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   三三


 呼び鈴を鳴らすと、インターホンからエリコちゃんの声がした。


「ちょっと待ってて」


 オートロックの鍵が開く音がして、俺は扉をくぐり、マンションの中に入る。

 今、エリコちゃんの住むマンションに来ている。誘ってくれたのは彼女だった。新作の格闘ゲームを買ったが、対戦相手がいないので、俺に一緒にやってくれないかといってきたのだ。

 そして二人でゲームをするということは、エリコちゃんの部屋に行かなければできない話なので、つまり俺は今、彼女の部屋に侵入……もとい、招待されたのだった。

 いつものカフェで席に座って、この話を聞かされたときは、自分を誘ってくれているのがにわかに信じられず、つい周りをきょろきょろと見回してしまった。

 当然だがエリコちゃんの前には俺しかいなかったわけだが、「俺?」と確認してしまった。そして、「うん、君」といわれると、実際に声に出して雄叫びこそあげなかったものの、心の中で、「ゲットオオオオオ!」と叫ばざるをえなかった。

 もちろん、女性宅に招待されたことなど、今まで一度たりともない。これは快挙だ。今までの人生で、もっとも華々しい結果を出そうとしているのだ。

 とりあえず、何をどうしていいかわからなかった俺は、何か手土産がいると確信した。何が良いかと、しっかり考え抜いた結果、三つの品を持って行くことにした。エリコちゃんが好きだというサイダーの二リットルペットボトルとポテトチップスの特大袋、そしてこれもまたエリコちゃんが好きで集めているという、アヒルグッズを、はなみずき通りにある雑貨屋から探しだし持ってきていたのだ。

 ちなみに今日も、その雑貨屋のあるはなみずき通りを通ってきたが、例の建築中の建物は、もう外観はできあがっているようだった。店の看板には、『一番星亭』とあった。なんの店だろう。

 手に入れたアヒルグッズは、アヒルのイラストが描かれたコースターだった。サイダーを注いだコップの下に敷けるようにと、俺なりに頭を捻った。それを四つ持ってきた。

 準備万端。来る前にシャワーと歯磨きも済ませてきたしな。何があっても大丈夫。何もないけどな!

 エレベーターに乗り、エリコちゃんの住む部屋のある五階に到着した。エレベーターの扉が開くと一歩踏み出す。左右を見渡し、部屋番号を確認する。右手に進めば、彼女の住む五〇五号室だ。この階にエリコちゃんが住んでいるのか。それだけで、なんだか空気が美味しい気がしてくる。どきどきしながら五〇五号室に近づいていった。

 そして、彼女の部屋の前に来ると、どきどき感が最高潮に達した。落ち着け俺、と自分を諫めると、一呼吸おいてからインターホンを鳴らした。

 すぐに中からエリコちゃんが出てきた。


「いらっしゃーい。ささ、上がって、上がって」


 うわああああ、可愛い! シチュエーションがそうさせるのか、俺の目に映るエリコちゃんは、いつもの三倍増しの可愛さだった。ムーミンのミーがプリントされたTシャツに、ショートパンツ。ザ・部屋着といった感じだ。そして、ショートヘアーの後ろ髪を三つ編みみたいに織り込ませていた。初めて見る髪型だ。


「か、可愛い。似合ってるよ」


 そういいたかったが、声には出せず、心の中で思う。見とれてぼーっとしてしまった俺に、「ん?」と小首をかしげるエリコちゃん。は、いかん。平常心、平常心。

 何を思ったか俺は、彼女が背中を見せた隙に、掌に人を三回書いて飲み込んだ。

 部屋に通されると、何かいい匂いがした。そして、そこは女性らしい部屋で、すっきり整頓された清潔感のある空間だった。

 部屋にあるテレビの前には、ゲーム機と、ざぶとんのクッションが2つ置かれてあり、エリコちゃんは「さっそく、さっそく」と楽しそうにゲームに誘ってきた。

「あ、これ」持ってきた手土産を彼女に渡す。「ありがとう」と、中を確認したエリコちゃんは、すぐにアヒルのコースターに食いついてくれた。


「あ、これ、可愛い。いい。こういうの欲しかったんだあ」

「そう? 良かった」


 さりげなく喜びを表現するにとどめたが、もちろん心の中では、「ゲットオオオオオ!」だ。

 エリコちゃんは、ゲーム機の上に置かれていた、雄々しい格闘家の顔がプリントされた新作のゲームを手に持つと、「これこれ、これがやりたかったんだあ」と満面の笑みを浮かべた。もはや掌に書いて飲み込んだ人の効果は、ない。俺は、チャーム(魅惑)の魔法に完全にやられてしまっていた。

