生地獄
プロローグ
埃の匂いを混じらせた涼やかなクーラーの風が顔を撫で、部屋の空気へ馴染んで行く。背中にぴったりとくっついていたTシャツの生地も、さらりと乾ききっていた。
窓の外はすっかり暗く、時折通る車の音が、窓を微かに揺らす。人の声は聞こえず、夜が深くなってきていることを時計を見ずとも気づかされる。
目の前に煌煌と映るテレビには見たいものが映っているわけではなく、静かな部屋を少しでも寂しくしないように音を出させているだけである。
ちまちまと発泡酒を飲み進めながら、ぼんやりとテレビ画面を眺め続けていると、次第に音もぼんやりと遠くなってゆき、また、思い出してしまう。
あの日のこと。彼女のこと。
今日のように、アルコールを飲んでいる時が多い。
特に発泡酒。この味を感じると、嫌でも思い出す。
思い出したくないはずなのに、思い出すために本能的に口にする。
彼女は今、何をしているだろう、何処にいるだろう、そもそも生きているだろうか。
心配しているわけではないし、気になってるわけない。
そう自分に言い聞かせながらも、あの日、最後の日、最後に見た彼女の背中が脳裏から離れない。
僕が夢を捨てたあの日。
彼女がまだ生きていたとして、彼女がまだ日本の何処かにいたとして、まだ彼女は夢を追い続けているだろうか。
しかし彼女が何処に居たとしても、まだ夢を追い続けていたとしても、今の僕には関係ないことである。
幾ら考えたところで時間が経過していくだけだと結論に行きつくと彼女の事ばかり考えてしまう自分が嫌になり、発泡酒を口に流し込む。
この繰り返しが、僕の意識の続く限り続いてゆく。
「バンドブームですね、スリーマンズも今や知らない人はいないと言っても過言でない程の人気。私もファンの一人です。」
テレビの中の、口が達者な司会者が若い三人のバンドマンと喋っていた。
スリーマンズは最近嫌でも耳にするバンドで、キャッチーなメロディーが一般にウケている。僕も嫌いというわけではないが、売れているバンド自体に嫉妬を抱くため到底好きにはなれない。
初めてメンバーを見たが、本当にロックバンドなのかと疑うほど全員華奢な身体つきをしていた。
「こんなに売れるとは思いませんでした。」
中心に座ったおそらくリーダーである男が言った。
売れるために曲をやっているわけではない、そう言いたいのだろう。じゃあ、何のために?。と問いたいところだが、この男はきっと、好きだから、と綺麗事で返すに違いない。心の何処かに売れたいという気持ちはなかったのか?。と尋問をしたいところだ。
これが嫉妬だということは理解しているつもり。
ただ、認めたくないだけ。
今テレビに映っているのが僕だったら、と何度妄想したことだろう。あの日諦めなかったらここに座っていたのは僕だったかもしれない。
成功しているミュージシャンを見るたびにそう思うのだが結局のところ才能がなかったからこそ諦め今に至っているのは事実である。
才能のある人間だけが生き残り輝いていく。
あの日の、僕達のような人間は輝く前に消えていく。
「ほう、それでは何のために音楽を?」
「好きだからです。」
男は真っ直ぐな目で堂々たる姿勢で司会者に答えた。
僕は残りの発泡酒を飲み干した。
10
生温く甘い匂いの風が通り過ぎ、伸ばしきりの髪の毛がふわりと靡いた。
同時に数メートル先のスカートがさらりと動いたのを察知し、歌いながら思わず凝視したが期待と裏腹に風はそれ以上に頑張ってくれなかったので、
損した気分で目線を手元のギターに戻した。
まだ何の成果も得られないまま、ただ時間だけが経過し今日も変化のない1日が過ぎようとしている。
シンガーソングライターを目指して大学を中退し福岡から関西に出て来て早一年。最初から東京に進出するのではなく一度関西で自信をつけてからにしようと理由をつけて関西を選び、心の何処かに保険をかけている自分の考えが甘いことはわかっているつもりだった。案の定、そんなに甘い世界ではなく、こんな臆病者が成功するはずもない。
思うように成果の得られない現実に苛立ちを覚えながら作詞、作曲をする毎日。音楽を好きだった気持ちが次第に薄れていき、誰に向けて歌っているのかわからない曲を歌い続けることが苦痛で仕方がない。
今も、人の行き交う大阪駅前であぐらをかき、ギターを抱えて歌っているが、当然のように見向きもせず通り過ぎていくものばかり。その中でただ一人、小汚いおじさんだけが少し距離を置いて立ち止まり、僕を睨むように見ている。こんなおじさん一人に、ラブソングを歌い続ける意味があるのだろうかと思いながら、歌というよりもギターの音に合わせて言葉を発する作業を続けている。
そろそろ尻が痛い。1時間ほど前から硬いアスファルトに座っているため、尻が限界に近づいていた。
おじさんがいなかったらすぐにでも止めて帰るのだが、一応、僕の声を聞いてくれているのでやめようにもやめられない。
集中力も切れ、目移りばかりする。もう一度、風が吹いて、スカートを靡いてくれないだろうか。
気持ちが完全に上の空になっていることを自分でわかっていた。いや、上の空にしていた。小汚いおじさん一人に対してラブソングを歌い続けている現実から目を背けるために。
ただひたすらにギターを弾いて言葉を発して別のことを考えた。
目線を上げると、正面の街灯に虫がぶつかっている。
ぶつかっては離れ、ぶつかっては離れを繰り返し、最終的に何がしたいのかわからない。
その街灯の下で、カップルが肩を握り合いながらキスをしていた。恥ずかしくないのだろうか。
よくよく考えてみれば、自分自身も側から見れば、同じように思われていることだろう。
こんな所で路上ライブして何がしたいのか。おじさん一人にラブソングを歌い続けて恥ずかしくないのか。
きっと僕はあの虫達を見る目と同じような目で見られているに違いない。
やる気があがらないままようやく一曲を終え、
今日はもう帰ろうと支度を始めた時、おじさんが歩み寄って来た。
正直、おじさんに褒められても嬉しくはないとは思いながらも一応、
「ありがとうございました。」
と聞いてくれたことに対して御礼を言う。
すると近寄ってきたおじさんは
「お前、下手やな」
と頼んでもいないのに僕への評価を下した。
褒めてもらえるとばかり勘違いしていた自分が恥ずかしい。
当然だ。誰も止まってくれないような歌、いくら小汚いおじさんでも下手だということはわかるはず。
僕は何を勘違いしていたのか。
「あ、えっと。」
褒められると勘違いをしていた僕は、御礼を言う準備をしていたため、不意の批判に対応できず、何も言い返せない。
おじさんは言い放った後すぐに踵を返して去っていき、あっという間にいなくなった。
一人残され、虚無感を抱く。
行き交う人々は相変わらず僕に目もくれず通過していく。
気づけば街灯の下で愛し合っていたカップルもいなくなっていた。おじさんに批判されて一人佇んでいる僕とは対照的に恋人二人でホテルに愛し合いに行ったのだろう。
ギターをケースにしまい、場所を後にする。
僕は誰からも認められず、一人なのだと再認識した夜、いつもよりやる気を削がれた夜だった。
9
次の日も同じように同じ場所に座った。
批判されてやる気が無くても今できることはこれしかない。身のない、ただこなすだけの作業だとしても時間潰しだと思ってやればいい。
汚い目で見られていたとしてもこれはただの時間潰し。時間潰しで結果がついてきたらオーライだと軽い気持ちで考えるしかない。
今日はプラス思考でこの場所に来た。
ピックで弦を一弦ずつ弾き、チューニングをする。
昔見たCDの付録映像でミュージシャンが路上ライブをする映像を見たことがあるが、その人はチューニングをする雰囲気だけで通行人を立ち止まらせていた。
僕の目前の通行人は立ち止まるどころか横目で見て同情するような顔をして通過していく。
オーラなんて僕にはない。演奏で振り向かせるしかないのに、演奏技術もない。作詞も作曲も、人並み以下だと思う。残っているものは運だけだ。
たまたま大手事務所の人間が通りかかって、たまたま僕の喉の調子がよくて上手くいってる時に、たまたま周りの音が消え僕の演奏だけがこだまする、そんなことが起きたならきっと僕の人生は動き始めるだろう。
自分の運が最後の頼り。
チューニングを終え、ギターを持ち直した。
その時。
「こんばんわ。」
頭の上から声がしたので、顔を上げるとショートヘアの女性が立っていた。
一瞬、スカウトに声をかけられたと思って期待したが
容姿を見るとどうやらそうではないようだ。
「こんばんわ、」
ギターを置いて、立ち上がって挨拶をする。
「いつもここで演奏されてますよね?」
彼女はジーパンにTシャツ。スポーティな靴。
いかにも活発そうな女性だ。
周りが暗くて髪の色ははっきりとわからないが黒ではない。顔はそこそこ。可愛いと言えば可愛いかもしれない。
「はい、そうですけど。」
「私もいつもあそこでやってるんです。」
彼女は左手で信号の方を指差した。
よく見ると信号の手前にベンチがあり、荷物が固めて置いてある。その中にキーボードらしきものも置いてあり、どうやら彼女の物らしい。
「信号のとこですか?」
「はい。」
「そうなんですね。」
彼女は僕のファンというわけでもなさそうだ。
何の用があるというのか。この場所を譲れと言いたいのだろうか。
「えーと、」
緊張した面持ちで彼女は慎重に言葉を発する。
「今度、セッションでもどうかなと思いまして。」
それは思ったよりもいい話だった。
彼女を見にきている客に僕の声を聞かせることができる。彼女も、他の人とセッションすることで自分の幅の広さをアピールすることができるのでプラスになると考えたのだろう。
僕に運が回ってきている。
「もちろん、いつでも。今日でも全然。」
