第六話
元からそこにあったのに、
たった今気がつくというのは不思議な体験である。
はるひの信仰を占める割合が六割ほどとなり、
元来持っていた俺様の主義や信念を思い出す。
それらは新たに発生したものではなく、
最初からそこにあったものだ。
記憶喪失の人間が記憶を取り戻した感覚に似ているのかもしれん。
なに? 記憶喪失になったことがないからわからないって?
だったら試しに橋の下で一晩過ごしてみろ。
間近の雨の音で目を覚ます感覚が、まさにそれなのだ。
今朝方起きた時は、天井の橋、すぐ横を流れる川に雨を打ちつける音が
大量の落花生を降らしたかのような、やかましさだった。
頭の芯にガンガン硬い音をぶつけられる、節分の鬼の気分である。
二日酔い(もう三日酔いだが)のせいもあろうが、
あの雨の音に囲まれて、よく一晩寝られたと思う。
風情もクソもない。さっさと橋の下から脱出しなければ。
人間から姿が見えないよう透明化したところで
神も雨には当たる。
信仰銀貨を使って傘でも生成しようかと思ったが、
はるひに会う度、臭い臭い言われていたので、
そのまま歩くことにした。
雨でにおいが少しでも流れることを期待して。
びしょ濡れになりながらこう、街行く人間を見ていくが
馬が車に変わるほど科学が発展(巫女さんの口癖がうつったか?)
しても傘は昔から変わらない形状だ。
これ以上発展のしようがないのかもしれんが、
例えば飛行機みたいに傘がジェット噴射して
飛べるようになったら移動も楽になると思うね俺様は。
過去から現代、未来の街並みを思い描き、
変わりゆく景色の中で、それでも雨と人間だけは変わらなかった。
藍色のじんべえを腕にべったり張り付けながら、
いつもの十字路に辿り着く。はるひの姿は見当たらない。
周囲に屋根のあるところを探すと、小さなバス停を見つけた。
プラスチック屋根の下に横長いペンチが一つ。
人の気配はない。
透明を解いてからベンチに座り、一息ついた。
変なにおいがしないか、鼻をくんくんさせてみるが
雨のにおいしかしない。
そういえば、雨のにおいって雨の中を歩いている時は感じないんだよな。
雨の降り始めとか、雨上がりとか、
こういう雨宿りしている時には雨のにおいを感じるのに。
何でだろう、においの中心に居るとにおいに気がつかないんだろうか。
俺様自身が俺様の臭さに気づかないように。
ということは、臭く思われないようにするためには
においの中心まで来て貰えばいいんじゃねえか?
犬が道端に転がっている糞をわざわざかぐみたいに……、
って俺様は糞じゃねえよ!
「あっ、お父さん!」
くだらない考えに振り回されていると、
突然声をかけられた。
俺様をお父さんと呼ぶ人間は一人しか思い浮かばない。
「おう、はるひか」
手をあげて返事をすると、
はるひは差していた赤い傘を振り回しながらやってきた。
そして嬉しそうに、
「お父さん、相変わらず臭いね!」
なんて言ってきやがった。
「うっせえ」
雨でにおいは流れなかったらしい。
が、はるひは鼻をつまみながらも俺様の隣に座る。
臭いのは良いのかと横を見ると、無防備な笑顔を向けてきた。
「ねえねえ、早く笹舟流しに行こう!
これだけ雨があれば、岩にも引っかからないよ!」
「お前さんは馬鹿か!
こんなどしゃ降りで流したら、すぐに転覆する」
「そうなの?」
「そうなの。浸水はするし、小川の流れも荒々しくて危険だ」
「じゃあ、晴れの日まで我慢だね」
今日はえらく物分りの良いはるひだった。
道端の草がもう嫌だーと声が聞こえるぐらい、雨に打たれている。
たまに通る車がそれをあざ笑って、水を飛ばしていく。
雨雲は意地悪な顔で、おらおらおらと降らしていく。
そんな自然の声にしばらく耳を傾けていたのだが、
そういえば、はるひには聞こえているんだっけ。
雨の音しか聞こえないのなら、退屈かもわからん。
「学校は、楽しいか?」
背負っている赤いランドセルを見ながら聞いてみた。
「お父さんみたいなこと言う」
「まあ俺様ははるひのお父さんみたいもんだからな」
「あのね、お父さん死んじゃったの」
通り雨のように、はるひは突然そんなことを言い出した。
お父さんを生き返らしてほしい、
そんな願いで息を吹き返した俺様だから当然知っている。
「そうか」
「そこの道路で交通事故にあったの」
はるひが指差したのは、俺様がぶっ倒れたあの十字路だった。
あんなかんかん照りの道端で祈っていたのは、
そういうことだったのか。
「交通事故、か。多いもんな、最近」
昨日、巫女さんが農業信仰の減りを引き合いに出していたけど、
交通祈願は年々増えているように思う。
昔は滅多になかったのに、今はどこの神社でも見かける。
意地汚い奉られた神共に目をつけられたってことは、
それだけ交通事故に悩まされる人が多いわけで。
「急にね、ほんとに、急に、いなくなっちゃったの」
ぼんやりとしたはるひの言葉は、
一言一句、目先の雨に打ち落とされていった。
「……そうか」
「お父さん、どこに行っちゃったのかな」
それは神でもわからんというか。
「さあな。黄泉の国だの極楽浄土だの輪廻転生だの
いろんな話を聞くけどよ。
結局のところ、死んだ人間にしかわからんのさ」
「じゃあ死んでみてもいい?」
はるひの顔を見ると、くすりとも笑っていない。
雨の音が急速に止んでいく。時が止まっていく。
俺様の前髪から雫がぽつんとベンチに落ちた。
「そうすると、二度とはるひとして生きられないぞ。
お父さんの娘のはるひとして。
お父さんのはるひじゃなくなるのは嫌だろ?」
「じゃあじゃあ、もうお父さんに会えないの?」
震えるその言葉は、雨の間をすり抜けていく。
俺様は、はるひの頭に手を置いた。
「一つ、人間の良いところを教えてあげよう!」
「良いところ?」
「そいつはだな、人間は想像力が豊かってことだ。
早く移動したいと想像したから、車ができて、飛行機ができて」
「車のせいで、お父さんはいなくなっちゃったの」
はるひは雨の音にも負けそうな静かな声で言った。
「えっ?」
「車のせいで、お父さんは死んじゃったの!」
目に涙を溜めて、はるひは俺様を睨みつけてきた。
俺様に殺されたと言わんばかりに。
「ま、待て、この話には続きがあって」
「お父さんは死んじゃったの!」
ドンッ、とはるひは突然、俺様を突き飛ばした。
急な衝撃に耐えきれず、ベンチから転げ落ちる。
「いてて、神様になんて罰当たりな。
じゃなくて、おい何するんだ!」
怒ろうと身体を起こすと、
既にはるひは雨の中を駆け出した後だった。
ベンチには水滴まみれの赤い傘が残されていた。