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二九
たまたまエーイチも休みが取れた水曜日の昼下がりの午後、いつものファミレスで久しぶりに会うエーイチは、ここしばらくは見せてこなかった笑顔を俺に見せていた。俺がマサシさんの言葉に打ちひしがれ、エリコちゃんとの付き合いに限界を感じていることを話したからだ。
「そうだろう、そうだろう。リアルな異性なんていってみれば異星人だからな。そう簡単に交流が持てるわけがないんだ。その男のいうとおり、付き合うには、やはり資格が要る。背伸びしてまで付き合う必要なんてないんだ」
確かグッサンは女性を運命共同体といっていたが、エーイチにとっては異星人か。その人の心のありようによって、捉え方は人それぞれだな。
精気のない目でエーイチを見ると、生き生きとした目をしていた。
背伸びか。確かに俺は、エリコちゃんと付き合いたいがために、ずっと背伸びをしてきた気がする。そして今、就職もうまくいかず、彼女に好意を寄せる他の男に諭され、これ以上もう、背伸びできなくなっているところにまで来ていた。
「そうかもしれない。見合わない恋だった気がする」
満足そうに頷くエーイチ。やっぱり俺は、彼に恋愛のことで何かいってやれるような人間じゃなかったんだ。なんだか恥ずかしくなる。俺は俯き、彼と視線をずらした。
しかしエーイチは、ふんと鼻息を漏らすと、意外なことをいった。
「でもさ、まだ諦める段階かね?」
思わずエーイチの顔を見る。口元は笑っているが、目が笑っていない。
「俺はずっとクサタロウに耳障りな恋愛の話を聞かされてきた。はっきりいって迷惑だ。俺の気持ちも知らずに」
「いや、エーイチも報告しろっていうし……」
「まあ、とにかく迷惑だったんだ」俺の話を聞かず、エーイチはつづけた。
「でもさ、でも、熱意は感じたよ。ずっとクサタロウと付き合ってきた俺にだけわかる、異常性をお前に感じた。いつものクサタロウじゃないってね。それはいい換えれば、情熱だったんだと思う」
「情熱……」
「何がお前にそうさせた? 何がおまえを突き動かしたんだ?」
それは判りきっている。エリコちゃんを好きだという気持ち。それだけだ。そう思い出したとき、エーイチから発せられた「情熱」という単語が、ぼんやりとだが耳の中で熱を帯びているのに気づいた。
「もし、その何かをクサタロウが自覚しているのなら、諦めるには早いんじゃないかな。まだ就活も終わったわけじゃないだろう?」
「エーイチ、応援してくれるのか?」
「さあね。ただ、あれだけ耳障りな話を聞かされつづけた身としてはね、突然、割って入ってきた男の言葉で、簡単に引き下がられると、聞かされ損というかね」
「エーイチ」
腕組みをしながらそっぽを向いている。ひねくれ者のエーイチらしい表現だ。
エーイチは俺を応援してくれている。暗く冷たくなっていた俺の心に、何か明るく暖かいものが昇り始めていくのを感じた。
「どうすんの?」そっぽを向いたまま、気のない素振りを見せている。でも、もう判っている。エーイチの気持ちも。俺がどうすべきかも。
「まだ引き下がるわけにはいかないよな。ここまで来たんだ。引いてたまるか」
自分を奮い立たせるように笑顔を作った。呼応するようにエーイチもにまっと笑う。そしてやれやれといった様子でいった。
「また耳障りな言葉を聞かされる羽目になるのか。でもしょうがない。お前は友達だ。付き合うよ」
「エーイチ、今、友達って」
「ああ。俺は割り切るぞ。でも、あのメールの内容は本当だろうな?」
「メール?」
「尻の童貞、の件だ」
「あ、ああ、守るよ。誰にも渡すつもりはない」
「なら、よし。お前のあそこは誰の物でもない。絶対だぞ?」
「ああ」
今度こそエーイチとの友情が成立した瞬間だった。
心に昇り始めていたものは、もうすっかり世界を明るく照らしていた。今日のすっきりとした秋晴れの空のように、俺の目にはっきりと色づいた世界を映しだしていた。
三〇
人がごった返すフロアには、アップテンポなダンスミュージックが鳴り響いていた。スポットライトの下、熱気を帯びた若い男女が入り乱れて踊っている。
俺は今、グッサンに連れられて、今まで入ったことのないクラブという所に来ていた。グッサンは通い慣れているらしく、のりのりの様子で若者たちと挨拶を交わしていた。
こんなところにまで来て、グッサンと話がしたかった理由は一つ。自分を後押ししてくれる、何かポジティブな言葉が聞きたかったのだ。
だが、グッサンはそのことを話すと一転、冷たい顔になった。
「そうですか」
「え? グッサン?」明らかにいつもと違うグッサンの雰囲気を見て嫌な予感がした。
「俺もクサタロウさんのライバルになるかもです」
「それって、どういう意味?」
ごくりと生唾を飲み込んだ。あのいつもにこやかなグッサンが笑っていないのだ。こんな真剣な表情は初めて見た。