「ありがとうございます。今日は別の人と約束があるので、また今度お声かけさせていただきますね。」
「わかりました。」
「それでは。また、宜しくお願いします。」
「こちらこそ、宜しくお願いします。」
彼女が深くお辞儀をし僕も深くお辞儀する。
下を向いて顔を隠した瞬間、心の中でガッツポーズをした。
彼女が持ち場に戻り機材の準備を始めたのを見て僕も座り直してもう一度ギターを抱え、弾き語りを始めた。
相変わらず誰も立ち止まりはしないのだが自分の運を信じて歌い続けていれば先程のように一歩、進むことがある。
変化がなく過ぎていくだけだった毎日に、ほんの少しだけ光が射し込んで前向きに考えられるようになった。
昨日よりもあたりが涼しく、心地よく感じる。
風が優しく背中から前に向かって抜けていき
僕の発した声とギターの音色を乗せて飛んでいく。
ストロークする右手も軽い気がするし喉もいつもより開いている。
弦を押さえる左手もいつもよりスムーズに動くし、しっかりミートしている。
調子がいいまま一曲を歌い終えた。
充実感がある。
このままもう一曲、。
そう思って次のコードへ指を滑らせ、右手でストロークした瞬間だった。
「お兄さん、」
また声をかけられた。
今日はよく声をかけられる。今度は男の声。
今度こそスカウトかもしれない。少しの期待とともに声がした方に顔を向けた。
「お兄さん、困るなぁ、こんなとこでやったら。」
青色の服に金色の紋章。
腰にピストルがぶら下がっている。
警察だった。
「許可とってへんやろ?」
路上ライブには許可がいることは知っていたが、わざわざ許可を取ってまで路上ライブをしている人などいないだろうと思い許可は取っていない。
「そうですね。」
先程、挨拶に来た女性だって許可なんて取っていないのではないだろうか。
数十メートル先の信号近くにいる彼女を見ると尚も堂々と演奏しているが。
「今すぐ片付けて帰りや。」
警察は優しい表情で、冷たい口調で言った。
何で僕だけなんだ。あそこにもいるじゃないか。
思いは幾つもあったが何も言い返せなかった。
「…えっと。」
「えっと、ちゃうねん。」
「…はい、すみません。」
演奏中は通過していくだけだった人間が立ち止まり始めている。
警察と通行人に見られながらギターをケースに押し込んだ。
「今度からちゃんと許可とらなあかんで。」
「はい、すみませんでした。」
僕には運もなかった。
帰る途中、信号近くで演奏している女性の前を通った。
五人ほど人が立ち止まり食い入るように見ている。
僕も思わず足を止めて聴いてしまった。
悔しかったが上手かったからだ。
一人でやっているとは思えないほどの演奏と声量。
曲もいい。キーボードと彼女の声がとても合っている。
才能があるとはこういうことを言うんだ。
警察が彼女を止めなかったのは上手いからに違いない。
僕の演奏は聞き辛いから辞めさせたんだろう。汚い音を街から消したかったんだろう。
演奏を聴きながらギターケースの取っ手を強く握った。
思わず目に涙が滲んで来たが流れ出ないように上を向く。
星は見えない。
暗い空間が果てしなく広がっている。
僕の未来を暗示しているように。
僕には才能も無ければ、運も無い。
涙が溢れそうになり左手で目を擦った。
彼女の演奏が終わり、拍手が送られた。
8
嫌気がさして酒に逃げた。
毎晩梅田の街を飲み歩き現実逃避。大学に通っていた頃にバイトで貯めていた金はみるみるうちにすり減っていった。
気づけば終わりかけだった夏も完全に終わり、とっくにあたりは寒くなっている。
どこから来たのかわからない落ち葉が帰り道を無くして道に散らばっていた。
秋が終わると冬が来る。
また今年も成果なく年を越しそうだ。
ギターは触る気にもなれず、歌どころか声を出すのも煩わしい。
酔ってふらふらの足で落ち葉を踏み潰しながら次の飲み屋を探した。
歌うことを辞めて一週間ほど経った頃、気分転換に梅田ではなく難波で飲むことにした。
「お兄さん、うちで一杯どっすかー、安くしますよー」
難波の街は夜も生きていた。
どの店も煌々と明かりを灯し街全体が夜の闇に負けずに光っている。昼ではないかと錯覚するほどに人は行き交い、キャッチは溢れかえっている。
「お兄さん、おっぱいいっぱいあるでー、」
キャッチは自分の売り上げのために必死のようだ。
通る人通る人にしつこく声をかけている。それにしてもおっぱいいっぱいってなんだ。おっぱいは二つで充分だろう。
「お兄さんどういう系お探しですかー」
一人のキャッチを振り切るとまた次のキャッチに声をかけられる。しかも風俗店が多い。僕が疲れているのがバレているのか。
「お兄さん、飲み屋探してませんかー」
女の子ももれなく話しかけて来る。ただ、どれもけばけばしくタイプではない。
微笑みながら話しかけてきて、僕が軽くお辞儀をして無言で通り過ぎようとすると急に無表情になり次のターゲットを探し出す。そんなんだといつまで経っても捕まらないぞと忠告したい。
「お兄さん、お兄さん」
また、別の女の子が話しかけてきた。鬱陶しい。ここには普通の飲み屋はないのだろうか。
今度はお辞儀もせずに無視をすることにした。
「なんで無視すると?」
聞きなれた言葉。
「どっか行くとこあると?」
福岡弁?。。
不意打ちの福岡弁に思わず振り返ってしまった。
「あ、やっと振り返ってくれた。」
そこに立っていたのは想像していたよりけばけばしくない女性。というよりどちらかというと清楚系かもしれない。髪は黒で胸あたりまでスラリと伸びている。目が大きくて丸い。小さな口から見える歯並びもいい。化粧もあまりしていないようだ。幼く見える。
この街に似つかわしくなかった。
「お兄さんどっか行くとこ決まっとると?もしよかったらうちどげん?」
「福岡弁…?」
「そうばい、よくわかったね」
女性は丸い目を大きく開いた。
「僕も福岡出身だから。」
「そうったいね、でもお兄さん全然訛ってなかね。」
「君が訛りすぎじゃない?」
急に彼女は僕の耳元まで顔を近づけてきた。
香水の甘い香りがふわりと鼻に入る。
「ここだけの秘密だけどね、ビジネス方言なんだ。」
耳元で囁かれ不覚にも心臓が大きく脈打つ。
女性が耳元から離れ正面に態勢を戻す。
僕は目を合わすのが恥ずかしくなった。
「騙された。」
「あ、でも、福岡出身はほんと。方言は無理してるけど。福岡離れてもう二年経つから、とっくに福岡弁じゃないんだよね。関西弁でもないし、むしろ標準語。」
「そういうことか。標準語になるのは少しわかる。」
「それで、お兄さん、どっか行くとこあると?」
「無理して方言使わなくていいから。」
女性は綺麗な歯を沢山見せて笑った。
この女性は他のキャッチの人達と比べて普通に話しやすく素直。割とこういうタイプは嫌いじゃない。
「いくら?」
ガールズバーだとしても酒を飲むのには変わりないので安ければ行ってあげてもいいと思った。
「えっと、三千円で飲み放題。」
「そっからもう高くならない?」
「女の子に奢らなかったら大丈夫。」
「それは、システム的に無理なんじゃないの?」
「かも。でも大丈夫、私お酒いらないから。」
「嘘でしょ」
「ほんとほんと」
「じゃあ、、」
と言いかけたところで女性は飛び上がり僕の手を掴んだ。
「ありがとう!」
思わず顔を逸らす。
「まだ、返事いってないんだけど。」
「え、来てくれないの?」
女性は僕の顔を覗き込んできた。
それを直視できなかった。
「まあ、行くけど。」
「よかった、ありがとう。」
彼女の笑顔は太陽のように輝き、昼間のような明るさの街の中で、一番輝いていた。
「じゃあ、こっち。」
彼女はそう言うと握っていた手を離し、
僕の前を歩き出す。
黒い髪が靡いた。
「あ、そういえば」
小さな橋の上。
髪を掻き分けて振り返る。
甘い香りが漂ってきた。
「お兄さん、いくつ?」
「22。」
「お。私も、22、ばい。」
「無理して方言で喋らなくていいから。ちょっとぎこちなくなってるし。」
彼女は白い歯を見せて大きく笑った。
星が見える賑やかな夜。
これが僕と彼女の出会いだった。
7
「ホワイト、ノート…?」
「そ、ホワイトノート。かっこいいでしょ。」
雑居ビルの3階。古いエレベーターで上がり、正面にある扉に店の名前が書いてあった。
「まあまあかな。」
まるで家の玄関のような扉を引き、中に入る。
薄暗い10畳ほどの部屋の中に大きなカウンターテーブルが一つ。所狭しと椅子が5脚並べられていた。
扉から一番遠い所にボックス席が一つ。
ボックス席の上部に取り付けられた15インチのテレビには洋楽のMVが流れており、スピーカーから重低音の効いた音楽が広がっている。
店の中にいた従業員は一人で、
カウンター越しに客一人とマンツーマンで飲んでいた。
僕もカウンターに案内され、その客から二つ席を空けて座った。
「何がいい?」
カウンターに入った彼女が壁際にズラリと並べられた酒瓶を自慢げに見せながら言う。
「ビールで。」
「え、ビールでいいの?」
「ビールがいい。」
「かしこまりました。」
手際よくビールをグラスに注いで僕の前に置き、
僕の前に座る。
「お兄さん、名前、なにー?」
「笹山」
「違う違う、名字じゃなくて名前の方教えて」
「悠人」
「じゃあ今からユウさんって呼ぶね。」
「え、」
「嫌だった?」
「嫌ではないけど。」
昔好きな人から呼ばれていたあだ名だったため、少し動揺してしまった。
動揺を隠すためにビールを一口、口に含む。
「私はミナ。普通に呼び捨てで呼んでくれていいよ。」
「わかった。」
改めて正面で見ると彼女はモデルにいそうな整った顔立ちをしている。
きっと店の従業員の中でも人気なほうだろう。
何も考えてなさそうに見えて、方言をビジネスとして使うような計算高いところもあるし。
