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雪解け

 黒い闇の中、音もなく降り注ぐ雪が静かに踊っている。

 積もる雪は、知らぬ間に心を埋める不安のようだ。気付いた時には既に遅く、小さな体は身動きひとつ出来ない。足掻けば足掻くほど、より深く落ちていく。

 一瞬だけ弾けた意識に、倒れ逝く父の姿が見えた。次いで、美しかった母の胸に、鮮やかな大輪の花が乱れ咲く。その熱い花弁の一枚を頬に受け、少年は思わず唇を噛み締めた。

 叫んではいけない。声を出してはいけない。両親が命をかけて守ってくれた自分と、その小さな手に握られている物を奪われてはならないのだ。

 飛び出して敵に向かおうとする体を必死に押さえ、少年が更にぎゅっと強く唇を噛み締める。

 口内に広がった血の味は、忘れられないものとなった。




 嫌な夢を見て、意識がぱんっと弾けた。呼吸は浅く、体は嫌な汗でぐっしょりと濡れている。見慣れない天井に驚いて動かした体は、息を奪うほどの激痛をユリシスに与えた。思わず漏れ出た呻き声に反応して、ベッドの脇にいた栗色の塊が僅かに動く。動いて、ゆっくりと頭を上げた。

 まどろんでいた若草色の瞳がユリシスを捉えると、見る間に大きく見開いていく。互いの瞳がぶつかり合うと、少女が惜しげもなく感情をあらわにして嬉しそうに笑った。


「良かった、目が覚めて! 死んじゃったらどうしようかと思ったんだよ」


「……」


「ちょっと待ってて。お水、持ってくる!」


 放たれた矢のように、少女が慌しく部屋を出て行った。かと思うと、あっという間に水を持って戻ってくる。少女の後に続いて入ってきた女性が、ユリシスの額に手を当てて優しく笑った。

 その微笑みに母親の面影を重ねてしまい、ユリシスが苦しげに目を逸らした。


「熱もさがったようね。背中の傷は深いけれど、ゆっくり療養すれば治るわ。心配しなくていいのよ」


「……ここは?」


「イスフィルよ。あまりに辺境の村で知らないかしら。村は結界に守られているから、魔物は簡単には入って来れないの。だから安心して休みなさい」


 口に含んだ水はとても冷たくて、熱で火照ったユリシスの体に心地良い感覚を与えてくれた。


「服も着替えちゃいましょうね。汗で濡れて気持ち悪いでしょう」


 言いながらユリシスの服に手をかけた女性が、ふと手を止めて背後で佇んだままの少女へ目を向ける。


「レフィス。キッチンに行って、スープの火加減見てて頂戴。おいしいスープで、この子を元気にしちゃうぞー!」


「はあい!」


 軽く上げた母親の拳に自分の小さな拳を合わせて、レフィスが再び風のように部屋から飛び出していった。ぱたぱたと駆けて行く足音が、途中で一度ごてんっと音を変え、その後何事もなかったように遠ざかっていく。


「もうちょっと落ち着いてくれるといいんだけどね」


 くすくすと笑う女と、元気一杯の少女に、まるで温かな陽だまりの中にいるような感覚を覚え、不意に目頭が熱くなる。その先を戒めるように目を閉じたユリシスだったが、無くしてしまった温もりに再び触れてしまった感覚は胸の奥に深く刻まれ、いつまでも消える事はなかった。



 反逆者によって両親を殺され、国を奪われたユリシスの心は、深く暗い奈落へ落ちたまま凍て付いてしまった。自分とルヴァルド以外は、誰も信じられない。すれ違う他人でさえ、自分の命を狙う刺客だと感じてしまう。いっそブラッディ・ローズなど捨ててしまえばいいとさえ思いはしたが、両親が命をかけて守った物を手放す勇気は、幼いユリシスにはまだなかった。


 今は復讐の念しかなかったが、それを成し遂げるだけの力をユリシスは持っていない。唯一の切り札であるブラッディ・ローズと契約するには、ユリシスはまだ幼すぎる。いろんな事がいっぺんに起きて、ユリシスを囲む現状は厳しいものになっていると言うのに、それを打開する術をユリシスは何ひとつ持ってはいない。それが更に、不安と焦りを生んでいた。

 それなのに――。


「お水持ってきたよ。この泉の水はね、何と癒しの力が……うひゃあ!」


 水を持って部屋に入れば、何もないところで躓いて、グラスごとユリシスに水を浴びせ……。


「ちゃんと食べてしっかり治そうね!」


 医者の真似事か、スープを飲ませようとして、熱い液体をユリシスの服に零したり……。


「私、白魔法習ってるんだよ。少しなら傷、治せるかも」


 独学で学んだ魔法の呪文に失敗し、部屋中を蛙で埋め尽くして母親に叱られたり……。


 ここにいると、今まで抱えていた不安や焦りを感じる暇がないほど騒がしい。最初こそ、体が動けばすぐにでも出て行きたいと思っていたが、今では部屋に少女が来るのを密かに待っている自分がいる。

 国を追われてからずっと見ていた悪夢を、いつの間にか見なくなっていた。




「ねえ、これ見て。ほら!」


 今までずっと外にいたのか、レフィスの唇が寒さで青く震えている。同じように冷たくなった手に握られていたのは、冬の季節には珍しい淡い桃色をした小さな花だった。


「これね、エリティアって言うんだけど、冬に咲くからとっても珍しいんだよ。お部屋に飾ろうと思って、見つけてきたんだ」


 嬉しそうにエリティアの花を花瓶に生けるレフィスの肩から、積もった雪がはらはらと零れ落ちていく。一体どれくらいの時間外にいたのだろうと、ユリシスは半分呆れながらレフィスの後姿を見つめていた。

 たかが、野の花一本。しかも突然現われた見ず知らずの子供に、この少女は、この家族は何を思って接してくるのだろう。自分の事など何一つ喋らない、不審な子供であると言うのに。


「エリティアはね、とってもいい匂いがするんだよ。ほら、嗅いでみて」


 顔のすぐ側まで寄せられた花からは、春の陽だまりを思わせる香りがした。それは、この少女のように優しい香りだった。


「……お前は、不思議に思わないのか。俺の事……」


「不思議だよ? でも自分から話せるまで待ってなさいって、お母さんが言ってた。話せない事は、誰にもあるもん。私も、お母さんが大事にしてた香水を半分くらい零しちゃった事、まだ言えてないし」


「……馬鹿か、お前」


 頬をぷうっと膨らませたレフィスの瞳に、かすかに笑うユリシスが映る。ここに来て、初めて見せた笑顔だった。


「……――ユリシス、だ」


「え? 何? ユルシュス?」


「……ユーリでいい」


 溜息をついて呆れたようにレフィスを見たユリシスだったが、その心に芽生えた温かい気持ちを、今では心地良く素直に受け止める事が出来ていた。


 窓の外では相変わらず、黒い空に雪が踊っている。

 降り積もる雪の中、寒さに負けず、凛と咲く一輪の花。その淡い色は、ユリシスの心を覆う冬を包み、一足早い雪解けを連れてくる。

 穏やかに溶けて行く雪の中に、温かい光を見たような気がした。


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