 すぐに、俺が持ってきたコースターの上に、サイダーが注がれたグラスが置かれるとゲームが始まった。

 エリコちゃんはけっこうアクティブで、テレビに映されるキャラクターの動きに合わせて体を動かしながら、「うりゃー」とか「とりゃー」とかいっている。

 俺もこのゲームのシリーズをやったことはあったが、彼女は予想以上に強く、いい勝負ではあったが、最後は必ず俺が負けるというところに終始した。


   ◇


「あー、楽しかった」


 ゲームがひとしきり終わり、上気した顔で満足そうにサイダーを飲むエリコちゃん。負けはしたが、俺にとっては、エリコちゃんの部屋に入っている時点でもう、圧倒的な勝ちだ。だから、ゲームに負けた悔しさなどみじんもなく、俺も満足していた。そこへ、とうとつに訊いてきた


「どう? 就職活動」


 一瞬、口ごもる。マサシさんとのことは話していない。マサシさんは、あれから告白などしているのだろうか。あいかわらず就活は難しく、好転はしていない。

 ふと、グッサンにいわれたことのある言葉を思い出す。


「正社員になることが、すべてじゃないですよ。俺もいえる立場じゃないですし、そういうのを求める女の子も確かにいますけど、エリコちゃんがそうだとは限らない。無理せず、自分がやれることをするべきだと思いますけどね」


 だが、そうはいっても、やっぱり、彼女も付き合う男に求めるものは、安定した収入なのではないだろうか。俺自身、いつか責任をとれるようになったら、それは必要だと思っている。だから、あがいている。


「いや、なかなか難しくて」

「やりたいことは見つかった?」

「うーん。今はやりたいことというより、なんでもいいから正社員になれればって思ってる」


 本音を漏らしてしまった。やりたいことが見つかれば、それに越したことはないが、現実、好きな小説で食っていけているわけじゃない。世間がよくいうように、仕事は好きでやるものじゃないのではないだろうか。


「私はね」エリコちゃんが、両手を組んで前に伸ばした。ストレッチしたことにより、「ん」と顔をしかめる。そして、表情を緩めるとつづけた。


「私は、今の仕事、好きだからやってるの。カフェが好きで、そのお仕事ができるから今の会社に就職して、がんばれてる。やっぱり、やりたいこと、好きなことを仕事にすべきだよ。仕事はずっとするものでしょ? やりたくないことで、ストレスを抱えながらはつらいよ?」


 理想論だと思った。誰だって、そんな仕事に就けるわけじゃない。小説家になりたくて五年間書いてきたが、成れちゃいない。


「コウタロウは何が好き?」

「え、えっと」


 迷わず、思い浮かんだのはエリコちゃんだったが、そう答えるわけにはいかない。


「コウタロウはパンが好きっていってたよね。大学の頃から、ずっとパン屋巡りしてるって。うちのカフェのだって気に入ったから来るようになったんだよね?」

「うん。パンは好きだよ」

「じゃあさ、パン作りに関わる仕事なんかどう? 好きなものに囲まれた生活、良くない? パンに限らないけど、そんなふうに自分の気持ちに正直になって、そこから仕事探しのヒントを見つけてみたらどうかな。パンを作る仕事ならパン職人を目指すとかね」

「パン職人かあ」


 考えたこともなかった。今までパンを食べることが好きで、ずっと食べてきたけど、自分が作り手になるなんて。小説家になりたい、なりたいという気持ちばかり先行して、もっと日常の近くにある自分の内側をちゃんと見ていなかった気がする。


「でも、難しいんだろうな。体力仕事だろうし」


 ついネガティブな発想が生まれてしまう。


「やってみなきゃわからないよ。なんでも簡単じゃないと思うよ。でも、好きだって気持ちがあれば、それに携われる仕事をしていると充実できるし、どんどんその仕事にのめり込めるくらいになれることだってある」


 エリコちゃんは、いつだって前向きだ。こうやってポジティブな言葉をかけてくれる。ありがたい。

 もしも、彼女に見合う男になりたいのであれば、それは、正社員になることよりも何よりも、俺だって前向きに生きることかもしれない。前向きに生きて、自分もエリコちゃんにいい影響を与えられるようになることかもしれない。

