第8話「レンズ越しの世界とにぎやかな来客」
ルピナス遺跡の朝は、これまでとは全く異なる音で始まった。
かつては、石壁の隙間を抜ける風の音や、魔導回路が発する微かな低周波の音しかなかった。
だが今は、調理器具が触れ合う軽快な音や、焼きたてのパンが放つ香ばしい匂いが、冷たい石の回廊を巡っている。
「守護者様、おはようございます! 今日の朝食は、街で一番人気のベーカリーから取り寄せた特製サンドイッチですよ!」
エリスが目を覚まし、聖域へと足を踏み入れると、そこにはエプロン姿のギルド員たちが待機していた。
彼らは昨夜のうちに、遺跡の一部を住居として整え、配信用の魔導カメラを駆使して「防衛配信」ならぬ「遺跡生活配信」を開始していた。
「……おはよう。皆、朝から元気だな」
エリスはまだ少し眠たげな目を擦りながら、差し出された皿を受け取った。
そこには、たっぷりの野菜とハム、およびとろりと溶けたチーズが挟まったサンドイッチが載っている。
一口かじれば、外側はパリッと香ばしく、中は驚くほどふんわりとしていた。
「美味しい……」
エリスの素直な感想に、配信のコメント欄が瞬く間に埋まっていく。
『守護者様のもぐもぐタイムきたー!』
『あの幸せそうな顔、見てるこっちまでお腹空いてくるわ』
『ギルマスの仕込みが完璧すぎる件について』
エリスは、空中に浮かぶ自分の姿を客観的に眺め、少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
自分の日常が世界中に公開されているという事実は、依然として奇妙な感覚だったが、そこに悪意がないことを理解した今は、それほど嫌な気分ではなかった。
レオンは、エリスの隣で豪快にサンドイッチを頬張りながら、満足そうに頷いた。
「だろ? ここのパンを食べたら、他のじゃ満足できなくなるんだ。さて、エリス。飯を食い終わったら、今日は遺跡の『大掃除』をしようぜ」
「掃除……? 自動清掃プログラムなら、常に作動しているが」
「いやいや、そういう機械的なやつじゃなくてさ。埃を払って、窓を磨いて、新しい家具を入れて……。ここを、本当の『家』にするための掃除だよ」
レオンの提案に、エリスは首を傾げた。
彼にとって、遺跡は守るべき「対象」であり、快適に過ごすための「家」という認識は希薄だった。
しかし、レオンの瞳に宿る熱意に押され、エリスは「分かった」と小さく頷いた。
***
掃除は、エリスの想像を遥かに超える大掛かりなものだった。
ギルド員たちは、魔法と体力を駆使して、数1000年の間にこびりついた汚れを次々と落としていく。
暗かった回廊には、地上の光を効率よく取り込むための魔導鏡が設置され、これまで隠されていた美しい壁画や彫刻が、再びその輝きを取り戻した。
エリス自身も、自身の魔力を微調整して、遺跡の照明を柔らかい暖色系へと書き換えていった。
「……この壁画、こんなに鮮やかな色をしていたのか」
エリスは、磨き上げられた壁に描かれた、古代の人々の営みを指でなぞった。
かつては無機質な記録としてしか見ていなかったものが、今は不思議と、温かみを持って迫ってくる。
それは、エリス自身の心が、温かな感情を知ったからに他ならなかった。
昼過ぎになると、掃除を終えた一同は、中庭にある広場で休憩を取ることにした。
そこは、かつては侵入者を足止めするための複雑な迷路だった場所だ。
しかし今は、トラップのスイッチが切られ、代わりにふかふかのクッションや椅子が並べられている。
「守護者様、これ、街で流行っているカードゲームなんです。一緒にやりませんか?」
1人の若い女性団員が、エリスにカードの束を差し出した。
エリスは戸惑いながらも、教えられるままにゲームに加わった。
「ええと……このカードを出せばいいのか?」
「あまっ! それは最強のカードですよ、守護者様! 私の負けですー!」
楽しげに笑う彼女たちの声に、エリスの心も自然と解けていく。
レオンは少し離れた場所から、その様子を優しい眼差しで見守っていた。
エリスが笑うたびに、遺跡全体の魔力が微かに脈動し、周囲の草花が芽吹く。
その連鎖反応こそが、レオンが何よりも見たかった景色だった。
***
夕暮れ時、配信の視聴者数は過去最高を記録していた。
かつての「恐ろしい古代遺跡」の象徴だったルピナスが、今は「世界一平和な楽園」として紹介されている。
エリスは、画面の向こう側にいる名もなき人々に向けて、静かに口を開いた。
「……皆、見てくれてありがとう。私は、長い間、孤独を当たり前だと思って生きてきた。でも、今は違う。隣にいてくれる人がいて、笑いかけてくれる人がいる。それだけで、世界がこんなに美しく見えるなんて、知らなかった」
エリスの言葉は、飾らないがゆえに、多くの人々の心に深く刺さった。
コメント欄には、感動の言葉と共に、たくさんの「ハート」のアイコンが溢れ出した。
エリスはそれを見て、小さく、だが確かな幸福を噛み締めた。
しかし、平和な日常の裏側で、新たな動きも始まっていた。
バルカス一族の失脚後、王国政府はルピナス遺跡を「歴史的文化遺産」として正式に保護することを決定した。
それは喜ばしいことではあったが、同時に「ギルド」と「守護者」による管理が、公的な組織に介入される可能性を意味していた。
レオンは、届いた公文書を眺めながら、不敵な笑みを浮かべた。
「ふん、今更手を出そうったって、遅いんだよ。ここはもう、俺とエリスの大切な家なんだからな」
レオンは公文書を机に放り投げ、隣で眠るエリスの頭を優しく撫でた。
彼らが直面するであろう次なる試練。
それは、外の世界の「ルール」という、暴力よりも厄介な敵かもしれない。
だが、今の彼らなら、どんな困難も「二人で」乗り越えていける。
エリスの寝顔は、かつてないほど穏やかで、深く、豊かな安らぎに包まれていた。




