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   一七


 暗い気持ちになりつつも、それから数日間でニクさんとメールのやり取りをし、今日、会って小説を渡すことになった。アタックしようと思い立ってから、二ヶ月かかって、ようやくここまで来れた。感動だ。

 待ち合わせ場所は、同じアーケード商店街の中にあるのだが、ニクさんが勤めているのとは違うカフェだ。

 俺のお願いで時間を作って会ってもらい、小説の感想までもらうことになったので、カフェ代はすべて自分が出すと伝えてある。彼女のサンマリオはセルフで、一番安いので一九〇円の安価なお茶を提供するのを売りにしているけれど、俺はセルフではない、一杯五五〇円以上のお茶を出すカフェを指定した。自分なりにグレードを上げたつもりだ。気合いを入れた。

 俺は、待ち合わせの三〇分前にはカフェの前に来ていて、カフェの隣のカジュアルな服屋のショーウインドウの前にいた。

 自然な笑顔を心がけて、「こんにちは」の挨拶の練習を。ニクさんが来たらできるだけ爽やかな挨拶をするのだ。

 人は最初の印象が後々まで尾を引くらしい。何かの本で読んだ。だとすれば、出会い頭の挨拶は重要だ。一瞬でニクさんの心を持っていくことが必要なのだ。「あ、この人、いいかも」、と思わせなくては。

 この一ヶ月、そのために洗面台の前で鏡を見ながら笑顔の練習をしてきた。普段使わない顔の筋肉なので、口角を上げるとピクピクするが、あえて大袈裟に口をにっとして鍛えてきた。同時に不自然にならない笑顔の練習も。強めの負荷を顔面筋に与えておけば、本番でのささやかな笑顔はよりスムーズにできるのではないか、という俺なりの理論。付け焼き刃ではあるが、鍛え上げたこのナチュラルスマイルをニクさんに披露するのだ。

 服屋のショーウインドウの前で、マネキンの前に映る自分の顔を見ながら、一人ぶつぶつと「こんにちは」を繰り返していた。端から見れば、なんかこの人、にやにやしてる、不気味、と思われるかもしれないが、他人にどう思われても、今は関係ない。今、俺が良い印象を与えたいのは、ニクさんだ。彼女にさえいい顔を見せられればそれでいい。

 そのとき、後ろから「こんにちは」と聞き覚えのある声がした。はっと後ろを振り返ると、ニクさんが。慌てて左腕の腕時計を見ると、もう約束の時間の五分前になっていた。

 しまった。集中しすぎていて、時間を確認するのを怠ってしまった。今、目の前にいるニクさんに与えてしまった最初の印象は、きっと間違いなく、ショーウインドウの前でにやにやしてる、不気味な奴だ。ナルシストとも思われたかもしれない。これが後々尾を引くのかと思うと、自分のここぞというときの集中力が悔やまれる。

 そして俺は、またはっと気づいて挨拶をした。笑顔、笑顔。


「こんにちは」


 目の前のニクさんに今どう思われているのだろうか。目の前の彼女は、俺の目に映るニクさんは……綺麗だった。

 頬はうっすらピンクがかっており、春らしいパステルカラーの桜色のカーディガンを羽織って、インナーに胸元が少しひらひらしている白いブラウスを着ている。下はクリーム色の七分丈くらいのパンツに同じくクリーム色のパンプスを履いていた。折り曲げた右腕の肘には、可愛らしい鞄がかかっている。

 彼女の心を一瞬で持っていくことには失敗したが、俺の心は一瞬で持っていかれた。うおーっ可愛いって、心の中で叫んだ。普段、サンマリオの制服姿しか知らない俺には、その姿を知れたことは感動ものだった。