「この間、エリコちゃんに会いに行きました。どんだけいい女なのか、知りたくなって」
「ええ?」
ま、まさか、恐れていたことが。あんなにやかましかったダンスミュージックが遠くに聴こえる
「そしたら、本当にいい女じゃないっすか。俺、エリコちゃんにアタックすることに決めました。譲らないっす」
「ななな……」
とんでもないことになった。ばりばりの肉食系男子、グッサンが本気になっている。マサシさんにつづいて、まさか、味方だと思っていたグッサンまで。とんでもない事態だぞ。
だが、俺は、俺だって譲るわけにはいかなかった。本気なのだ。エリコちゃんのことを好きだという気持ちは、誰にも負けない。
「俺だって、譲らないぞ! 本気なんだ!」
グッサンは、ぐっと俺を睨んだ。すごい迫力だ。でも、引いてたまるか。睨み返す俺。目に全力を込めた。しばらく睨み合う二人。
するとグッサンは、にっと笑った。
「やる気じゃないですか。いいっすね、クサタロウさん」
「は?」
「クサタロウさんのやる気を試したんですよ。エリコちゃんを見に行ったのは本当ですし、いい女だと思ったのも本当ですが、クサタロウさんが本気なら横取りしたりしないっす」
「な、なんだよー。驚いたじゃないか」
脱力する俺。同時に遠ざかっていたダンスミュージックがよく聴こえてきた。
グッサンは、フロアの雰囲気同様、興奮した口振りだ。
「じゃあ、呼び出すしかないですね、その男」
「へ」
「何、間抜けな顔してるんですか。向こうから仕掛けてきたんですよ。こっちもやってやりましょうよ」
「な、何を?」
「宣戦布告ってやつですよ」
「えー!」俺は目を白黒させた。そんな言葉、人が使っているのすら聞いたことがない。本気でいっているのか?
「そこまでする必要あるのかな」
「ありありです」怖じ気づく俺とは裏腹に、グッサンは心底楽しそうだ。生き生きとした表情をしている。
「こういう女の奪い合いは、ライバルに強気を見せておかないと。相手をひるませるんです。これ重要です。まさにクサタロウさんがやられましたよね」
「ええ~、でもなあ」
「迷ってる場合ですか。今、この瞬間にも、そいつはエリコちゃんにモーションかけてるかもしれないんですよ」
「そ、それはまずい」
「どうするんですか? やるかやらないかの二択っす。エリコちゃんを奪うのか、奪われるのか」
うーん。でも確かにマサシさんに、俺は諦めないということをアピールすべきだと思うし、やるべきか。それにしても、エリコちゃん、エリコちゃんってなれなれしいな。
「わかった、やるよ。宣戦布告してくる」
「よし、決まりだ。ちなみに、来週は火と木の夜が空いてるっす」
「え、なんで?」
「俺も行きますよ~。こんな面白いイベント、間近で見るチャンス、逃すわけにはいかないでしょう」
「え~、自分が楽しみたいんじゃないか~」
「だーいじょうぶです。フォローしますから」
唖然とする俺に、グッサンはからからと笑う。
「さあ、今夜はこれから作戦会議です。いやあ、当日が楽しみだな~」
肉食系のグッサンとエリートのマサシさんが顔を合わせるのか。いったいどうなるんだ?
混沌渦巻く決戦の場に向かわざるをえなくなった俺。はたしてどうなる?
三一
決戦当日、いつもエリコちゃんと会うときに使う例のカフェに、マサシさんを呼び出した。彼と偶然顔を合わせたカフェだ。
俺とグッサンが並んで座り、俺の正面にマサシさんがいた。
「彼がいっていた見届け人?」 マサシさんはグッサンをじろりと見る。そして視線を俺に戻した。「で、なんだい?」
俺は鼻で息を深く吸い込むと、マサシさんを見る目に力を入れた。ふんと鼻息を鳴らす。
「俺、エリコちゃんのこと、諦めません」
目を大きく見開くマサシさん。そして咳払いを一つした。
「でも、君はフリーターだろう?」
「就職します。エリコちゃんに見合う男になります」
「でもねえ、就職ったって、このご時世だし、簡単にはいかないよ? いいところに就職できそうなの?」
「いいところは無理かもしれないけど、就職します」
「でも、うちの会社は一部上場企業で、いってみれば俺たちは高給取りだ。エリもね。そんなエリに見合うところに就職できないんじゃ、エリとはつづかないんじゃないかな」
気にしていることを、ずばりと指摘してくる。だけど、俺はもう引かないと、心に決めてきたのだ。
「諦めません」
「君が諦めなくても、現実はね」
「どうなんですかね?」
突然割って入ってきたグッサンを見た。前を見ると、マサシさんはグッサンを凝視していた。なんだ、いきなりこいつは、という表情で。
「就職したら、就職したらって、お二人ともいってますけど。エリコちゃんに見合う見合わないって」
マサシさんは居を正した。
「そうだよ。ちゃんとエリコに経済的にも、見合う男じゃないと付き合いは……」
「それ、エリコちゃんがそういったんですか? エリコちゃんが、私と同じだけの給料を稼いでいる人じゃないと付き合えないって、いったんですか?」