「ユウさんは何で関西に来たの?」
「急な質問やね。」
関西に出て来た理由を捨てかけている自分にとってその質問は答えづらかった。
「君から教えてほしいな。」
言うかどうか迷った挙句、質問を返す。
「君じゃなくてミナです。」
「あー、ごめん、ミナから教えて。」
一度ムスッとした顔を作ったが、僕がミナと呼ぶと直ぐににっこりと笑顔になって口を開いた。
「私は何にも理由ない。ただ家から離れたかっただけ。別に関西じゃなくてよかったんだけど、友達が関西に進学するって言ってたからついてきた感じ。」
「へー。」
「あ、つまらないって思った?。でもね、私、今夢があるの。」
「夢?」
「うん。女優目指してるんだ。」
「そうなんだ。」
「まだ全然なんだけどね。一応演技スクール行ってる。」
「そっか。」
夢を追うなんてことやめた方がいいよ、と思ったのが本音。
ましてや女優なんてもの成功するのはほんの一握りだろう。
「なんか思ったより反応薄いなー。」
ビールを二口飲む。
彼女から反応が薄いと言われても仕方がない。関西に出てきた理由を捨ててこんな所で飲んでいる今、夢という言葉をなるべく聞きたくなかったから。
グラスから手を離したところでちょうど、重低音を響かせていた店内の曲がバラード調のものに変わった。
「次はユウさんの番だよ。」
「何が?」
「ユウさんが関西に出てきた理由。」
「ごめん、まだ秘密かな。」
「何それ、ずるいじゃん。」
少し怒った彼女から目を逸らすようにテレビの方へ目を向けた。
外国人の弾き語りが流れている。
流石に上手い。歌もギターも。
あの外国人は自分がこうやって他国の人間に見られる時が来るなんて思っていただろうか。
もし僕がテレビの中の人間になったなら、僕はこんなに堂々と歌えるだろうか。
こんなことを考えてる時点で僕は凡人である。
「そうだ、カラオケあるんだけど、歌う?」
テレビ画面を見ている僕を見て彼女が話題を変えるために気を遣って言ってくれたが、
変えた話題もなるべく触れたくない話題だった。
「歌は、いいや。」
「歌うの苦手だった?ごめんね。」
「いや、そうじゃない。今、歌うの辞めてるから。」
「辞めてる?」
歌うのが苦手な人間だと彼女に勘違いされるのが嫌で思わず、'辞めてる'という意味深な言葉を使ってしまい、恥ずかしくなる。
「あ、いや、」
「辞めてる、ってなんかかっこいいね。内に秘めてる感じ。」
「別にかっこよくはないよ。」
少しの沈黙。
残りのビールを飲み干す。
「次、何飲む?」
彼女越しに、棚に並んだテキーラの瓶が目に入った。
「テキーラのショットちょうだい。」
「大丈夫?」
「大丈夫。」
彼女はビールジョッキをさげ、新しいショットグラスを取り出してテキーラを注いだ。
正直なところ酒はあまり強い方ではないが彼女の前で強がった。
唇を縁につけるだけで、アルコールの匂いがツンとする。
舐める程度に、口に含んだ。
「歌手になるため。」
「え?」
「僕が関西に来た理由。」
彼女との話題を広げたかったからか、酔ったからか、彼女に慰めて欲しかったのかわからない。もしかしたらその全部。
気づいたら自分から話しだしていた。
言った後で後悔し、テキーラを一気飲みしようとしたが、口元まで持ってくるとアルコールの匂いでその気が失せ、やっぱりまた唇につけるだけでグラスを置いた。
「おー、すごいね。確かに良い声だなーって思ってたんだよね。でも何で関西?」
「関西で自信つけてから東京に行こうと思った。」
「なるほど。」
「ダサいよね、ビビってハードル下げて関西に来て、今なんて歌うの辞めて酒飲んでるし。」
「そんなことないよ。夢のために関西に出て来て行動してる、その時点ですごいし、尊敬する。」
「でももう辞めてるから。」
「休憩中なだけでしょ?」
「休憩、ではないかな。」
「また始めようよ。」
「無理。音楽の才能の壁ってさ、結構大きいんだ。」
「大丈夫。壁は乗り越えられる人にしか訪れない。」
「もう壁にぶち当たって砕けてるから。今さらやったって苦しいだけ。」
「苦しいから逃げるのではない、逃げるから苦しいのだ。」
彼女が真剣な顔で今日一番のハキハキした声を出した。
驚いたが、表情に出さないようにして冷静を保つ。
「あ、ごめん、。」
彼女はそう言って照れ隠しで顔を覆った。
「別にいいよ。それ、誰の言葉?」
「わからない。お客さんが教えてくれた。」
「そっか。」
「今逃げたらもっと苦しいと思うよ。」
何故彼女は会ったばかりのこんな男を本気で相手してくれるのだろうか。
彼女の言葉を聞かないように、テキーラを一気に飲んだ。
後頭部が熱く締め付けられるような感じがする。
喉が焼けそうだ。
ガシャン。
もう一人の従業員が柿ピーの入った小皿を掴み損ねた。
二つ隣に居た客はいつの間にか居なくなって、後片付けをしているところだったようだ。
すみません
とこちらにお辞儀をしたので、
僕も軽く頭を下げる。
「次、何飲む?」
彼女はよく気が効く。
僕が飲み干したのを見るといいタイミングで聞いてくれる。
それに容姿もいい。
モテるだろうな。
考えながら酒瓶の並んだ棚を彼女越しに眺める。
棚の上にある時計が目に入り、日付が変わっていることに気がついた。
彼女が疲れを見せずに会話をしてくれているおかげで時間を忘れて飲めていた。
「あのさ、」
「ん?なに?」
「連絡先、教えてくれたら僕ももう一回頑張ろうかな。」
言った後で後悔が襲う。
目を逸らし、わざとらしく頭を掻いて、別の従業員が聞いてなかったか確認した。変わらず片付けを続けているので大丈夫だったようだ。
「え、急になに?ナンパ?」
「あ、いや、やっぱりいいや。」
「いいよ。」
彼女の返事は聞き逃しそうなほどあっさりしていた。
「え、いいの?」
「うん。それでユウさんが頑張れるなら。」
彼女はきっと誰にでもそう言っているだろう。
彼女の性格上、断る事も想像できないし、彼女からすれば従業員と客の関係、自分の客を増やすことに繋がるだろうから。
一方僕は、言ったものの本当にもう一度頑張れるのか、心にあるのは不安と恐怖。
しかし、
「…やってみようかな。」
表に出た言葉は不安とは違った。
'酔っていたから' 言ってしまったのではなく、
'彼女の連絡先が欲しかったから' 言ったのではなく、
'もう一度、歌い始める理由が欲しかったから' 言ったのかもしれない。
従業員と客の関係、それが今の僕にちょうど良かった、ーそう思った。
「女優を目指す私と、歌手を目指す君。いつかテレビで共演する日が来るかもしれないね。」
純粋な笑顔で僕にもう一度勇気をくれた彼女と、連絡先を交換した。
スマホの文字を見て気づく。
僕はとても酔っていた。
6
彼女と連絡先を交換してから2ヶ月。
季節は冬に突入していた。
許可を取って大阪駅前に座っている。
かじかんだ手をカイロで温めながら、肩をすぼませて寒さを凌ぐ。空一面に雲が停滞しており今にも雪が降り出しそう。星は当然見えない。その代わりであるかのように随分と低い位置で丸い街灯が灯されていた。
口から溢れる白い息が一瞬で空気と一体になり潔く消えていく。
手の中にあるカイロの温もりもまた少しずつ消えていた。
両手で揉み合わせ少しでも温もりを保とうとするが、そろそろ寿命のようだ。
よしやるか。
かじかんだ手も割とマシになった。
カイロの温もりが消える時をタイミングとしていた。
気持ちを切り替え、ギターケースを開く。
冷たいギターを抱えて胡座をかき、メジャーコードを乱雑に鳴らした。
やはり指が思うように動かない。思うように動いたとしても、思うように弾き語りできる実力ではないが。
寒さ対策で着込んだダウンコートはストロークする右手の邪魔をする。
冬の路上ライブは最悪だ。
「福岡出身、ユウトです。どうぞよろしくお願いします。」
誰もいない正面に挨拶をして、ライブをスタートさせた。
あれから2ヶ月、まだ気持ちは本気ではなく、
こなすだけの作業であることに変わりない。
「カバー曲します。よかったら立ち止まって聞いてください。」
声が白く目で見えるように広がり、それもまた空気と一体となって一瞬で消えていく。
消えないように、継続して発声をした。
何故続けるのか。
ミナの言う通り、辞める方が苦しくて、続ける方が気持ちが落ち着いている気がしたから。
ただそれだけで続けている。
「ありがとうございました。」
歌い終え、新しいカイロを取り出す。
一曲ごとに手を温めなければ、かじかんでギターが弾けなかった。
手を温めながら目にするのは、
いつも同じ光景。
行き交う人の足は飽きるほど見たし、これが僕の日常の一部となっていることにも慣れてしまった。
身辺でかろうじて変わったことといえば、バイトを始めたこと。さすがに生活が苦しくなってきて、唯一の心の逃げ道である酒を飲むことが出来なくなってきて始めた。
家近くのコンビニのバイト。
日常に変化をつけるためにバイトも意外と悪くない。
以前はライブして寝るだけの生活だったが、今はバイト、ライブを繰り返し、
人間らしい1日の生活ができている。
そして一週間に一度だけ、決まって金曜日の夜、ミナのいるガールズバーに顔を出し、自分の活動報告を話し合う。
この一週間を流すだけで充実している気がしている。
当然のように僕は毎週、報告するほどの変化は何もないのだが、ミナは少しずつ進んでいるようだった。
演技スクールで褒められる事が多くなった、スカウトの人に声をかけられた、など、
話を聞くと、毎週一つずつ進んでいた。
今日は金曜日。
この後、店に行く予定である。今日もミナは進んでいるだろうか。
僕は今日もまた報告することがなく、
無駄に酔って、一週間約束通り音楽活動を続けたことだけを語るだろう。
》今日は何時にくる?