 それができたら、きっと二人は良い関係を築ける。もっと仲良くできる。今この瞬間、彼女がかけてくれる言葉を聞きながら、そんな気がした。

 気持ちが明るくなってきた。やるだけやってみるか。パン職人ってさ、なんかいい響きだよな。


「挑戦してみるよ、パン職人。パン、本当に好きだし、やってみる」


 俺の言葉にエリコちゃんの表情も明るくなった。


「本当? じゃあ、応援する。パン職人ってさ、なんかいい響きだよね。職人ってのがまたさ。あは」


 俺と同じことを考えてくれた。嬉しくなり、また声に出してみる。


「パン職人か」

「いいよね、パン職人」


 エリコちゃんも、まんざらでもない様子だ。


「うん、いい」


 パン職人か。その線で探ってみよう。好きなパンを作る仕事は、やりがいがあるに違いないと、すなおに思えた。今まで見つけられなかったものを見つけられた俺は、希望を見つけられたような気がした。

 そして、次の日から、さっそくパン屋の仕事を探し始めた。


   三四


 いよいよ俺の就活第二部が始まった。今度は目標がはっきりしている。パン屋だ。俺は好きなパンを作れるパン屋で働きたい。

 あれから自分なりに考えて調べてみたが、やっぱりパン職人はやりがいのある仕事だと思えた。朝早かったり、体力の要る仕事かもしれないが、好きなパンに囲まれた職場では充実した仕事が待っているような気がしていた。不思議とネガティブな感情は湧いてこないのだ。

 そうしてパン職人という肩書きに、憧れが生まれるのにさほど長い時間はかからなかった。

 ハローワークですぐに見つかったのは、パン屋のチェーン店だ。自分も利用したことのあるところだ。ほとんどのパンが一個一〇〇円(+消費税)で安く売られていて、品数も多く味もいい。その会社が正社員の募集をかけていた。

 さっそく履歴書を書き、応募した。書類選考になんとか通り、面接に進めた。

 だが、現実は甘くなく、ここでも不採用になる。

 落ち込んだ。パン屋の仕事は、特に正社員の募集がいくらでもあるわけじゃなかった。また別の求人を待たなければならない。

 しかし、以前とは違い、やる気は削げなかった。ようやく見つけた本当に自分のやりたいこと。自分はパン職人になりたい。その気持ちが嘘ではないことを証明しつづけようと思えたのだ。


   ◇


 ハローワークの帰り道、いつも通るはなみずき通りを原付で走っていると、例の建物が完成されていた。表の立て看板に店のオープン日が書かれてあった。「ん?」と思い、少し通り過ぎた所でバイクを止め、Uターンして店に引き返す。そして看板を見た。



『できたての美味しいパン、朝から焼いてます! 明日七時オープン☆ 心よりお待ちしております! 一番星亭☆』


「え、パン屋?」


 なんと造られていた建物はパン屋だった。そして入り口に張られてある張り紙に目が行った。


『アルバイト、正社員募集。やる気のあるかた、きたれ』


 息をのんだ。このタイミングで家の近くにパン屋ができ、そのパン屋が求人募集をしている。

 運命を感じずにはいられなかった。

 次の日の朝、オープンの七時にパンを買いに行った。よく晴れた日だった。

 店の扉を開けると、すぐに焼きたてのパンの美味しそうな匂いが鼻孔をついた。まず、それだけで好印象を抱く。

 先客は一〇名いた。店の中は周りがクリーム色の壁で、大きな窓から光が射し込み、店内を明るく照らしていた。

 入り口近くに置いてあったトレイとトングを取り、並べられたパンを物色する。新しいパン屋に入るときの、このわくわく感はたまらない。そして俺の目と鼻を満足させるのに十分なパンがずらりと並べられていた。

 クリームパンにあんパン、カレーパン。少し珍しいものでは、最近流行なのか他のパン屋でも見かけるようになったスイートポテトパンというものもあった。ホットドッグにサンドイッチもある。それらがパンの名札のついたトレーの上に、ぎっしりと並べられていた。

 俺が新しいパン屋に最初に来たときに必ず選ぶのは、クリームパンにウインナーパン、そしてカレーパンだ。俺の中の勝手な基準ではあるが、これらが美味しいと、もう合格である。足繁く通いつづけることになる。

 ここでも、その三点をトレイに一個ずつ乗せた。ちょっと趣向を変えて、ついでにスイートポテトパンも。

 レジに行くと、若い女性が会計をしてくれた。会計が終わり、「ありがとうございました」と笑顔でいわれる。そして、レジから見えるパン工房の方から、パン職人らしき男が顔を出し、「ありがとうございました」といってきた。