 感動している最中だったが、ふと後ろのショーウインドウに映っていた自分の姿を思い出す。暗く見えないように、淡い水色のいい値段のワイシャツに、濃いブルーのこちらもいい値段のジーンズ。腕にはホワイトのこれもいい値段のカーディガンをかけていた。ニクさんと同じカーディガンということで、運命を、シンパシーを感じてくれないものだろうか、などと考えて、店内で逆に脱ぐところなのにアピールしようと慌てて着る。その俺の足下は、安価な靴。残念だが靴にまでお金をかける金銭的余裕はなかった。でもデザインの良いものを選んだつもりだ。鞄は少しでもスタイリッシュに見せようと、就活のときに買った書類入れにもなるスマートな見た目の黒いビジネスバッグ。中に読んでもらう小説を入れてきた。

 こんな俺は、ニクさんと釣り合うだろうか。俺ごとき、着飾ったところで釣り合うはずはないのだけれど、やっぱり気合いは入れるよね。

「あ、じゃあ」と、彼女をカフェ店内に連れ込んだ。

 カフェの中に進み、禁煙席の、隣の客が見えないようにパーティションで仕切られた、向かい合わせのソファー席に座った。

 席の前で一瞬、お見合い状態になったが、すぐに俺が、「あ、そちらに」とニクさんを誘導し、俺も向かい側に座る。こういうとき、男はリーダーシップを発揮しないとな。ほんのりと香る程度のリーダーシップを示した後、店員さんに渡された折り畳み式のメニューを受け取る。それを彼女に向けて広げ、予め決めておいた、一番安いブレンドにすることをニクさんに告げる。もちろん安いからという理由はふせる。「いつも僕はブレンドなので」ともっともらしい理由をつける。彼女はどれにしようか迷っている。俺は「奢らせてもらうので、なんでもいいですよ」と、さりげなく男の貫禄のようなものを示してみる。ささいな男の貫禄にニクさんは同調したのかしないのか、たぶん気を遣って、ブレンドと同じ値段のアッサムティーのミルクを選んだ。席に備えつけられたベルで店員さんを呼び、お互いの注文を告げる。ここでもリーダーシップを発揮して、自分の分だけでなく彼女の注文も店員さんに告げたかったが、緊張して自分の注文ですら噛んでしまったので、大人しくニクさんの分は彼女に任せた。そして店員さんは、注文を受けると、席を離れた。

 さあ、ここからが本番だ。

 いきなり小説を渡して、さよならするつもりはない。今日の目的は、やはりニクさんと会話してお互いのことを知り合い、仲良くなることだ。まずは雑談からだよな。


「今日、天気が良かったので、ほっとしてます。ニクさんと初めてお話させてもらう日だから、幸先いいなって思って」


 天気が良かったのは本当に幸いだった。基本的に日本人で雨より晴れの方が嫌いという人は少ないだろう。幸先という言葉を使うことで、この先もよろしくお願いしますという意図を含ませてみた。


「そうですね。いいお天気。私、青い空が好きだから、こういう日は気分も晴れ上がります」

「あ、わかります、わかります。僕もです」


 同調することで好印象を与える。こういうのも会話をつづけるこつらしい。

 ニクさんはにこにこと頷いている。

 さて、出だしは悪くない。そろそろニクさんのことについて訊いてみよう。

 どきどきしながら切り出す。


「ニクさんは、サンマリオがオープンしたときにはすでにいましたよね。やっぱりあそこの初期スタッフですか?」

「ええ。サンマリオを運営している会社があるんですけど、私はそこに大学を卒業してから入社して、もう五年になります。今年、サンマリオが新規オープンしたので、配属が決まって、店長をやらせてもらっています」

「店長だったんですか?」

「ええ」


 店長だって? 店長ということは、偉い人じゃないか。俺はてっきりバイトのスタッフくらいに考えていたのに。ニクさんはいつもレジカウンターにいるわけではないので、バイトのシフトで入っているのかと。レジカウンターにいないときは、裏で運営管理の仕事をやっていたのか。

 俺が衝撃の事実に驚いていると、注文したものを持って店員さんがやってきた。まさかこの店員さんも店長?

