後編
パタパタ足音がして柳原先輩が戻って来た。
「長嶺、こっちも皆んな無事だったよ。あ、それ私もやってみたけど無理だわ。記録取れない。でも三好さんのはできるでしょ」
鳴り止まないアラームの中で器械をいじる私に言う。
「先輩もやってみたんですか?」
「うん。あー、もう何だろね?トイレとかも全部見て、倒れてる人もいないし。他の病棟からの電波干渉とか?こんなの見たことない。別のに切り替えるか!」
ナースステーションにもう一台同じモニターがあって、今そっちは使っていないので電源は落としてある。
「はい。じゃあそっちに……、あっ!」
「あれっ?」
「消えた……」
黒い画面に乱れた緑のラインの波形がふいっと消え、けたたましく鳴り響いていたアラーム音が途切れた。
午前二時五十七分。
心電図モニターの画面は元どおり、規則的に流れる三好さんの波形とピッ、ピッという緩やかなテンポのタップ音だけになった。
「気持ち悪い!」
柳原先輩が身震いする。
「はい……」私もブルッとした。
そのまましばらく立ち尽くしていたらパタパタ足音がして、休憩に入っていた介護士の石田さんが戻って来た。
ステーションの中で突っ立っている私たちを不思議そうに代わる代わる見つめる。
「休憩戻りましたー。え、何かありました?」
「おかえりー。石田さーん、あなたのいない間に怖いことあったよー。知りたあい?」
我に返った柳原先輩がしたり顔で絡むと、怖がりの石田さんは後ずさる。
「え、いやですよー!今は絶対やめてください、勤務終わってからならまだしも。ねえ、長嶺さん」
「うーん。怖いっていうか謎です、これは」
一体何だったの?
さっきまでのバタバタが嘘みたいに静かな夜の時間が戻っていた。
「さ。長嶺、休憩行きなよ。なんか気をつけておくことある?」
柳原先輩に後を頼んで私は定時の休憩に入った。
午前七時過ぎ。
この勤務からもあと二時間で解放される、もう一息!
ナースステーションで朝の検温の記録をつけていたら電話が鳴った。
あ、外線?
「おはよう長嶺さん、お疲れ様。患者さん方はお変わりない?」
電話は病棟科長からだった。
「はい。皆さん特にお変わりなく経過しています」
「よかった。急だけど、連絡ね。今から九時に外来が開くまで、ドクターコールは野上先生にして欲しいの。当直の佐竹先生じゃなくて。いい?それを柳原さんにも伝えて下さい」
今から二時間だけ呼吸器科の野上先生に当直をタッチするってことか。
佐竹先生、他のフロアで急変した患者さんがいたのかな?
「はいわかりました。佐竹先生、手が離せないんですか?」
「それが違うの。まだ詳しくは言えないんだけど、当直中に倒れられたみたいで……。私も早めに出るからそれまでよろしく頼みますね」
倒れた?佐竹先生が!
「柳原さん!先輩!」
電話を切ると柳原先輩を探して私は廊下に飛び出した。
窓の外ではパトカーのサイレンが鳴り、それがだんだんと近づいて来た。
佐竹先生が急死した。
医局のパソコン机の前の床で、院内用の携帯電話を握ったまま倒れているのを朝出て来た研修中の医学生が見つけた。
発見された時はもう息がなく体が冷たかったらしい。
変死ということで警察が呼ばれたのだった。
佐竹先生の死因は脳出血。
そして亡くなったのは午前二時から三時頃らしいと後になって知った。
そんな!
じゃあ最後に顔を合わせたすぐ後ってこと?
先生、亡くなる少し前この病棟に来てくれていたのに。
せめて先生の手に握られたままの携帯電話が、どこかのフロアに向けて発信されていたら……。
結局あの日は静かな夜勤で、あれからどこのフロアも患者さんの容体は安定していたのだ。
それは幸いなことだけれど。
もしも。
どこかのフロアから佐竹先生にドクターコールしていたら、院内電話が繋がらないのを不審に思って警備の人に呼びに行って貰っただろう。
あの夜おかしな波形が出た心電図モニターは点検に出された。
結果は異常なし、だけど別の器械を使うことになった。
「でも、それじゃあ何の説明もつかないよねえ」
「そうですね」
とある日勤の日、勤務が重なった柳原先輩とお昼を食べながらボソボソ話す。
「他のフロアではモニターには何のトラブルもなかったって言うし。長嶺、あれってもしかして佐竹先生の最後のメッセージだったのかなあ?」
「あれが誰かの波形かはっきりしてたら間違いなくドクターコールしましたよね。でも先生が倒れていたら、その患者さんが助からなかったかも、ですよね……」
きっと院内緊急招集して応援を呼ばない限り、救命はできなかったろう。
二人してため息が出る。
眉を寄せて柳原先輩が言った。
「あの時、間違いでも何でもいいからドクターコールしちゃえばよかった?新人みたいに『先生、変な波形出てますー。何だかわかりません、すぐ診に来てくださーい』ってさ」
間違いでも、叱られても?
けれど私たちは素人でもなく、まっさらの新人でもない。勉強し、幾ばくかの経験も積んだプロなんだ。
『プロはプロの言葉で話さなくてはいけない』
以前、佐竹先生が言っていた言葉だ。
先生と、こんなあっけない別れになるなんて。
『半べの美緒ちゃん』の話を思い出すと、すごく寂しい。
あと十分でお昼休みが終わる。
そうしたら私達はまた、様々なアラーム音やナースコールや、ざわめきの行き交う内科病棟に戻らなければならない。
完
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