 黒縁眼鏡をかけた、精悍な顔つきの男だった。

 何か身の引き締まる思いがした。自分の主人になるかもしれないその男を確認し、店を出る。入り口のドアの求人募集の張り紙に書かれてあった電話番号をメモした。


   ◇


 家に帰ると、すぐに買ったばかりのパンを食べた。

 まずはクリームパン。

 少し力を入れて持つだけで、ちぎれて中のクリームが飛び出してしまうんじゃないかと思うくらい、柔らかいパン生地だ。何か期待感を煽られる。そして口に含んだ瞬間にもう、あ、美味いと思った。普通のカスタードクリームとは違う。もっと生っぽいというか、甘さも上品でしつこくなく、新鮮な感じがした。

 美味い。食べたことのない味だ。一個じゃ足りないな、と思わされた。

 次にカレーパンを食べた。

 カレールーはスパイシーだが、適度な甘味があり、子供でも食べやすいのではないかと思った。中身には珍しくチキンが入っていた。さほど大きい固まりではないが、カレーパンの中に入っている分には存在感抜群で、肉を食っているという食感が嬉しい。満足させてくれる。

 チキンが入っているせいか、これ、今まで食べたカレーパンの中でもトップはれるんじゃないかと思えた。

 つづいて、ウインナーパン。

 ウインナーと一緒にパンにかぶりつく。ウインナーの適度な弾力を感じ、ぷっつりと噛み切る。もぐもぐと咀嚼すると、ウインナーの肉汁が程良い塩気とうま味とともに口内に広がった。

 うん、美味い。上にふられている黒胡椒も効いている。ウインナーが美味い。その塩気が甘めのパン生地と合っている。

 そして最後にスイートポテトパン。

 コンビニなどでも置いているパンだが、ここのはどうか。

 大口を開けて頬張る。おお、これも嬉しい。さつま芋を使った美味しいクリーム。スイートポテトの味だ。男の場合、さつま芋をそのまま食べるのは、そこまで好きじゃない人も、スイートポテトにすると好きだといえる人は多いのではないだろうか。まさに、そのスイートポテトの味。

 さらに美味しい工夫もあった。中身はクリームだけではなく、クリームの中に小さな角切りのコンポートした(甘く煮た)リンゴも入っていたのだ。しゃりしゃりという食感。さつま芋とリンゴって合うんだと、新しい発見ができた。

 すべて食べ終わると、牛乳を飲み、一心地つく。ふー、食った。なんかまだ、口の中が美味しい。特にパン生地が良かった。本当に美味しいパンだ。食パンも美味いに違いない。今度買おう。

 というか……ここで働きたい。素直にそう思えた。エリコちゃんのアドバイスでパン職人になりたいと思い立ち、そのタイミングでオープンした店。そしてそのパンは、どれも美味しく、新しく新鮮で、これからこの地域で根付いていこうという意気込みすら感じた。

 ここに違いない。ここでなら、きっといいパン職人になれる。

 俺は面接の予約の電話をかけることにした。忙しい時間帯は避けなきゃな。

 そして、すぐに面接日が決まった。


   三五


 店が閉まった午後八時に面接が始まった。通された二階の部屋で、俺は緊張しながら席に着いていた。目の前に、あのパン職人の男がいる。やっぱり彼がオーナーだそうだ。


「じゃあ、さっそくだけど、なんでうちで働きたいの」

「あ、はい……」


 こ、言葉が出てこない。ここしかないという気合いが入りすぎているのか。それがさらに緊張を生み、頭が真っ白になっていた。

 わずかな沈黙だったが、これが人生の大事な局面だというのを感じさせるのに十分なプレッシャーを感じた。

 とっさに、自分の手の甲を見た。そこには、とてもシンプルな言葉が油性マジックで書かれてある。


『ここで大好きなパンを作る!』


 一呼吸する。頭が鮮明になっていくのを感じる。よし、いける。


「御社で大好きなパンを作りたいんです。私は昔からパンが好きで、新しいパン屋を見つけるたびに、そこに入ってパンを買っていたくらいです。だから、最近になってですが、自分もパン職人になりたいと思うようになりました。その矢先、こちらの店がオープンし、私は運命を感じ、すぐにこちらのパンを食べさせていただきました。とても美味しかったです。そして、どのパンも新しかったんです。同じクリームパンやカレーパンでも、よそとは違う工夫がされていました。進歩しよう、美味しいパンを作ろうという意気込みを感じました。この地域でやっていくんだという意気込みも。だから私は、こちらでパン職人になりたいとすぐに思いました。このパン屋で、私もお客様が喜ぶようなパン作りがしたい。心からそう思いました」