ライブを終えてスマホを見るとラインが来ていた。
結局、二曲しか演奏せずにライブを終えた。
手がかじかんで演奏どころではなかった、と言い訳で自分を納得させて。
》今から行く
かじかんだ手でライブの時よりもスムーズに指を動かし返信すると、
ギターを抱えたまま、難波へと向かう地下鉄に乗る。
人が多くて居心地の悪かったこの地下鉄にも、毎週乗っていると慣れてきていた。
ギターケースを右手で持ち、左手でつり革を持ったまま10分ほど揺られて、なんば駅に到着した。
「ゆうさん、おつかれー」
ミナが駅近くまで迎えに来てくれていた。
「ありがとう」
同伴出勤というやつらしい。
二人で人混みを縫うようにして歩く。
たまに振り返って僕が付いてきてることを確認するミナ。置いていかれないようにギターを胸元に両手で抱えながら早歩きする僕。
こんな二人を周りはどう見ているだろう。
ただのガールズバーの女と客か、それとも。
どう見られていようが、一般的に見れば可愛い部類に間違いなく入るミナと二人で歩いていることだけで気分がいい。
ちらほらいるキャッチにも全く声をかけられず、
ホワイトノートに到着した。
開店して間もないということもあり、客は一人もいなかった。
「ゆうさん、私、今度事務所に入れることになったの。」
ビールを注いで座るなり早速ミナは言った。
「すごいじゃん。」
「うん、事務所の人に声かけてもらって。」
「さすが。」
今日もミナはステップアップしていた。
気のせいかもしれないが、初めて会った日よりも少しずつ可愛くなっていってる気がする。
それに比べて僕は。
「ゆうさんは?」
「今週もずっとやってたよ。」
「すごいじゃん。」
いつもと変わらない報告。
いつもと変わらない反応をしてくれる。
ミナの話を聞いていると、少しずつ、羨ましく思う自分がいた。
自分も良い報告をしたい。
そう思うたびに漏れそうになった言葉を押し込むようにビールを飲む。
「やっぱミナが注いでくれるビールは美味しいな。」
話を逸らすように言った。
「ありがと。ここだけの話、発泡酒だけどね。」
「そうなんだ。」
今日もまた、洋楽が店内に流れている。
そしてまたあの外国人の曲。
毎週来ていると気づいたことがある。
この店は同じ曲を同じ曲順でリピートさせているようだ。
「ゆうさんの曲もこの店で流れる日が来るかもね。」
ミナが言った。
「でも、この店洋楽ばっかりでしょ。」
「大丈夫。」
彼女が言う大丈夫、は大丈夫じゃなくても本当に大丈夫なような気がする。
単純な男、かもしれないが、僕の中でミナが大きな存在となっていることに気がついていた。
5
下弦の月が鮮明に浮かんでいる雲のない透き通った空の下で胡座をかいて座る。
今日は比較的寒くなく、人通りがいつもより多い。
特に今日はカップルが多いようだ。
カイロで弦とネックを温めた後、チューニングをする。
一弦、一弦、せわしい空間へするりと響く音を確認しながらはじいていった。
「よろしくお願いします。」
チューニングを終えてライブを開始。
カップルに向けて、
尾崎豊のOH MY LITTLE GIRL
を選曲し歌った。
するといつもよりこちらを見てくれる人がちらほら現れ、変化を感じる。
立ち止まる人こそいないが、気になってるそぶりを見せて通り過ぎる人がいてくれることを意識し、
十分すぎる進歩を感じながら演奏した。
気持ちが浮かれすぎて弦をミートし損ねないように確実に。
声に乗せて気持ちを出しきり、歌い終えた。
「ありがとうございました。」
立ち止まっている人はいない。
しかし、やりきった気持ちが充実していた。
続けてオリジナル曲を始めようと、カポタストをネックに装着した時だった。
「あの。」
声をかけられ、顔を上げると女性が立っていた。
髪がミディアムほどの長さで、ブラウン系の色。
顔は何処かで見たことがあるようなー。
「素敵な演奏でした。」
彼女は僕にそう言った。
聞き間違いではなく、しっかりと。
ギターをケースに置いて立ち上がり、彼女へお辞儀をする。
「あ、ありがとうございます。」
演奏を初めて人に褒められたので、目を合わせれないような、どこかむず痒いような照れ臭さを感じた。
目を逸らして、遠くへ目をやると、キーボードがあった。信号手前のスペース。
そこは、以前僕に声をかけてくれた女性がライブをやっていた場所だ。
そういえばあれ以来 姿を見ないが、何をしているだろうか。
「あの、」
「はい、何…でしょうか。」
「セッション、どうでしょう?」
その言葉を聞いて思い出す。
髪が伸びて気がつかなかったが、あの時の女性だった。
「あ、あの時の」
彼女が微笑み、
それを控えめに見る。
「はい、以前声かけさせてもらった者です、覚えててくださったんですね。」
「もちろんです。」
もちろん、今の今まで覚えていなかった。
てっきり僕なんか忘れて次のステップに進んでいるだろうとばかり。
今になって何故僕に話しかけてくれるのか、疑問すら覚える。
「ありがとうございます、あれからちょっと別の所でやってたもので、お約束させていただいてたのに今更になってしまい申し訳ありません。忘れられてるだろうなーって心配でした。」
「いえ、大丈夫ですよ、僕も少し辞めてたので。」
むしろ僕の方こそ彼女との約束をすっかり忘れて飲み歩いてたことを申し訳なく思う。
彼女の言う、別の所、とは何処でやっていたのだろう。
気になったがそこは触れないようにした。
自分との差を思い知らされる気がしたから。
「ならよかったです。明日も、ここに来られますか?」
「来ますよ。」
「では明日、御一緒させていただいてよろしいですか?」
「ぜひ。今日は、もう帰るんですか?」
「はい、片付けしてたところでした。」
確かに、以前キーボードの側にあったマイクが収納されていた。
社交辞令で誘われたのではないかと疑ったがそうではないようだ。
ついに具体的な日付を約束し、一歩進んだことで気持ちが高揚した。
「そうなんですね。じゃあ、僕のライブ、少し見ませんか?」
自分のステップアップに自惚れていた僕は思わず生意気に誘ってしまった。
僕なんか足元にも及ばない才能のある人間を。
「見ます!」
彼女は目を細めながら微笑んで
躊躇いなく言った。
心臓が少し強く脈を打つ。
「すいません、言ったものの自信ないので期待しないでください。」
恥ずかしくなってハードルを下げたが、
ハードルを下げることの方が恥ずかしかった。
「大丈夫ですよ、さっき少しだけ見たんですが私なんかより全然素敵でした。」
「それはないです。」
胡座をかいて冷たいギターを再び抱えた。
カポタストをぐりぐりと確実に装着し、Fコードを鳴らす。
6弦全ての音が一つの音になって空気に交わり、広がっていく。
正面の彼女を包み込むようなイメージをして音を鳴らした。
緊張する。
ピックの握り位置を確かめ、深呼吸。
息を吐くと同時にストロークし1音目を響かせた。
選曲したのはオリジナルのバラード。
彼女をイメージして歌った。
イメージが上手くいっているおかげか、普段より音と声が重なりながら広がっていく気がして気持ちが良い。
歌いながらふと彼女に目をやると僕を真剣な眼差しで見ている。
今までで一番、やりがいを感じる。
今、'僕を見てくれている人'に向けて歌っているのだ。
「ありがとうございました。」
この上ない充実感を抱き、演奏を終えると
彼女が拍手をしてくれていた。
ーその時ふと気づく。
彼女の周りに数人、人がいることに。
カップルが2組。
僕を見ていたのか、?。
拍手をしてくれている様子を見ると、どうやらそうらしい。
複数の人間から、演奏を称えられている。
周りの音が消えるような、体重が無くなるような、肌が騒めくような、不思議な感覚に包まれた。
これは僕の人生にとって、大きな進歩であることに間違いなかった。
4
演奏を終え挨拶を交わした後、ミナの顔が頭に浮かび上がり、
片付けを行うと直ぐさまホワイトノートへと向かった。
「すいません、ミナさんいますか?」
ホワイトノートに到着し、扉を押して中を覗くといつもより従業員が多く、一瞬、店を間違えたのかと不安になる。
また、従業員の服装もいつもと違ったので余計に。
店内の音楽の雰囲気も違い、ポップな曲が流れていた。