 てんぱりながら、出されたブレンドコーヒーを飲んで気持ちを落ち着かせようとした。

 大学を出て五年ということは、二七歳くらいか。二四の俺と三個違い。しかしこの三年の差が何年分にも感じる。

 急にニクさんの敷居が高くなった。俺は何者でもないただのフリーターのドリーマー。彼女は一店舗を任されるほどの立派な正社員の店長。肩書きが違いすぎる。もちろん、必要とされる人間としての価値も含めて。

「店長といっても、私はまだぺーぺーで、わからないことも多くて四苦八苦してます。毎日が戦いって感じです。でも私、社長を目指しているので、こんなところで音を上げてもいられないんです。女のくせに社長を目指してるなんていうと、今の時代でも変わった人に見られますけど」

「いえ、ニクさんはぜんぜん変じゃないです」変なのは俺の方だ。


「あは。ありがとうございます」


 しゃ、社長だって? なんて高みを目指しているんだよ。ばりばりのキャリアウーマンだったのか。肉食系女子の部類に入るんじゃないか? 俺はばりばりの草食系男子。肉食と草食じゃ、やっぱり釣り合わない。


「草野さんも、小説家っていう夢をお持ちですよね。私、何かシンパシー感じちゃって」


 感じてもらえたの? シンパシー。でも今、俺が感じているのは、シンパシーどころか、ニクさんと俺はまったく別の部類の人間だということ。敗北感さえある。だって小説家なんて、才能の世界だし、なれるかどうかもわからないものだし、なれても稼げるのは、ごく一部の天才だけだし、やっぱり文字どおり、夢の職業だ。自分は天才ではないことを自覚しているが、一作くらい奇跡的にヒットが出る一発屋を狙っている。まさしくドリーマー。俺にとっての小説家は、やっぱり文字どおり、夢の職業だ。現実的じゃないのはわかっている。対してニクさんが目指す社長は、どっしりとした、輪郭のはっきりした現実って感じがする。入社五年目で店長を任されるのだから、それってすごいことなんでしょ? だったら社長という夢は、現実味のある目標だ。

 ニクさんは着実に積み上げてきている。目に見えるものとして。俺は書いても書いても、ちゃんと積み上がっているのか、目視すらできない。あやふやな人生だ。

 同じじゃない。俺は、好きになってはいけない人を好きになってしまったんだ。

 きっとニクさんを知れば、もっと好きになる。自分を知ってもらえれば、好きになってもらえるかもしれない。そんな淡い期待感、恋心は、水たまりに張った薄氷のようなもので、現実という重みに簡単に踏み砕かれてしまった。

 あーあ。絶望していると、彼女は俺がそんなことになっているとは気づかず、今訊かれたくないことを訊いてきた。


「普段は何をされてるんですか」


 訊かれちゃったよ。あーあ。


「派遣社員です。パチンコ屋で働いてます」

「え、パチンコ屋さんにも、派遣てあるんですか?」

「ええ。なんにでもあるんじゃないですかね」


 俺は呆然として答えた。もはや会話に気を遣う気力はなくなってしまった。

 派遣社員だと答える準備はしていた。しかしそれは、ニクさんもバイトか何かで同じ境遇なんじゃないかと思っていたからだ。

 でも彼女がキャリアウーマンだと知ってしまった今では、知られたくなかった。でももう知られてしまった。きっと、自分とは違う人間だとニクさんも思っているはずだ。

 そんな俺の内心とは裏腹に、彼女は笑顔だった。


「あ、小説。楽しみにしてたんです。でも、メールでお伝えしたように、他のたくさんの人が面白いと思っても、自分にはってこともあるじゃないですか。だから読んでみて、もしも私に合わなかったら、ごめんなさい。もちろん期待してますけど」


 こんなふうに気を遣えるのは、余裕のある人間の証なんだろうな。やっぱり俺とは違うよ。俺なんて想定外のことが起きたとたんに、もうがんばる気がなくなっちゃったもの。そうだ、小説。