 言葉の入り口がわかると、スムーズに言葉は出てきた。そして、どきどきしながらオーナーの反応を伺った。

 精悍な顔つきで俺の目をじっと見ている。ひどく緊張しているはずなのに、なぜかその目で見つめられると、心が透き通っていくような感覚になっていった。そしてオーナーは、ゆっくりと口を開いた。


「うちはね、草野くんがいったとおりで新しいものを作ろうとしている。より美味しいパンをね。だから、これからも新作もどんどん出していこうと思っている。定番商品も大事にね。そうやって、この地域に根付くパン屋になりたいと思っている」


 オーナーはにこりと笑った。嬉しそうな笑顔だった。


「俺がやろうとしていることをわかってくれる奴が来るとは思わなかった。運命を感じたっていうのもいい。俺もそういうインスピレーションは大事にしている。うちは、朝、早いけど大丈夫?」

「はい。大好きなパンが作れるなら、元気に飛び起きます!」

「はは。元気がいいね。そうだな……」


 オーナーは腕組みをして、中空を見上げた。でも表情はにこやかで、悩んでいるという感じではなかった。嬉しいことがやってきた。そんな感じで嬉しさを感慨深く受け取っているような、そんな感じにすら受け取れた。もしかしたらと、不思議な予感があった。

 オーナーは両腕を広げて前のテーブルに置くと、俺の目をしっかりと見た。


「最初は見習い。三ヶ月間ね。その間はバイト扱い。三ヶ月後にやる気を見るために試験を行います。それをクリアしてもらったら、正社員に昇格。それに合格しなかったら、クビ」


 うわ、厳しいな、と思った。でも今は、その厳しさの中に飛び込んでみたいと思えた。オーナーの目を見ているとそう思えた。


「というのは冗談で、それに合格しなくても、また定期的に試験は繰り返します。諦めなければ、その姿勢を評価してチャンスを与えるからね」


 諦めなければチャンスは与えられる。その言葉にほっとした。だけど安心するだけでは駄目だ。がんばって、できるだけ早く正社員試験に合格しようと思った。


「はい! ありがとうございます! がんばります!」

「うん、よろしく。いつか戦力になってくれることを期待してる」

「はい!」


 俺は勢いよく立ち上がり、頭を下げた。

 仕事が決まった。就活、あんなに苦労したのに、決まるときはこんなにあっさり決まってしまうものなのか。それとも今までの苦労が積み重なって結実したのか。とにかくようやく決まってくれた。すぐに正社員というわけじゃないけれど、早く正社員になって一人前のパン職人になれるように、エリコちゃんに告白できるように、がんばるんだ。

 美味しいパンを作れる、本物のパン職人になるには長い年月が必要だろう。けど何度だってチャレンジして、いつか必ず成ってみせる。

 認められたという喜びが、急激に俺の心を活性化させ、ポジティブにしてくれていた。この気持ちをいつまでも大事にしようと思った。

 エリコちゃんに報告しなくては。ようやく彼女に良い報告ができる。俺は心底ほっとした。


   三六


 その日の夜、エリコちゃんに仕事が決まったと電話で伝えた。彼女もすごく喜んでくれているのが伝わってきた。


「輝いてるね、コウタロウ。私もがんばらなくちゃ」


 その言葉を聞いて、俺は今、ようやくエリコちゃんと付き合うための資格を手に入れられたんじゃないだろうかと思えた。

 彼女に前向きな影響を与えられる人間になれるような気がしたのだ。

 勇気が湧いてくる。まだ見習いだけど、試験に必ず合格して、そうしたら、告白するんだ。


「エリコちゃんのほうが、俺には輝いて見えるけどね」


 いつもは照れて口に出せない言葉も、今日は臆面もなく出せた。電話越しに、「あは」と笑うエリコちゃんの声を聞き、決意を固くするのであった。


「いつ正社員に成れるか、わからないけれど、この仕事を大事にしたいんだ」

「うん、がんばって。応援してる。パン作り、思い切り楽しんでね」

「いつか必ず、立派なパン職人に成るよ」

「成れるよ、コウタロウなら」


 じ~んと感動した。そんな言葉をエリコちゃんにかけてもらえるなんて。男として応えなければ。外はもう寒くなっているけれど、内から熱い気持ちが込み上げてきていた。

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