「あ、ユウさん」
声をかけられカウンターの方を見ると、ミナが頭の上で手を振っている。
ミナもまたいつもと雰囲気が違う、赤いセクシーな衣装で赤い帽子。
目の前におじさんが座っており、今日はそのおじさんの相手をしていたようだ。
「お疲れ」
ミナに手を振り返しながらカウンターまで歩き、
おじさんの右隣に座った。
「どうしたの?、珍しいね、金曜日以外に来るの」
「まあね。ちょっと飲みたくなって。」
注文するより先に、ミナは発泡酒を注ぎ始めている。
発泡酒を待つ間に、隣のおじさんに軽くお辞儀をしてアイコンタクトで挨拶をした。
「あ、そうだ。」
注ぎ終わった発泡酒を僕の前に置きながらミナは何かを思い出した。
発泡酒を置き終わった右手をそのまま、左側に動かし、おじさんの前でその手を止めた。
「こちら、細木さん」
襟元が小汚い白シャツを着た何処にでもいそうなおじさん。
何故か一度、何処かで見たことがあるようなそんな感覚に陥る。
「どうも。」
と僕が軽くお辞儀をすると、
おじさんはズボンのポケットから財布を取り出し、その中から一枚の紙切れを僕に渡した。
_スターズプロダクション 代表_
_細木寛也_
「大阪で芸能事務所やってる、細木、というもんです。」
スターズプロダクション、、聞いたことの無い事務所。
僕は返すような名刺など持っていないため、深くお辞儀をした。
顔を下げた時に頭をよぎる。
この声、この顔、、。もしかして。
頭を上げてもう一度確認。
間違いない。
路上ライブをしていた僕に、下手やなと言って去っていったおじさんだ。
「あ、」
思わず声に出てしまった。
「ん、?」
「いえ、なんでも。」
向こうは僕のことなど覚えていないようだ。
それはそうだろう。あんなヤル気のない人間など覚えているはずがない。
「細木さんが私を事務所に入れてくれたの。」
「そうなんですね、僕は笹山悠人と言います。」
もしかしたらあの時、僕の演奏を見ていたのはスカウトする人間を探していたのかもしれない。芸能事務所というだけで音楽関係は取り扱っているのかどうかもわからないが、そうだとしたら僕は知らぬ間にチャンスをドブに捨てていたことになる。
対照的にミナがチャンスを確実に自分のものにしていることが正直、悔しかった。
「笹山くん、宜しく。」
握手をした。
一事務所の代表の手は思ったより普通の手をしている。
まあ、手など普通以外に何があるのか、という話になるが、もっとずっしりと何かしらのオーラのようなものが手を通して流れて来るのではないか、と勝手に想像していた。
それから細木というおじさんはミナを褒め倒した。
目の色が違う、オーラがある、演技の才能がある、
等々、べた褒め。
言われるたびに
そんな事ないですよー、
と満更でもないような控えめに否定するミナを見て僕の嫉妬心が煽られる。
今日は僕が報告する為に来たはずなのに、
あの程度で喜んでいた自分が恥ずかしくなり、いつの間にか報告する気は無くなっていた。
「そんなにミナは才能があるんですか」
「そうやなー、千年に一人の逸材やな」
千年に一人。。
そこまで言うか。
「すごいですね。」
僕はそれ以上を聞く事なく、ミナと細木が楽しそうに話しているのを横目に発泡酒を飲み続けることだけに集中した。
来て1時間ほど飲んだ頃。
細木が席を立ち、店を後にする。
それに合わせて僕も会計を行ない、
同じく店を後にすることにした。
「ユウさん、もういいの?」
「うん、少し飲みたかっただけだから。」
会計を済ませ、店を出ると細木がエレベーターを待っていた。
白シャツとは対照的に顔が真っ赤だ。
右手に持った小さなポーチがするりと手から抜け落ちそう。
「大丈夫ですか」
エレベーターが到着したので、中に入りながら聞いた。
二人きりで密室に閉じ込められる気まずさに耐えられる気がしない。
「おー、笹山くんか。大丈夫やで。」
「それならよかったです。」
ひっく、としゃっくりをしながら虚ろの目で喋る細木。
正直なところ僕は心配など少しもしていない。
「彼女、ええ女やなー。あれはええで。千年に一人やわ」
酔っ払いオヤジは尚もミナを褒め続ける。
いちいち反応するのが面倒になってきた。
「そうですね。」
エレベーターの回数表示が早く1にならないかと数字の移り変わりを睨む。
僕の望みと反してエレベーターはゆっくりと降りていく。
「今年は俺にもサンタが来てくれそうや。」
細木が壁にもたれかかりながらそう言った。
その意味は理解出来なかったが、
サンタという言葉を聞いてクリスマスが2日後に迫っていることを思い出した。
そうか、もうクリスマスか。
思えば今日、街の雰囲気が違ったのと、店の雰囲気とミナの雰囲気が違ったのはクリスマスのせいだったのだ。
さらによくよく考えてみれば今日のライブ中、通行人が多かったのもクリスマスのせい。カップルが足を止めてくれたのも、クリスマスのせいだったのかもしれない。
成長していた訳ではなく自惚れていただけであり、今日細木がバーにいてくれたおかげでミナに自惚れた報告をせずに済んだ。
僕は運がよかった。
ー無理にプラス思考にすることでしか今の自分を保てる気がしなかった。
「…サンタ、か。」
外に出て細木と別れた後、空を仰ぐと流れ星が見えた。
一瞬すぎて、願い事を言わなければと思い出した時にはとうに消えていた。
3
ツンと冷たい空気の中、白い息を吐きながらギターを抱えて歩く。まだ17時というのに真っ暗な空。今にも雪が降り出しそうだ。
今日は彼女とセッションの日。
今日がきっかけとなって僕のことを知ってくれる人が増えるかもしれない。昨日の事は忘れて集中して演奏したい、そう思いながらイヤホンでMr.Childrenの終わりなき旅を一曲リピート再生していた。
Bluetooth接続したスマホから流れてくる音は、たまに途切れながらもしっとりと僕の耳に流れ入って、鼓膜を揺らし、全身へと伝わっていく。
モチベーションを高めつつ、演奏のイメージを膨らませる。
彼女とは勿論、一度も音を合わせた事がない。しかし、彼女の演奏する姿を想像し、僕が演奏している姿が容易にイメージできる。
理由も確証も無いが、うまく行く気がしていた。
ーその時。
耳に流れ込んでいた音楽がプツリと途切れ、
また、Bluetoothの接続が切れてしまったと思った瞬間、
コール音が耳に飛び込んできた。
急な着信に焦りながら、ポケットからスマホを取り出す。
画面に映っていたのは、
ミナの名前。
初めてのミナからの着信に戸惑いつつ、何故か良い知らせではない気がする、そんな謎の不安が僕の中を駆け巡った。
「もしもし。」
思った通りというべきか不安が的中したというべきか、
ミナは泣いていた。
理由はわからない。
ただ、只事では無いことはわかる。
会話にならない程に、喉がつまりながら、鼻をすすり、泣いていた。
「今から行く。」
住所を聞いてミナの家へと向かった。
今日のライブを放棄して。
ライブとミナ、天秤をかけた時にどうしてもミナに傾いてしまう。
ミナがいるからこその日常だということが前提となっていた。
だから、今日のライブが自分にとってどれほど大事なのか考えるより先に感覚で行動した結果、ミナの家に向かって歩き出していた。
家に着き、インターホンを鳴らす。
ゴトゴトと扉の奥から足音がして、ガチャリと鍵が開いた。
ゆっくりと開く扉の隙間からミナの顔が現れる。
目が真っ赤に充血しており、髪はボサボサ。
いかにもつい先程まで泣いていたような表情。
「…ユウさん、上がって。」
力無い声で彼女が言った。
玄関で靴を揃えて脱ぎ、小声で
「お邪魔します」
と言った後、奥の部屋へと案内された。
フラフラと歩くミナの後ろを付いて歩き、玄関から数歩ほどの部屋の中に足を踏み入れる。
目の前に現れた光景は思わず二度見してしまう光景だった。
薄暗いのに電気を付けず、カーテンは開けっ放し、外の街灯の明かりや月明かりが差し込む部屋。中央にあるテーブルを中心に、四方八方、コップやらペンやら手鏡、パソコン、ティッシュ、乱雑に散らばっていた。おそらくテーブルの上にあったものだろう。
一瞬、ミナがテーブルの物を投げ散らかす映像が頭を過ぎった。
「どうしたの。」
