ。ユウちゃんには……導いてくれる大人が傍にいた。その違いに私は気がつけなかったんだ」
「リオちゃん……」
ニシダ主任。リョウカさん。イクシアさん。それだけじゃない、爺ちゃんや婆ちゃんも俺にはいた。親父だって、ほとんど記憶はないけど、残してくれた財産は俺の生活基盤を作ってくれた。
リオちゃんには……そういうのがなかったのだろうか。
「化け物は、人の世界では生きていけない。私はこの強さと折り合いをつけて、その果てに力を役立てる場所に流れ着いた。ユウちゃんは、その力を誰かの為に、身近な人の為に使いたいって強く思う事が出来たし、傍にいてくれる人が沢山いる。だから私とは違った。なんだか今になって、ムキになってた自分が腹立たしいよ。秋宮リョウカを名乗るあの女だって、反りは合わないけど……悪い人間じゃないって分かったしさ」
彼女も、ずっと思う事が、ため込んでいた事があったのだろう。
悩みがあるのは俺だけじゃない。きっと他の皆だって、こういう活動をしている以上、大きな悩みを抱えてしかるべきなんだよな。
「……リオさん。でも少なくとも今は、貴女の周りには助けてくれるお仲間が沢山いるはずです。それに……うちの息子は、恐らくリオさんの為ならばどんな事だってすると思いますよ。ユウキが異性とここまで親しくしている姿は初めて見ますから」
「え、ユウちゃんマジ? 私特別扱いされてる?」
「いやぁ……だってファーストコンタクトがあの姿だったしなぁ」
もう完全に友達感覚というか、親戚の娘っ子というか……。
まぁ実際には年上だったけど。
「イクシアさん、いつか地球でもリオちゃんと会ってください。外見一〇才くらいの子供ですから」
「まぁ! それは楽しみが増えましたね! リオさん、その時は抱っこさせてくださいね」
「ちょ……うーん……いいよ、うん」
少なくとも、イクシアさんの方にはもう蟠りはなさそうだな。