 力の抜けてしまった手で、鞄から小説を取り出した。読みやすいようにと用意したものは、四〇〇字詰め原稿用紙で八〇枚程度の短編小説だ。面白いかどうかわからないのに、これから好きになってもらいたい相手に、いきなり二〇〇枚以上の長編小説を渡す勇気は俺にはなかった。小説はニクさんのいうように合わない場合も多々ある。だからこそ自分の心の琴線に触れる面白い小説を探す、宝探しのような楽しみもあるのだが、もしつまらない小説なら、長いページ数の文章を読むのは苦痛以外の何物でもない。

 慎重を期して用意したのは、去年、某賞で二次予選まで進んだ、今までで一番評価の高かったものだ。

 だがそんなことはもはや関係ない。もう、ニクさんと、これ以上仲良くなることはないのだ。これ以上は前に進めないのだから。

 この小説もどうせ駄目だろうと、力なく小説を渡す。


「わー。A4の用紙にプリンターで書かれてあるんですね。商品の本としてでなく、その前のこういう形で読むのは初めてです。新鮮だなあ。あは」


 ニクさんは興味深そうにぱらぱらとページをめくりながら、喜んでいるようにも見える。でも内心どうだか。

 それからいつくらいまでに読みますという口約束をしてもらい、感想はまた会って話すとか、そういうことを決めた。もはや話すことも、気力もなくなった俺には、それ以上この場にニクさんを留める力はなく、結局、会って三〇分もしない内にカフェを出ることになった。

 帰り際、去っていくニクさんの後ろ姿を未練がましく追っていると、振り返って手を振ってくれた。俺も小さくではあるが手を振り返し、せめて小説は面白く感じてもらえますようにと祈りを込めた。さして価値もない祈りだろうけど。


   一八


 ニクさんに小説を渡してから二週間ほど経ったある日、返信が来た。小説を読んだので感想をいうため、また同じカフェで会いましょう、ということだった。

 起き抜けにそのメールが来ていて、テンションが上がった俺は、顔を洗うべく風呂場の洗面台に向かった。二階の自分の部屋を出て階段を降りながら思う。

 ニクさんには、「忙しいと思うので感想は一ヶ月以上かかってもぜんぜん大丈夫です」といっておいたのだけど、思ったよりも早く感想が聞けそうだ。

 別次元に住むニクさんとの恋愛は、もう諦めてはいるのだが、もしも小説がよければ、これからも小説を読んでもらえるかもしれない。だから、今後も彼女と会えるかもしれない、と考えると結局胸はときめいていた。

 振り返るに、前回、感想をメールで伝えてもらうか、会って直接聞かせてもらうかの選択で、「会いましょう」といえたのはファインプレーだったと思う。少なくともまた会える。プライベートの場で。

 はたして、どんな感想をもらえるのか。一応、俺の作品の中では一番評価が高かったやつだ。予選も通っている。読めるのは読める、はず。と思いたい。今後も読んでもらえるようになれば、恋愛には発展しなくても、ニクさんに俺の小説の感想をいってもらえる。そういう関係もいいのではないか? そうなったら、彼女に良い評価をもらうために、ますます小説をがんばるし、良い相乗効果を生むぞ。「才能に惚れ込んで、一緒になりました」なんてカップルの話もあるじゃないか。お笑い芸人なんか売れない時代から支えてくれる彼女がいて、なんて話聞いたことがあるぞ。そして、いつか受賞して、お互いの苦労が報われて、ともに戦ってきた二人は、ゴールイン! なんてパターンもありそうじゃないか。それこそ俺の望む方向だ。

 すでに洗面台の前に来ていた俺は、鏡に映った自分の顔に気づく。にやけている。

 は。いかんいかん、いかんぞ。現実は甘くないと、前回ニクさんに会ったときに教えられたではないか。俺の小説が彼女のフィーリングとばっちり合って、才能を認められて、ついでに男として認められてって、そんな浮世絵話が現実に起こるはずはないのだ。

