番外編「キッチン・ウォーズと甘い罠」
平和が訪れたルピナス遺跡の朝は、意外な方向からの騒がしさで始まった。
聖域の奥に新設された広々としたキッチンでは、エリスが眉間に深いしわを寄せ、目の前にある白い粉の山と格闘していた。
「……おかしい。配合は完璧なはずだ。魔導演算機で小数点以下まで計算したというのに、なぜ生地が膨らまないんだ?」
エリスの銀色の髪には、あちこちに小麦粉が付着し、頬には指の形をした白い汚れがついている。
彼はレオンに「地上の美味しいお菓子」を振る舞おうと、早朝から秘密の特訓を始めたのだが、古代の高度な魔法を操る彼にとって、料理という名の「化学反応」は、予想外に難解なものだった。
そこへ、寝起きの頭を掻きながら、レオンがふらりと入ってきた。
「おいおい、エリス。朝から遺跡が揺れてると思ったら、ここで何してるんだ?」
レオンは、真っ白になったエリスの姿を見て、必死に笑いを堪えた。
「笑うな。これは非常に高度な実験なんだ。……レオン、お前、この『イースト』という物質の挙動について、何か知っているか?」
「挙動って……。そりゃあ、温めて放っておけば膨らむもんだろ。エリス、まさか魔法で無理やり膨らませようとしたんじゃないだろうな?」
「……最適化しようとして、熱膨張魔法をかけた。その瞬間、生地が爆発したんだ」
エリスが忌々しげにキッチンの隅を指さすと、そこには謎の白い物体がべったりと張り付いていた。
レオンはついに我慢できずに、お腹を抱えて笑い出した。
「ははは! 最高だぜ、エリス! 守護者様がパン生地に負けるなんてな!」
「うるさい! 私は、お前に喜んでほしくて……っ」
言いかけて、エリスは顔を真っ赤にして黙り込んだ。
レオンは笑いを止め、優しくエリスの背後に回り、その手首をそっと握った。
「悪かったよ。でも、その気持ちだけで十分嬉しいぜ。ほら、手伝ってやるから、最初から一緒にやろう。料理は計算じゃなくて、愛情なんだからな」
レオンの逞しい腕がエリスを包み込み、大きな手がエリスの手を添えて、新しい生地を捏ね始める。
レオンから漂う、淹れたてのコーヒーのような、安心感を与えるアルファの香り。
エリスは、自分の心拍が少しずつ落ち着き、代わりに甘い幸福感で満たされていくのを感じた。
「……いいか、エリス。力任せに押すんじゃなくて、優しく包み込むようにだ。そう、ちょうど俺が君を抱きしめる時みたいにな」
「っ……変な例えをするな」
「はは、事実だろ?」
二人の指先が、柔らかな生地を通じて重なり合う。
エリスは、レオンの体温を感じながら、ゆっくりと生地を丸めていった。
さっきまでは単なる物質の塊に見えていたものが、今は不思議と、生命を持っているかのように温かく感じられた。
数時間後、オーブンから香ばしい匂いが漂い始めた。
出来上がったのは、少し形はいびつだが、ふんわりと黄金色に焼き上がったパンだった。
エリスは緊張した面持ちで、一口大にちぎったパンをレオンの口へと運んだ。
「……どうだ?」
レオンはゆっくりと咀嚼し、そして世界で一番幸せそうな笑顔を浮かべた。
「うまい! 今まで食べたどのパンよりも、ずっと優しい味がするぜ」
「……そうか。なら、成功だな」
エリスは安堵のため息をつき、自分も一切れ口に含んだ。
口の中に広がる、素朴で温かな甘み。
それは、1人でいた頃には決して味わうことのできなかった、二人で作り上げた「日常」の味だった。
「なあ、エリス。パンもいいけど、俺はこっちの方が食べたいな」
レオンが不意にエリスの耳元で囁き、彼のうなじにある刻印に、優しく舌を這わせた。
「ひゃっ……! レオン、まだ朝だぞ……っ」
「関係ないさ。俺の『食欲』は、君のことで年中無休なんだから」
エリスは抵抗しようとしたが、レオンの甘いフェロモンに瞬く間にほだされ、その胸の中に沈んでいった。
キッチンの隅に置かれた魔導カメラが、主人の危機(?)を察知して一瞬だけピントを合わせたが、すぐに「プライバシー保護モード」に切り替わり、レンズをそっと逸らした。
ルピナス遺跡の朝は、これからもこうして、騒がしくも甘美な日常と共に明けていくのだ。




