第3話「古の静寂を乱す香りと吐息」
レオンが初めて遺跡を訪れてから、数週間が経過した。
あの日以来、彼は宣言通り、毎日欠かさずエリスのもとへ通い詰めていた。
それも、毎回異なる「贈り物」を携えて。
ある日は街で評判の甘い焼き菓子を、ある日は色鮮やかな珍しい果物を、そしてまたある日は、地上の流行を記した最新の魔導雑誌を。
エリスは当初、彼の訪問を頑なに拒もうとしていた。
「また来たのか。お前には、ギルドマスターとしての仕事はないのか」
玉座に座るエリスは、わざと冷ややかな声を装って問いかけた。
だが、その手には、前回レオンが置いていった本がしっかりと握られている。
レオンは慣れた様子でエリスの隣に腰を下ろし、持参したバスケットから温かいスープの入った小瓶を取り出した。
「仕事なら、部下たちに任せてきたよ。優秀な奴らばかりだから、俺がいなくてもギルドは回る。それより、君にこれを食べさせたかったんだ」
蓋を開けた瞬間、スパイスの効いた食欲をそそる香りが、冷たい空気の中に広がった。
エリスの喉が、無意識のうちに小さく鳴る。
彼は数1000年の間、魔力の供給だけで生命を維持しており、食事という行為そのものを「無駄な生存活動」だと考えていた。
しかし、レオンが持ってくる食べ物は、どれも驚くほど鮮やかで、エリスの味覚を優しく、時には鮮烈に刺激した。
「……一口だけだぞ」
エリスは観念したように口を開いた。
レオンは嬉しそうに目を細め、銀のスプーンで丁寧にスープを運び、エリスの唇へと寄せた。
温かい液体が舌の上を転がり、喉を通るたびに、凍りついていたエリスの五感が少しずつ解き放たれていく。
「どうだ? 街で一番人気の食堂の自信作なんだ」
「……悪くない。少し、刺激が強い気がするが」
「ははは、それは君が繊細すぎるからだよ。でも、その繊細さが君の魅力だ」
レオンの言葉に、エリスはまた顔を赤くして視線を逸らした。
最近では、レオンが放つアルファのフェロモンも、不快な刺激ではなく、心身を安らげ、深い安心感を与えるものへと変化していた。
エリスの肌は以前よりも血色が良くなり、陶器のようだった顔立ちに、年相応の少年の瑞々しさが戻りつつある。
配信を見守る視聴者たちも、この変化に敏感に反応していた。
『今日の守護者様、なんだか表情が柔らかいな』
『ギルマスのデレデレっぷりが加速してるけど、これはこれで尊い』
空中を漂うコメントの文字は、今やエリスにとっても「外の世界との繋がり」を感じさせる心地よいノイズになっていた。
しかし、穏やかな時間は、唐突に訪れた変化によって乱されることになる。
「っ……はぁ……」
エリスが突然、苦しげに胸を押さえて玉座に沈み込んだ。
身体の芯から、熱い泥のような感覚がせり上がってくる。
視界が急激に歪み、空気中の魔力密度が異常なほどに跳ね上がった。
「エリス!? どうした、どこか痛むのか?」
レオンが慌てて彼に駆け寄り、その肩を抱きしめる。
その瞬間、レオンは悟った。
エリスから放たれている香りが、これまでとは比較にならないほど甘く、扇情的なものに変質していることを。
それはオメガ特有の生理現象、発情期の前兆だった。
数1000年の間、眠っていたエリスの生殖本能が、レオンという強力なアルファの存在によって、ついに完全に目覚めてしまったのだ。
「あつい……身体の中が、燃えてるみたいだ……」
エリスはレオンの服を力なく掴み、救いを求めるように彼にしがみついた。
彼のうなじから放たれるオメガのフェロモンが、聖域を埋め尽くしていく。
その影響は、即座に遺跡の防衛システムへと波及した。
壁の魔導回路が激しく明滅し、制御を失った魔力が周囲の石柱を砕き、不規則な放電を起こし始める。
「警告。守護者の生体反応に異常。防衛プロトコルを緊急レベルに引き上げます」
遺跡に備わった人工精霊の声が、不気味に響き渡った。
守護者の不安定な精神状態に同期して、遺跡そのものが「発情」したかのように暴走を始めたのだ。
「エリス、しっかりしろ! 俺の声が聞こえるか!」
レオンは迫りくる放電を片手で弾き飛ばしながら、意識の朦朧とするエリスを強く抱きしめた。
エリスは熱い吐息を漏らした。
レオンの首筋に顔を寄せて、彼のアルファの香りを必死に吸い込もうとする。
「レオン……お願い、私を……壊して……」
朦朧とした意識の中で零れた、エリスの本音。
レオンはアルファとしての本能が、彼を組み敷き、全てを奪い去れと激しく命じるのを感じた。
だが、レオンは奥歯を噛み締め、その衝動を理性の力で抑え込んだ。
今、ここで彼を抱けば、暴走する遺跡の魔力に当てられ、エリスの身体が持たない。
レオンは自分の魔力をエリスの体内に少しずつ流し込み、彼の荒ぶるフェロモンをなだめるように中和し始めた。
「大丈夫だ、俺がいる。何があっても、君を1人にはさせない」
その言葉は、混乱の渦中にあるエリスの意識の底まで届いた。
遺跡の揺れが、少しずつ収まっていく。
しかし、この騒動は、平穏な日々の終わりを告げる前触れでしかなかった。
遺跡の異変を察知した地上では、欲望に駆られた者たちが、この好機を逃すまいと動き始めていたのだ。
エリスはレオンの腕の中で、安堵と、さらに深い場所から湧き上がる抗いがたい愛着に、身を委ねることしかできなかった。