 きりっとした表情で鏡に映る自分を見る。うん。ぶさいく。

 蛇口を捻り、冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗い、気持ちを引き締めた。

 ふーっと息を吐く。顔からぽたぽたと水滴が落ちていった。

 でも。

 でも、もしも、そんなことになったら、いいよなあ。

 はっと気づくと、またにやけ顔の自分がいる。

 いかん。楽観的すぎる。ニクさんにアタックする過程で、ずいぶんと前向きというか、自分本位の思考回路ができあがってしまったようだ。そうしないと会うことなどできなかったわけだが、これはいかん。いかんいかん、いかんぞ。危険だ。もし駄目だったら、そのときのショックは計り知れないのだから。

 そして部屋に戻った俺は、次ニクさんと会うときのための服装をチェックし始めた。

 最初ので、ずいぶん金を使ってしまったからな。もう値の張る服は買えないが、せめて今ある服の中でいいやつを。あ、あのカフェの隣にあるカジュアルショップならリーズナブルだし新しいの買えるな。今日は仕事は午後からだし、朝の開店時刻に合わせて見に行くか。

 うきうきしている。やっぱり、ニクさんにプライベートで会えたことで、また会えることで、のぼせ上がっているのかもしれない。


   ◇


 当日、前回と同じカフェの中の、パーティションで区切られた席に、俺とニクさんは向かい合わせで座っていた。ここまで会話は、挨拶を交わしただけである。

 前回のように彼女に向けてメニュー表を開こうとすると、「あ、大丈夫です」と制してきた。俺はそのとき、その「大丈夫です」の意味がわかっていなかった。ただ前回と同じアッサムティーにすると決めているのかな? と思う程度だった。そして店員さんがやってきて、ニクさんが注文をせずに「お水だけで」といってから、事の重大さが伝わってきた。ああ、長くこの場にいるつもりはないのだな、と。

 俺はいつものようにブレンドコーヒーを注文したが、俺も水だけで良かったかな、でも場代として自分くらいは何か注文しておいて正解だよな、と思えるくらいの冷静さはあった。

 あーあ、と残念な気持ちになったけれど、前向きな自分を戒めるようにもしていたし、これから受けなければいけない宣告を受け入れられるだけの心の準備を一応、してきてはいたつもりなので、やっぱりなという感じだった。

 そして店員さんがいなくなると、ニクさんは、きっぱりといった。


「感想、正直にいいますね。草野さんと私、お互いのために」


 俺は「はい」と応えた。出した声は思ったよりも小さくなってしまった。


「草野さんの小説、すごいなと思いました。私には思いつかないような表現もたくさんあって。これだけの量の文章を書けるのも単純にすごいなと」


 そういうと一拍置いた。

 褒めてくれている。でも次の言葉があるんだ。期待はしない。


「でも、ストーリーは、私にはよくわからなかったというか。ごめんなさい。草野さんの小説は、私には合わなかったみたいです」


 ほらね。そんなもんだ。だからきっと。


「だから、小説を読むのは今回限りにさせてください。ごめんなさい」


 やっぱりね。終わった。

 申し訳なさそうに頭を下げたニクさんに、俺は申し訳ないと思った。しっかりとした目標があって忙しい彼女に、つまらない小説を読むという苦痛な時間を過ごさせてしまったから。本当に申し訳なく思い、頭を下げた。


「いえ、こちらこそ貴重な時間を使わせてしまって申し訳ないです。すみませんでした」


 そして、あ、と思い出して「ありがとうございました」と付け加えた。きっとニクさんの人生にとって、無駄な時間となっただろう。


「いえ、私が望んだことなので」


 彼女は気を遣ってそういうと、「じゃあ、私はこれで」と告げ、席を立った。

 俺はニクさんが席を立つ際に、もう一度「すみませんでした」といった。「いえ、とんでもないです」という小さな声が聞こえてきた気がする。

 聞こえてきた気がする、というのは、そのあたりで、すでに俺の意識が自分の内に入り込んできていて、外の世界との交信が困難になっていたからだ。ニクさんはもういなくなってしまった。