部屋の隅にあるベットに腰掛け、無言で、聞いて欲しそうな雰囲気で僕を見つめる彼女に聞いた。
座る場所を見つけれず立ち尽くしたまま。
するとミナは静かに語り始めた。
「お金、盗られた。」
「誰に?」
「細木さん。」
「え?」
彼女の言ったことを理解できない。
盗られたといってもせいぜいお店で支払う程度のお金だろうと思っていた。
しかし、彼女の話を聞き進めるにつれて、ことの大きさを理解することとなる。
「200万。もう返ってこない。」
彼女の話は想像よりも最悪だった。
昨日、ガールズバーに来ていた細木という芸能事務所の代表に、事務所の契約金として200万円を支払ったらしい。
契約するだけで、200万、もうこの時点で怪しい匂いがするが、振り込みを完了し、細木へ連絡したのが最後、連絡が急に途絶え、姿をくらましたそうだ。
ここまでが今日の朝。
騙されたことに気づいたミナは、警察と弁護士に連絡。
しかし、契約時、自分自身で契約書に肉印をおしている時点で裁判での勝ち目はない事を知った。
荒れ、うなだれ、泣き、叫び、
今に至るというわけだ。
細木。今考えてみれば怪しい事だらけだった。
聞いたことのない事務所。
代表という割には汚い服。
ミナの事を褒めるばかりで今後のことを具体的に話さない。
僕も完全に騙されていた。
サンタが来ると言っていたが、プレゼントはミナの200万のことだったのだろう。
僕が細木を初めてみた日、
細木が僕の演奏を見ていた日、あの日あいつはスカウトをする人間を探していたのではなく、騙されやすい人間を探していたんだ。
夢に真剣な、騙されやすい人間を。
「ミナ…。」
かける言葉が見つからなかった。
何を言って彼女を元気づけられるのかわからなかった。
細木を罵るべきなのか、彼女を励ますべきなのか。
何も言えず、そっと彼女の隣に座った。
柔らかいベッドが僕の重みで沈んで、ミナが僕の方に傾く。
傾いたミナの肩をゆっくり抱き寄せ、両手で彼女の頭を包み込んだ。
僕の胸の中で彼女は泣いた。
じっと彼女の温もりを感じ、静かな部屋の中で彼女のすすり泣く音を聞いた。
「ごめんね。」
彼女のその言葉が何を意味して言ったのか理解できず、何も言えないまま、抱きしめた。
それからどれくらい経っただろう。
彼女の涙も止まり、二人とも疲れて横になった時。
「もう、夢なんていいんじゃないかな。」
ようやく僕の口から言葉が出た。
シングルベッドに二人で横になり、数センチの距離で顔を合わせる。
敷布団から香るミナの匂い。
男女がシングルベッドに二人で横になるこんなシチュエーションじゃ、一般的に考えればやることなんて一つしか無い。しかしそんな気を一切持ち込まず、そんなこと考えてる心の余裕も無く真剣に彼女と向き合った。
「夢なんて諦めてさ、二人で暮らそうよ。お金必要だけど、二人でバイトして、平凡に暮らせたらいいんじゃないかな。」
僕の言葉に対してミナは黙って頷く。
「そうだ、ガールズバーやめて僕のバイト先においで。夜の仕事はしんどいだろうし、昼間に一緒に働いて夜は一緒に過ごそう。店長も優しいし、みんな優しいよ。」
自己中だとは思ったが、最善だとも思って言った。彼女に対しても僕に対してもきっとこれが最善だ。
これにもミナは何も言わず、僕の目を見たまま黙って頷く。
また、今にも泣き出しそうなミナの表情に耐えられなくなって抱き寄せる。
「ありがとう。」
僕の胸の中で震える声で彼女は言った。
夜が明けてミナの家を後にする。
「また来るね」
部屋を出るとき、彼女は外を見ていて、
何故かその姿が脳裏に焼き付いた。
2
太陽がせっかちに沈んでいく夕方。
駅前に行き、昨日セッションを約束していた彼女を探した。
何の連絡もせず、姿を現さなかったことを謝るために。
だが、当然のように彼女はいない。元々、ここに来るような器の人間ではないことはわかっている。あんな才能ある人間に誘いを受けたこと自体、運が良かっただけである。
その運を僕はいとも簡単に捨て、自分の思うままに選択し、行動した。
いい選択をしたと思っている。後悔はしていない。
何故ならこれからミナと共に過ごせるのだから。
今の僕にとって最高な選択であることは間違いないと思っている。
夢なんて忘れて、これから、ミナと暮らしていく。
最高の選択。
自分の中で何度も唱え、そう思っていた。
2日後、ミナの家に行くまではー。
目に映った空間に残されていたのは備え付けのタンスだけ。
カーテンはレースまで取り除かれ、窓ガラスが剥き出しになっている。
外から入って来る街灯の光と月の光は広いフローリングを薄明るく照らし、何もない空間の寂しさを際立てていた。
あっけらかんと棒立ちになり、自分の感情がわからなくなる。目の前の景色をどう受け止めたらいいのか。
ようやく気持ちを落ち着かせ、現状把握ができ、改めて落胆した。
ミナがいなくなったことを。
言葉にならない感情が奥からグッとこみあげる。
夢を諦め、ミナもいなくなり、僕には何にも残っていない。
地元を離れ上京したこと自体が失敗だった。
もうこれ以上、関西にいる意味はない。
誰から言われたわけでなく、自分から、心の底から帰りたいと思ってしまっていた。
何もない薄暗い四畳半の空間が、立ち竦む僕の目に入り込んでくる。
これが現実。
目をつぶっても、目の前の光景が瞼に焼き付いていて、もう一度開いてもやっぱり同じ光景が広がっている。
「もう、無理だ。」
言葉と同時に涙が頬を伝った。
何の涙かは自分が一番理解している。
終わりだった。
「あんた何してん?」
玄関から声が聞こえ、振り返ると背の低いおばさんが立っていた。
暗がりでもわかるほど赤いエプロンを首から下げて、手にはジャラジャラと鍵を持っている。
「あ、もしかして吉岡さんの知り合いかいな?」
おばさんはそう言いながらずかずかと部屋の中に入ってきて僕の前で立ち止まった。
「あ、えっと、。」
すぐに頬の涙を拭いながら、おばさんと向き合った。
「勝手に入られたら困るわ。知り合いやとしても通報すんで。もうあの子この部屋手放しとるんやから。」
どうやらこのアパートの管理人のようだ。
部屋にずかずかと入っていたのは僕の方だった。
状況を見てわかってはいたが、もう彼女のここは部屋ではないのだ。
それにしても、ミナの名字を管理人の口から知るなんて。僕はどれほど彼女のことを知らなかったのだろう。それもそうか、どうせ彼女からしたら数十人いる客の中の一人だったのだから。
「すみませんでした。ミナさんがもう引っ越してること知らなくて。」
頭を下げて謝った。
「不審者じゃないならええわ。はよ帰りや。それにしてもあんたからも言うといてーな。引っ越すときは事前に言うように、て。バタバタして大変やったわ。明日引っ越します、て昨日言うてきて、ビックリしたわほんまに。」
「…そうですね、急すぎますよね。」
「ま、あんたに言ってもしゃーないわな。」
「すいません。」
僕は謝りながら部屋を出た。
階段の方から吹き抜けてくる風が冷たい。
ジャンパーのチャックを首元までしっかりと閉めた。
おばさんも外に出て、ドアに鍵をかけようとしている。
ミナが何処に引っ越したのかなんて聞く気にもなれなかった。
「…すみません、失礼しました。」
「うちが閉め忘れとったんも悪いしもうええで。ほなさいなら。」
こちらにひらひらと手を振るおばさんに深くお辞儀をして階段へと進んだ。
通路の蛍光灯がチカチカと切れかかっている。
足元が見えづらい。
そんなこと気にしてるほど気持ちに余裕があるわけ無いのに、反対に気にしていないと落ち着かなかった。
「あ、せや。」
階段を降りようとしたところでまた、後ろからおばさんの声がしたので振り返る。
「吉岡さんやけどな、ミナちゃうで。ミサやで。うちもな、最初来た時ミナって呼んでしもたんやけど、あれミサって読むらしいねん。美しい菜って書いてミサって読まへんよな普通。イどこいってん、て感じやわ。ま、どーでもええか、。」
頼りない蛍光灯の下で、おばさんはガハガハと笑った。
僕は笑えなかった。
彼女の名字どころか名前すらも知らなかったのだ。
今までずっと源氏名を本名だと勘違いしていた自分が恥ずかしい。
あの時、彼女にどんな面してあんな事を言ったのか。
一緒に夢を目指す?