マサシさんが、見た目にも、ぐっと口ごもるのがわかった。そして慌てるように口を開く。
「いってはないよ。エリ本人はね。でも、そんなの当たり前のことで」
「なんすかー。じゃあ、マサシさんの一方的な希望の押しつけじゃないですかー。なあんだ。俺はてっきり、エリコちゃん本人の希望をマサシさんが代弁してるのかと思ってましたよ」
「い、いや、でもね」
「実際、エリコちゃんはクサタロウ……草野さんのことを好意的に思ってるんでしょ? マサシさんはそう思っていると、草野さんに伝えたそうじゃないですか。だったら、この先、エリコちゃんこそ男と女の関係を望む可能性だってあるじゃないですか」
「え」とたじろぐマサシさんに、俺も同調した。だって、エリコちゃんが俺と恋人になりたいと考えてるだなんて、思ってもみなかったことだから。
慌てふためく二人が注目する中、グッサンは俺を見てにかっと笑った。
「クサタロウさん、ぜんぜん問題なしです、エリコちゃんのこと。マサシさんに気を遣う必要なんかないですよ。マサシさん、どうなんすか、男としてそういうの。女の子本人の意志とは関係ないところで手回しして、ライバルの足を滑らせようってのは。せこくないですか? 男らしくないっすねー。正々堂々やりましょうよ」
マサシさんは面食らったような素振りをした。そして、意を決したような表情をすると、お冷やの入ったグラスをばっと掴んだ。次の瞬間には、一気に飲み干していた。
テーブルに、がんっと空になったグラスを置く。
「わかったよ。俺はちゃんとエリに告白する。男同士、正々堂々勝負だ。エリがどっちを選んでも、恨みっこなしだ。俺は負けない。足を引っ張るようなまねをして、悪かったね」
グッサンの言葉に覚悟を決めたようだ。今まで以上に真剣な目で、俺を見ている。俺もしっかりと見つめ返し、「俺だって、負けません」といい返した。
「よ、それでこそ、エリート。クサタロウさん、遠慮はいらないっすよ。ばんばん、エリコちゃんにモーションかけちゃいましょう。いやー、気持ちいいっすね。男と男の真剣勝負。やっぱり見に来て正解だったなー」
さっきまで俺たちを炊きつけていたグッサンが、本音を漏らした。するとマサシさんは、唖然とした顔で彼を見ている。俺もかなわないなと思い、グッサンを見る。
と、とにかく開戦だ。
◇
次の日、勢いをつけようと、エリコちゃんのいるサンマリオに向かった。左の掌には、例のやる気スイッチ。前回同様、会計でお釣りをもらう際に、彼女にやる気スイッチを差しだす。エリコちゃんは、期待どおりに、「えい!」とそれを押してくれた。
「がんばってね」心強いエリコちゃんの笑顔。
「うん!」
やる気充填完了。がんばるぞ!
三二
就職を成功させて、早くエリコちゃんに告白したい。だがその前に、気になることがあった。
はたしてエリコちゃんは、俺のことをどう思っているのだろう。
マサシさんには、俺のことを好意的に伝えていたという。そこに恋愛感情はあるのだろうか。
知りたい。それに、マサシさんとの対決が始まった今、今の内から何かアタックを仕掛けておきたいというのもあった。
考えた俺は、今までよりも少し、いや、かなり勇気のある行動をとることに決めた。
それはやる気スイッチのときと同じく、お釣りをもらう際に起こすアクションだ。
左の掌に、『好きだ』という言葉を記しておき、それをエリコちゃんに見せるというものだ。
どんなリアクションをとられるのだろうか。またまた~といった感じで、おちゃらけて返されるだろうか。それとも警戒されて、距離を置かれるようになる? 想像がつかない。これは本当に勇気がいる。もう、きっとダイレクトに伝わるから。下手したら、もう会えなくなったり……。
だが、やるしかないという気持ちになっていた。エリコちゃんの気持ちが知りたい。マサシさんに負けるわけにはいかないのだ。
左の掌に消えないように、油性マジックで『好きだ』と書いた。想いを込めて。だがすぐに気づく。
俺の方から見えるように書いちゃった……。これ、油性だからすぐに消えない。
しかたなくお釣りは右の掌でもらうことにした。
そして、すぐにサンマリオに向かった。エリコちゃんがレジにいるのを確認して、決行した。
彼女がいつもの笑顔で接客し、お釣りをもらう段階になる。
うおー!
気合いとともに右手を差しだす。
そして、エリコちゃんの表情を確かめる。
こめかみからつうっと汗が流れるのがわかった。緊張はピークに達する。
だが、彼女は何もいわず、いつもと変わらぬ笑顔で、お釣りをその掌に置いた。俺はそれを受け取り、そそくさと席に向かった。
ノーリアクション? どう思ったんだ?
掌の文字を見る。なんだか読みづらい気がした。
もしかして、読めなかったんじゃ。うう、わからない。
コーヒーに砂糖とミルクを入れ、スプーンでぐるぐるとかき混ぜる。ミルクが渦巻きを作る。頭の中も疑問がぐるぐると渦巻いていた。




