第三話
その夜は、赤い屋根の小さな屋台の下、
巫女さんの出す濃いい芋焼酎を悪戦苦闘しながら何杯も飲んでいった。
おかげで一夜明けた本日は胸焼けが酷い。
ドロドロした家庭の事情を飲み込むのがこんなに辛いなんて。
完全に二日酔いだ、おええ。
何度目かの吐き気をなだめるため電柱に身体を預ける。
「あっ、昨日の臭いおじさん」
顔を上げると、
あの女の子が怪訝な面持ちで立っていた。
辺りを見回すと、昨日ひん死で倒れた十字路だ。
愛憎信仰を交わしたとは言え、
未だに俺様はこの子の願い八割で構成されている。
身体が無意識にこの子に会いたがっていたのか。
「よ、よお。昨日はいきなり、すまなかった」
俺様は無理くり笑顔を作って、片手をあげて謝った。
赤いランドセルから伸びた不審者お知らせ用の紐が目につく。
前に神の留守を狙って信仰を漁っていたところを、
幼い巫女さんに出くわして警察を呼ばれたことがあったっけ。
あのぴよぴよぴよと胡散臭いひよこの鳴き声は二度と聞きたくない。
昨日はいきなり抱きしめて、よくあれを引かれなかったと思う。
「おじさん、神様って言ってたのは本当?」
女の子は赤いランドレスの肩ひもをぎゅうっと握り締めて
上目遣いで俺様に聞いてきた。
もしかして、俺様が神様だって名乗ったことを信じかけてる?
「うーん」
俺様は女の子をじいっと見つめた。
風に揺れる前髪、その間から覗く大きめの瞳、
ぎゅうっと結んだ小さな口。
この子の信仰を多く含んでいるせいで、
顔を見ているだけでひきつけられそうになるが、
落ち着け俺様!
こんな状態で神と人の関係を白日の下、明確にすることの意味を考えろ!
この子の守護神として身を落としかねんのではないか?
たった一人の人間に付き従う、
そんな姿を神社や教会で奉られている神共に見られてみろ。
何が、風の向くまま気の向くまま旅する神だ!
のたれ死んだ方が百倍マシだ!
「実はな、俺様は神様ではないんだ」
「えっ」
女の子の瞳が揺れ動く。
「俺様はな、浮気をしてしまって妻と子どもに家を追い出された、
行く場所を見失った、甲斐性もクソもないおじさんだよ」
愛憎信仰に引っ張られてろくな身分が思い浮かばなかったが、
外から見て、昼間から二日酔いで苦しんでいる俺様の様子は相応だった。
「浮き輪を膨らませただけで家を追い出されたなんてかわいそう!」
がくっ、と俺様はまたしてもこの十字路にずっこけた。
「だ、大丈夫?」
心配そうに俺様を覗きこんでくる。
単なる聞き違いじゃなく、
浮気の意味を理解できていないのだろう。
「そんなことよりお前さん、何かやりたいことはないか?
俺様に手伝えることなら、何だってやるぞ」
俺様は地べたにあぐらをかいて聞いてみた。
「やりたいことは、もうない」
急激に声のトーンを落として、女の子は俯いてしまう。
「もうない?」
「お父さん、いなくなっちゃったから」
「そうか。俺様と同じだな。
家族がいなくなっちゃうのは辛いよな」
「うん」
実際のところ、
家族がいなくなる悲しみなんぞ俺様自身にわかるはずもないのだが、
今の俺様はこの子の悲しみの権化みたいなもんだ。
この子の胸の痛みは、俺様の胸の痛みでもある。
「こういう時は痛みを分かち合うってのが、
人間の常套手段らしい」
「じょうとうしゅだん?」
「えーと、昔から人間がやってきた方法ってことだな。
どうしようもない悲しみに暮れた時に、
同じ気持ちの人が近くに居たら、一緒にその悲しみを乗り越えよう!
ってね」
らしくもなく、腕を振り上げて語ってしまった。
「おおー」
そのかいはあったのか、女の子は目を丸くさせている。
「よし、俺様がお父さんの代わりになってやろう!