二人とも失敗してるじゃないか。結局、彼女に一度も演奏を聴かせたこともない。
一緒に暮らす?
名前も知らなかったくせに。
ミナの優しい笑顔が脳裏に浮かんだ。
「そうだったんですね。教えてくださってありがとうございます。」
従業員と客の関係。
ミナと僕は結局、ただそれだけの関係だった。
帰り道。
気づけば、街の至る所にあったクリスマスツリーや飾り付けの取り外しが行われていて、街も寂しくなっている。
僕は虚しくなって、白い息を吐き出しながら星の飾り付けの残る夜空を見上げた。
今、流れ星が流れてくれたら願い事をすぐ言えるのに。
1
荷物をまとめて帰郷した。
歌うこともやめて、ミナもいなくなった関西にいる意味などないため、悔いも迷いも何もなかった。
ガチゴチに固まった体をほぐしながら夜行バスを降りると、久しぶりに感じる福岡の空気が優しく、帰りを迎え入れてくれている気がして、
さらに、人の喋り方を聞くと懐かしい方言ばかりで、帰って来たことを実感した。
さーっと風が流れ、僕の肌を撫でる。
帰ってきたことを改めて悟らせるように。
父さんと母さんは何て言うだろう。
学校をやめてまで家を出て上京したのに、急に帰ってきた息子を受け入れてくれるのか。
父さんは怒るだろうな。
母さんはどうだろう…。
せっかく家に帰って来たのに心が落ち着いてくれない。
「ただいま。」
どんな声で言ったらいいのか、何度も頭の中でシミュレーションして言った。
扉を開けると昔と何も変わっていない玄関があって、変わらず靴が散乱していた。
この光景も、イメージ通り。
ホッとする。この匂いも、久しぶりだ。
目線を落として、ふと気づく。
…これ、僕の靴。
まるでそこにあって当たり前かのように、昔と変わらない状態で同じ位置に置いてあった。
僕がいつか帰ってくることを予言していたのか、片付けずに置いていてくれたようだ。
「おかえりなさい。」
目線を再びあげると母さんが立っていた。頭に白髪が増えて、皺が多くなった顔だったけれど、微笑んだ時にできるえくぼや、目尻のシワはそのままで、
昔と変わらない優しい表情。
ただいま、の後のセリフを用意していなかった僕は母さんとの目線を逸らして後頭部を搔きむしりながら靴を脱ぐそぶりに時間をかける。
「ダメやったとね。」
母さんは僕の気持ちを察して優しい声でそう言った。
靴を脱ぎ終わって母さんの前に立つと、悔しさと申し訳なさで、目頭が熱くなった。
「ごめん。」
そんな僕をみて惨めだと思ったのか、情けないと思ったのかはわからない。そう思ってくれてもいい。
覚悟していたけれど、母さんはそれ以上のことを聞いてこなかった。
「明日から家の手伝いしてもらうけん。」
小学生を相手にするように話を逸らしてくれる。
そう接してくれたことがどれだけありがたかったか。
僕は母さんの優しさを噛み締めた。
「うん。」
心が救われた。
母さんがいてくれてよかったと心の底から思った。
ーその夜、父さんにしこたま怒られたのは言うまでもない。
地元にはやけに飲み屋が多い。
飲むのが好きなオヤジ達が多く、需要があるからだと思う。
当然、オヤジ達だけではなく、その血をひいている友人達も多くいるわけで、次の日は早速その友人たちに付き合わされた。
僕が帰ってきた事をどこで聞きつけたのか、早速家に押しかけてきて部屋に上がり込み、家事を一通り終えてウトウトしていたところを叩き起こされた。
返事を言う暇もなく連れ出され、今に至る。
全く、こいつらも昔と変わらない。
お調子者のナオトは店員さんを入店して早々口説いているし、いじられキャラのマサオはチャラ男のジュンに相変わらず声が小さいだのヒゲが濃いだのと、いじられている。
騒がしい3人だ。
「ユウ、ちゃんと生きとったったいね。」
ジュンはマサオをいじるのをやめて大人しくなり、ビールの入ったジョッキを持ちながら僕の方を見て唐突にそう言った。
「勝手に殺さんでばい。」
関西では標準語で喋っていたが、福岡に戻ると綺麗に方言に戻る。
はは、っと笑ったジュンの口にグビグビとビールが流し込まれていった。
「ユウが帰ってきてくれたけん嬉しかー。」
マサオが満面の笑顔で言った。
「嘘やん。」
僕は何故か照れ臭くなって一度否定する。
「本当やけん。待っとったもん。ハチ公みたいに駅前でずっと。」
マサオは舌を出して犬の真似をした。
「お前は豚やろが。」
ジュンがマサオの頭を叩く。
「いてっ」
舌を出していたマサオは頭を叩かれた反動で思い切り舌を噛んでしまった。
僕はそれを見て思わず笑みがこぼれる。
久しぶりに笑った気がする。
くだらない光景でも、こうやって笑える、こうやって仲間がいることが幸せだと思った。
「ゆうと本気で歌手なれると思っとったと?」
幸せな気持ちから一転、嫌な気持ちを思い出させたのはナオトだった。
さっきまで店員さんに絡んでいたがいつの間にか席に戻ってきていて、そう言いながら僕の隣に座った。
本気かどうか。?
本気じゃなかったら地元を離れていない。
ただ、また諦めて戻ってきた自分が今更、本気だったなんて言えるはずもなかった。
「まあ、無理かもとは思っとった。」
無理なんて考えていなかったが、結果論で考えると無理だったことに間違いない。
「無理やろ。ゆうと、全然オーラないけん。」
思ったことをすぐ口に出すナオトは時に感情を逆なでしてくる。
さらにそれに乗っかるように「それな。」
と同意をして笑うジュンも同じく。
隣でニコニコと歯を見せるだけのマサオが一番害はない。
だが、笑われるだけでも悔しかった。
才能の無さを実感して、無理だと実感して帰って来たはずなのに。
もう歌うことは無いと決めているはずのに、心の何処かで本当にこのまま辞めてもいいのか問う自分がいた。
「でも、いい経験できたけん、踏ん切りついたし、これからは普通にサラリーマン目指すわ。」
自分の言葉が一番自分を苦しめていることは少しだけ気づいていた。
それでもこう言うしかなかった。
関西に戻れないことはわかっていた。戻ったとしても先に進めないことは経験したから。
「それがよかばい。」
「うん。」
それがよか。
自分でも、言い聞かせるしかなかった。
「今日はゆうとのおかえり会やけん、たくさん飲んでばい。」
気持ちにしこりを残したまま、そのしこりをアルコールで蒸発させるように大量のビールを体内に入れた。
飲んでも飲んでも、悔しさは消えずに、それどころか苦しくなっていった。
「いい飲みっぷりやん。」
ジュンがそう言いながら、次の酒を注文してくれる。
隣に座っているナオトは僕に負けじとガバガバと酒を飲んで、酔った勢いで女性店員にしつこく声をかけた。
大人しくマイペースに飲むマサオは、心配そうな顔をしていたが、僕は気に留めずに飲み続けた。
「ゆうと、やっぱ地元が一番やろ?」
ナオトが肩を組んできた。
溢れそうになったお猪口をテーブルに置いてナオトの肩を組み返す。
「せやな。」
「言ったそばから関西弁になっとるし」
「冗談たい。地元が最高ばい。」
最高…。
そう言いながらも、本心は逃げてるようで嫌だった。
苦しかった。
'苦しいから逃げるのではない、逃げるから苦しいのだ'
彼女の顔とともにフィードバックされた、あの言葉。
まるで今の自分を予言されていたかのようだ。
「お姉さんかわいかね、千年に一人の逸材だと思う」
ナオトが店員にそう言った。
細木の顔とナオトの顔が被り、
そんな気安く千年を語るな
と思わず口から溢れそうになったので、
お猪口に入った冷酒を口に入れてぐっと押し込んだ。
帰り道、ミナにラインをした。
カタカナでミナと書かれた名前を見て、
吉岡美菜の文字を頭に浮かべる。
送ったメッセージには当然、既読すらつかない。
酔っていたのでどうでもよかった。送信しただけで満たされた僕はスマホをポケットにしまって、前を歩く3人の元へと小走りで追いついた。
〉結局、君も逃げてるじゃないか。
僕の皮肉に彼女から反応があったのは数週間後だった。
深夜。
そろそろ寝ようかとウトウトしていた時にスマホがバイブレーションとともに鳴りだした。
画面を見ると、ミナの文字があり、
一瞬、出ないでおこうかと思ったが、指を動かして着信に出た。
耳に当てたスマホからはしばらくの沈黙の後に、
「ユウさん…」
と懐かしい声が聞こえた。
「ミナ…」
久しぶりの声に嬉しくなる。
突然自分の前から姿を消して裏切った彼女を、まだ必要としている自分がいた。
「会えますか」
静かに、落ち着いた声でミナはそう言った。
僕の心も落ち着いていた。
すぐには返事が出来ず、少しだけ沈黙ができる。
部屋のアナログ時計の針の音が聞こえ、その音に目を向けると1時を指していた。