 あーあ。やっぱりな。


「まあ、しょうがない」はっきりと、そう声に出した。


「しょうがない」と声に出してみた理由は、自分の程度を確認し、こんなもんだと自分に納得させるためだ。気持ちが落ち込みすぎないようにするための防止策だ。

 とはいえ、心はもう不安定になり始めているのを自覚できていた。

 やっぱり、ちゃんと注文をして、その結果として、今、手元にコーヒーがあるのは正解だ。その場を動かず、これからじっくりそれを飲み、しばらく心の安定を取り戻すための時間稼ぎが必要だから。


   一九


 結局、心のダメージは深刻で、その日から三日三晩落ち込んでいた俺は、いつものファミレスで夕食どきにエーイチと会っていた。今日は敗戦報告だ。

 テーブルの向こうのエーイチに駄目だったと告げると、彼は神妙そうな面持ちでいった。


「しょせん我々には、無理な話だったんだ。でもクサタロウは、動いただけましだ。よくやった方だよ」


 どんな反応をされるのだろう、ほらみろととでも馬鹿にされるのではないかとも思っていたけれど、エーイチは意外にも健闘を称えてくれた。


「そうだよな。よくやった方だと自分でも思う」エーイチの顔は見ずにそういった。

「そうだ。でも、身の丈を超えるような大きな夢は、もう見ないことだ」


 一瞬、エーイチのその言葉に、小説のことも含まれているのではと考えた。しかし、すぐに彼もそのことに気づいたようで、「いや、小説は別だ。あれはいい夢、ロマンだ。思う存分やればいいと思う。応援している」といい、俺は少しほっとした。

 しかし、ほっとしたのも束の間のことで、すぐに別の感情が沸き起こり、エーイチに話したくなった。

 三日三晩落ち込みながら、このダメージは回復する見込みがないと感じられた。長く患うだろうと。それは何故か、だとすれば自分はどうしたいのかと自分に問いかけた答えをだ。

「でも」、と言葉にしかかり、いい淀む。

 なぜなら、今回のことは本当に大きなダメージだったからだ。本当にがんばって前向きに取り組み、ニクさんにプライベートで会えるところまで漕ぎ着けた。しかしその先には行けなかったのだ。自分の精魂込めて書いた大切な小説も、彼女に認めてもらえなかった。もうこの苦しみから抜け出せないんじゃないかと思うくらい、深く傷ついている。エーイチにいいかけたことは、また更に傷を深くさせる可能性を持った言葉だったのだ。

 そんな俺の感情を直感で感じ取ったのか、エーイチは言葉のつづきを促すことはなかった。ただ「よくやった」と付け加えるだけだった。


   二〇


 やがて三週間ほど経ち、俺の心のダメージは少しずつではあるが、回復に向かっていた。まだ回復し切れてはいなかったけれど、俺なりに前に進まなくてはと思えるくらいにはなっていた。

 そして商店街に立ち寄ったときに、久しぶりにサンマリオの店内をガラス越しに見てみた。この時間はレジカウンターにニクさんがいるはずだ。レジカウンターは、と。

 あれ?

 しかしそこにいるはずの彼女はいなかった。ニクさんのいつもの勤務時間のはずだが。おかしいなと思い、店内を見渡してみたが、やはりいなさそうだ。

 未練がましい気はしたが、それから一週間ほど毎日カフェの店内を外から窓越しに見て捜してみた。しかし自分が知っている彼女の勤務時間以外の時間帯にも、いる気配はなかった。

 ニクさんは自分は店長だといっていたから、いなくなることはないのではないか? だとしたら、もうレジに表立って立つことはなく、完全に裏方に回ったのではないか? あるいは会社の都合か何かで転勤になったのではないか? そう思った。