何かお父さんとやりたいことはないかい?」
「えっとね、えっとねおじさん!」
「おじさんじゃない! お父さんだ!」
俺様が注意すると、
女の子は何がおかしいのかお腹を抱えて笑った。
「あはは、おじさん全然お父さんじゃないよ?」
「お父さんじゃなくても、お父さんだ!」
「ぷぷっ、意味わかんない!」
快晴の空の下、赤いランドセルを弾ませて女の子が気持ちよく笑う。
この景色を見るだけで、なんだか安心する。
「おじっ、お父さんはふねって知ってる?」
ひとしきり笑ってから、女の子が聞いてきた。
「ふね? って、川にぷかぷか浮いてるヤツか?」
「そう! 私、お父さんとふねに乗ってみたい!」
「ふね、船かぁ」
俺様は腕を組んで、昨晩見た屋形船を思い出す。
いつも俺様が船に乗るときは、
人間に見えない姿になって、こう、神様として運んで貰っていた。
それを人間の女の子を連れて
俺様も人間として乗るためには、どうしたってお金がいる。
「ダメそう?」
考え込んでしまった俺様の様相から、
何やら良くない風向きを感じ取った女の子は、
不安そうに見つめてくる。
子どもはこういうのに敏感だからな。
「ダメじゃないが、俺様は今、人間のお金を持っていない。
そうだなー、近くに竹がたくさん生えているところはないか?」
俺様は立ち上がって、周囲を見回しながら聞く。
「たけ? 竹なら学校の近くにいっぱいあるけど」
「竹があれば、船に乗れるぞ」
「ほんと?」
ぱあっと顔を晴れやかにさせる。
「そうだ。あとは……」
「あっちに行ったところにすぐあるから!」
俺様の返事を待たずに女の子は駆け出した。
せっかちな子どもだ。
「おいっ、お前さんあんまり走ると」
まあ、子どもってのはあれぐらい元気じゃねえとな。
太陽が眩しい。
蜃気楼の中に消えていきそうな女の子に向かって、俺様は叫んだ。
「おいお前! 名前、なんて言うんだ!」
離れたところで女の子は振り返った。
「は、る、ひ!」
その名は空に伸びた飛行機雲を流星のごとくなぞっていった。
風のように走っていくはるひを見失わないよう、
風のように歩いていくと、見事な竹林へと辿り着いた。
「ね! 竹がたくさんあるでしょ!」
指を差しながら元気いっぱいにアピールするはるひ。
成長した竹が密集している。
茶色い落ち葉が敷き詰められた地面には
ぽつりぽつりと日が落ちていた。
「十分すぎるほどあるな」
しっかし、竹林というのはよくある森と一線を画すというか、
雰囲気が別物だ。
どの竹も姿勢正しく真っ直ぐに伸びて、
それでいて表面はつるつる艶がある。
風が吹くと、小首を傾げるようにゆるりと全体で揺れて
黄緑色の笹が可憐に騒いだりする。
「ねえねえ、竹で船を作るんでしょ?」
俺様が竹林の声に耳をそばだてていると、
はるひは竹をぶらんぶらん揺すりながら聞いてきた。
かさっかさっ、と小さな葉が落ちる度にはるひも竹も笑い合う。
「お前な、竹なんて重たいし、切りにくいんだぞ?
俺様たちだけで船なんて作れるわけがない」
「えー、作りたい、船、つくりたーい!」
さらに大きくゆっさゆっさと揺らして楽しそうにわがまま言ってやがる。
こういう眩しい奴らに囲まれるといつもは蒸発しているんだがな。
俺様は落ちている笹の葉を拾い上げた。
「船は作るぞ。笹舟だ」
「ささぶね、知っているよ!」
「えっ?」
「前にこどもの日に作ったもん。
笹団子の笹でお父さんが作ってくれたの!」
「へ、へぇ、そうなんだ」
「それでね、本物の船に乗せてくれるって、
約束したのに……」
急に元気をなくして、うつむいてしまう。
お父さんの思い出に触れて、懐かしくなったのか?
ともかく元気にしてやらねば!
「そうは言ってもお前さん、笹舟の作り方はわかるのか?」
「えーと、うーんと」
はるひは悩みこんだ。
よしっ。
「ちょいと見てな」
まずは葉っぱの両端を指の第二関節ぐらいまでのところで折って……。
懐かしいな。
これを教えてくれたのは、お寺の見習い坊主だったか。
信仰をつまみ食いしていたのを仏に見つかって
木に吊るされて死にそうだったのを
(思い返す記憶は死にそうなものばかりだ)
経の練習をしていた見習い坊主に助けられて、
その慰めに笹舟の作り方を教わったのだ。
今でもこうして笹舟を折っていると、
あの妙に棒読みな(一時人の間で流行った宇宙人の声真似みたいな)
経が聞こえてくるので、自然と神妙な面持ちになる。
「ほら、これが笹舟だ」
出来上がったものをはるひに渡すと、
宝物を見るみたいに目を輝かせてため息をこぼしていた。
「すごいすごい! もう一回! もう一回作って見せて!」
「意外と簡単なんだけどな、
まずはナンマイダーって言ってみろ」
「ナンマイダー」
「違う違う。ナンマイダー!」
「ナンマイダー!」
うろ覚えの経を叫ぶところから笹舟作りは始まった。
大きな風が吹いて竹林が少し傾いた。
いくつか笹舟を作り、俺様たちは近くの小川まで行く。
しかし、ここまできて問題が発生した。
「笹舟、全然流れていかない!」
「やっぱり、水かさが少ないな」
このところ快晴続きだったようで、小川を流れる水は少なく
ごつごつむき出しになっている岩に邪魔されて
ちょっと進んだだけですぐに笹舟は止まってしまった。
「もっと大きな川はないのか?」
「うーん」
はるひは考え込んでしまう。
日も大分傾いているし、都心の方まで連れていくわけにも。
俺様も何か案はないかと思考を巡らしていると
むん、と初夏の風が明日の天気予報を届けてくれた。
「今日はもう遅いし、明日以降にまた考えよう」
「えー、やだよー! お父さんともっと遊びたい!」
そう言われるともっと遊びたくなるじゃねえか。
「ダメだ。あんまり遅くなると、お母さんが心配するだろ?」
「……うん」
俺様ははるひの頭を撫でてやる。
「良い子だ」
「やっぱりお父さん臭い」
「なんだとー、臭いお父さんでも我慢しろ! 我慢!」
髪の毛をくしゃくしゃにしてやると、
はるひはきゃっきゃ言いながら逃げていった。
「笹舟、ありがとう!」
最後に作った笹舟を掲げながら手を振って別れた。
「ありがとう、と言われてしまった」
俺様は遠くの夕焼けをむっつり睨みながら、都心を目指した。