秒針が半周回った時には返事が決まっていたが、
すぐに返事をしたら、彼女からのその言葉を待っていたと思われるのが嫌で、それからわざと考えるような間を置いて答えた。
「いいよ。」
もう半周、秒針が回って、
深呼吸をした後に言った。
彼女に会うために再び関西に行った。
使うかどうかもわからないギターを抱えて。
ただ、関西に行くのにギターを抱えていない方が僕にとって不安だったので、必然的に抱えていた。
待ち合わせ場所は大阪駅前。
僕が路上ライブをしていた場所。
ミナとこの場所で会うのは初めてだ。
改札を抜けてその場所へ向かうと、一人の女性の後ろ姿があった。
後姿からでもわかる。
淑やかな黒髪、身長、雰囲気。間違いなくミナ。
久しぶりに見た彼女の姿は変わっていなかった。
冷たい風が後ろからびゅうと吹き、僕の背中を押した。
「久しぶり。」
かける言葉に迷ったがこれ以外に思いつかず、そう言って後ろから声をかけた。
「ユウさん、ごめんなさい。」
振り返った彼女は僕の顔を見るなり謝った。
頭を下げる彼女を見て同情の気持ちをじわりと感じる。
「別に。いいよ。」
良くはない。
急に僕の前から姿を消して。
君がいたから僕は歌い続けていたのに。
歌うことをやめて君を選ぼうとしていたのに。
思うことは山ほどある。
言いたいことは溢れるほどにある。
言わないように我慢していた。
「私、やっぱり夢は諦めきれない」
彼女のその言葉を聞いて、その我慢はあっけなく終わる。
「勝手やね。あの日、僕の前からいなくなって何してたの、お金は?」
ちらほら視界に映っていた通行人も気にならなくなり、彼女の目だけを見た。
彼女は僕の目から逃げるように目を逸らしながら答えた。
「今まで生きてきた私を全部捨てたかった、お金は働いて稼いだ。」
「どこで。」
「風俗」
なんで、。
そこまでする必要がある。
最初に思ったのはそれだった。
「そんなことまでして自分を捨ててどうするつもりだったの」
「誰も私を知らないところでこっそり生きていきたかった」
「いつか君は僕に逃げるなって言ったよね。君の方が逃げたってことか。」
「逃げてない」
「逃げたやろ」
「違う!」
彼女の目が潤んでいた。
それを見た僕はそれ以上に彼女を責めることができず、言葉に詰まる。
「…それで。何でまた僕に会おうと思ったの」
「あなたに見守っててほしいから。女優になる私を。」
「そっか。やっぱり君は勝手やな。」
はぁ、と吐き出した白い息が上へと流れる。
首筋に冷たい風が入り、身震いがした。
今日は格段に寒い。
手袋をつけている手も、若干、かじかんできていた。
「そういえば、僕の歌、君は聞いたことないよね」
ギターケースを持つ手に力を入れると同時に言葉が溢れた。
沈黙を断つためと、彼女に聞いてもらえば気持ちの整理がつく気がしたからだ。
「うん」
彼女は僕を見てゆっくり頷く。
「聞いて、そして何で僕がプロになれないのか、教えてよ」
大阪駅前、ツンと冷たい空気の中。
僕はギターをかき鳴らしながら歌った。
客は、彼女一人。
かじかんだ手が思う通りに動かないが、乱暴に動かし続ける。彼女だけに向けて言葉を、歌を発する。
一番自信のあるオリジナル曲。
正直なところ、彼女をイメージして作った曲だ。
通り過ぎていく人なんて気にならない。
彼女さえ居てくれれば僕は歌える。
次第に指も動くようになってきた。
喉も開いている。
数週間、弾いていなかったが鈍ってなかった。むしろ何かが吹っ切れて思うように弾けている。
これでもまだ、未熟な演奏だとは思う。しかし、今、僕にできる最高の演奏。
吐き出す。全部。僕の中の全てを。
歌に乗せて君に。
最後の歌詞まで集中力を切らすことなく、歌い切った。
最後までミナは僕を見てくれていた。
拍手はなく、ただ僕を見て立っている。
最後まで、ミナ以外の人間は誰一人立ち止まってくれなかった。
当然、そうだとは思う。
この程度なのだから。
「どう?こんなんじゃだめよな、何がプロだよ。」
ギターを持ったまま立ち上がり、よく見ると彼女は涙を流していた。
「感動したよ。あなたはプロになれるよ。」
頬に伝う涙を拭いながら彼女は言った。
「嘘つくな、どこが悪いか言えよ」
何故か、僕は悔しかった。
彼女のその言葉を素直に受け入れるべきなのに。
彼女のその言葉を待っていたはずなのに。
「悪いところなんてないよ。」
初めから彼女に向けて歌っていた。
それなのに、
彼女以外の人間には届かなかったことが悔しかった。
「君は演技が下手だ」
「何でそんなこと言うの」
どうして僕はこんなことを言うのだろう。
「僕の歌も下手だって正直に言えよ」
違う、こう言いたい訳じゃない。
「下手じゃない」
「もう、夢を諦めさせてくれ」
「あなたはプロになれる」
「やめろ」
ギターを地面に叩きつけた。
バキンッとネックが折れ、弦がハジけた。
ネックと弦の間に挟んでいたピックがピンッと宙を舞った。
すごい音に、周りが騒つく。
「ごめん。きっと君は上手いと言ってくれるだろうと思った。最後に誰かに認められたいと思った。ギターも、そのために持ってきた。
今日で君と会うのは最後。
僕は君が女優になるのを遠くから見守っておくよ。
頑張って。
僕みたいに逃げるなよ。」
彼女の頭を雑に撫でた。
彼女は何も言わず、涙を流していた。
「じゃあね。」
俯いた彼女を残して、僕は関西から逃げた。
もちろん、彼女は僕のことなんて追ってこない。
最後に、振り返ると折れたギターを拾い上げる彼女の背中が見えた。
その背中に向かって上空から白い雪がパラパラと落ちていく。
初雪だ。
街灯の光でキラキラと光りながら落ち、消えていく。
その中で、彼女は僕の叩きつけたギターをそっと抱えて、ケースに入れようとしていた。
この日の彼女の後姿を僕は一生忘れることはないだろう。
自分でそう思った。
それ以降、彼女から連絡がくることはなかった。
エピローグ
きっと嫌われているだろう。
最後にあんなこと言ったんだから。
泣いていた彼女の顔、最後の後姿を思い出してしまう。
僕自身も、あの日あのまま歌うことを辞めたのは正解だったのか、今が正しい道なのか不安になることがある。
あの時は、逃げることが自分にとって正しい選択だと思ってそうした。
十分に努力して、夢を追いかけて、納得して、辞めたつもり。
手に持った発泡酒の缶をテーブルにコツンと置いたとき、テレビの中の、ゲストが代わった。
「次のゲストは、今、ブレーク中の女優、笹崎ミサさんです!どうぞ」
「よろしくお願いします。」
一瞬、目を疑った。
笹崎ミサという名前はよく聞いたことあったが、姿を見るのは初めてだった。
初めて見た笹崎ミサは、
どう見てもミナだったのだ。
ミナ…。
君は夢を叶えたんだね。
消そうとして手に取ったテレビリモコンを持ったままテレビに釘付けになる。
「笹崎さんはとても苦労人だとお聞きしておりますが、何かエピソードを教えていただけますか?」
「はい、私、偽事務所にお金を騙し取られたことがあります。契約に100万円必要だと言われて。」
「それは酷いですね。」
「その事がきっかけで、やめてしまいたいと思って一度、逃げ出してしまったんですが、一緒に夢を目指してた人が支えてくれて、今の私がいます。」
「その人も、夢を叶えましたか?」
「今、どこにいるかはわかりません。けど、テレビの向こうで私を見守ってくれていると思います。」
テレビの中の彼女は首にぶら下げたギターのピックを大事そうに握りしめていた。
彼女の現実と僕の現実。
大きな違いはあるが、悔しくはない。
彼女が笑っていられることが僕にとって幸せだと感じた。
あの日あのまま、僕と一緒に居続けていたら、こうはなっていなかったかもしれない。
これで良かったんだ。
辞めた今だから思うことがある。
逃げても、続けていても、苦しい。
苦しいけれど、どこで自分が納得するのか。
夢を叶えて報われるためではなく、自分が納得するために頑張り続けるのだと思う。
彼女にとって続けることが納得のいく道だったのなら、
僕にとって諦めることが納得のいく道だった。
夢が叶わなかったからダメだった訳ではなくて、夢に向かって頑張ったからこそ今の自分がある。
そもそも夢なんて、夢でしかない。
叶わなくて儚いもの。誰かがそう言っていた。
努力するための言葉だと思う。
叶えばそれが現実であるし、諦めてもそれが現実。
自分の現実を手に入れるために人は苦しむ。
それが思い描いた現実だろうと、思わなかった現実だろうと、苦しんだ結果なのであれば悔いはない。
苦しいから逃げるのではない、逃げるから苦しいのではない、苦しさを共にして生きていくほかないのだ。
僕はテレビのリモコンを握りしめて泣いた。