 要するに、もう会うことはないのだろう。

 そう悟った俺は、わずかに残っていたニクさんを思う気持ちも一気に冷めきり、もう気持ちがぶり返すことはなかった。


 だったらいいのだけど、どういうわけか俺は、「そんなの嫌だ」と思ってしまった。もうニクさんに会えないだなんて、そんなの嫌だと。

 こんなことなら、小説の感想をくれだなんて回りくどいことをせずに、最初から付き合ってくださいと男らしく告白して散った方が、まだ後悔しなかったはずだ。

 俺は悔やんだ。だけど、もうどうしようもない。もう彼女に会えないのだから。


 サンマリオのあるアーケード商店街は、もう一つの連なってあるアーケード商店街と道路の信号を隔てて、L字型に繋がっている。

 サンマリオがある商店街はLの縦線〈I〉にあたる通りの途中までの部分で、その通りの途中に信号がある。普段は、自分の家から近い方のその商店街に行き、奥の方の商店街にはここ一ヶ月ほどは行っていない。しかし、激しい後悔に胸を撃たれつづけ、疲弊しきっていた俺は、気分転換にと、今日はいつもの商店街を通り抜け、信号を渡ってもう一つの方にやってきた。

 こちらの商店街にある本屋に立ち寄り、雑誌や本を眺める。何か今の自分の状況から抜け出すための力を貸してくれる本はないか、と。

 しかし、ずらりと並ぶ本の中から根気強く探し出すほどの気力はなく、ヒントすら見つけることもできずに本屋を出た。

 そして、とぼとぼと商店街の奥に向かって歩いていると、そこに今までなかった、見慣れた店を見つけた。

 サンマリオだ。不思議な気持ちに包まれながら考える。

 確か、一ヶ月くらい前にここを通ったときにはなかったはずだ。いや、空き店舗はあったと思うしブルーシートが被せられた店はあったような気がするから、この一ヶ月の間に店ができ、オープンしたということか。

 驚いた俺は、もしやと思い、ガラス越しに店内を覗いた。レジカウンターのある場所は、こちらも入り口に入ってすぐのところだったので、すぐに見つかった。そして、一瞬で目を奪われる光景を目撃した。

 ニクさんがいる。ニクさんがレジカウンターで接客しているのだ。いつもの笑顔を振りまき、客とやりとりしている。

 ああ、そうか。ここに新しい支店ができて、こちらに移動しただけだったのか。

 腰が砕けるというのはこのことで、ほおっとした俺は、力の入っていた体から急にストレスが抜け出て脱力。その場にすとんとしゃがみ込んでしまった。

 良かったあ。

 しゃがみ込んだまま俯いて、は~っと息を吐き、ゆっくりと顔だけ上げる。商店街を行き交う人々は、内心はどうかわからないけれど、特に俺を気にする様子もなく通り過ぎていく。

 またニクさんに会える。


「はは」


 小さく声に出して、笑った。


   ◇


 いつものファミレスで、エーイチは眉根を寄せ小難しい顔をしていた。眼鏡の奥の目が険しい。

 俺がさっき、以前いいかけていえなかった言葉を伝えたからだ。俺はもう一度いった。


「やっぱり、諦めきれないんだ。ニクさんのこと」


 エーイチは腕組みをしながら不快そうに、ふ~んと鼻息を漏らすと、「で?」と返してきた。


「どうしたらいいと思う?」


 エーイチに訊いてどうするんだって話だが、声に出さずにはいられなかった。だって彼女にまた会えたのだから。いるんだもん、ニクさん。あっちのカフェに。会おうと思えば、会える場所に。何か行動したい。

 エーイチはもう一度ふ~んと鼻息を漏らしていった。


「おまえと同じ、いやそれ以上の草食系である俺に訊いても答えはないよ。訊くなら肉食系の奴に、だな」


 肉食系。思い当たる節はある。

 そうだ。彼に訊いてみよう。彼なら前向きなアドバイスをくれるかもしれない。

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