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   一三


 それからは夜、サンマリオに行き、ニクさんが閉店間際に客に声掛けをするのを待った。そしてそれは、思っていたよりも早く、二度目の来店のときに訪れた。

 用意した手紙は、ライトグリーンの便箋にしっかり納められている。手紙の内容は予定通り、小説を読んでくれる女性を探しているので、読んでもらえないか、というものだった。

 返事をもらえるように、自分の携帯のアドレスと電話番号も書いてある。それは=(イコール)彼女の連絡先を知りたいという思惑だ。

 運命の二一時四五分になった。ニクさんが動き出し、客に声をかけ始めた。予定通り、その日最後の声掛けの客になれるように入り口から一番遠い席の端っこのソファーテーブルの席に着いていた。

 やることはやった。あとは手紙を渡すだけだ。これで駄目だったら、しょうがない。一度きりの人生、俺はやれることをやった。

 だんだんと彼女が近づいてくる。そしてもう自分の一つ前の客に声をかけていた。

 逃げ出したい衝動に駆られる。今日はやめようか。

 こんなときに限ってネガティブが襲ってきやがる。でももう、手紙を渡す。それだけでいいんだ。手紙をテーブルの上に出す。気合いを入れる。がんばれ、俺。

 そうこうしている内に、ついにニクさんが自分の席にやって来た。


「おそれいります、お客様。もうすぐ閉店でございます」


 慣れた様子でそう告げる彼女に、手紙を持つ右手にまとわりつく恥や恐れを振り払いながら、手紙を差し出した。


「あ、あの、ご迷惑かもしれませんが、これ、読んでください」


 一息でそういうと、震える右手からニクさんが手紙を受け取るのを確認した。そしてその表情を確認しないまま、席を立ちカフェを出た。

 店員のいつもの「ありがとうございました」のハーモニーの中に、ニクさんの声は確認できなかった。

 店を出て、自転車を停めてある商店街の駐輪場に向かう。早足で歩く。

 ちゃんと、いえていただろうか。

 記憶を呼び起こそうとするが、緊張していたという感情ばかり強く思い出されて、自分がちゃんと台詞をいえたのかどうかよく思い出せない。

 やがてたどり着くと、誰もいない駐輪場で自分の自転車の前に佇む。ふーっと息を吐いた。

 渡したぞ。とにかく渡した。人事を尽くして天命を待つ。あとは野となれ山となれだ。うまくいって欲しい。でも、そうはいかないかもしれない。

 自転車のチェーンキーを外した瞬間、「あ」と思い出す。ティーカップ、テーブルに置いたままだった。あそこ、セルフなのに。

 しまったなと思いつつ、サドルに跨る。きっと些末なことだ。そう思いながら駐輪場を出た。夜空には少しだけ星が見える。

 落ち着いてくると、少しだけ高揚感が出ていた。やれることはやったのだ。はたしてどんな返事が来るだろうか。わからない。でももうすぐわかる。

 ペダルをゆっくりと漕ぎ、バーストした頭を落ち着かせようとした。期待しすぎて駄目だったときの落ち込みようも考えて、駄目なときはしょうがないと思いつつ、でももしかしたらと期待しつつ。

 しかしそれから二週間、待てど暮らせど返事が来ることはなかった。


   一四


 駄目だったか。バイトの休憩室で、グッサンが他の同僚と話しているのを横目で見ながら思う。

 まあ、そんなもんだよな。よくやった方だよ。よくやったさ。

 グッサンの方を見る。あいかわらず、明るく女性とのことを話している。

 きっとこんなとき、このグッサンなら、次、次と、別の女性を探し始めるのだろうけど、今の俺にはちょっと無理そうだ。

 そう思っていたら目が合った。


「どうですか、クサタロウさん。今度また俺らのナンパに付き合いませんか。楽しいっすよ」

「ナンパかあ」

「狩りともいいます。わはは」


 狩り、ハント。まさしく肉食系男子のグッサンにふさわしい言葉だ。そんな気分じゃないけれど、こんなときは無理矢理にでも心と体を動かした方がいいのかもしれない。新陳代謝を良くすること。動かないでとどまっていると、腐ってしまう。


「行こうかなあ」

「行きましょう、行きましょう。女の子と遊んで、ぱーっとしましょう」


 グッサンは、いつもの彼らしく白い歯をにっと見せていた。


   ◇


 サンマリオに行くことにした。あれ以上、ニクさんとの仲を深めることはできなかったけれど、あそこはお気に入りの場所だ。若干、気まずいが、それも最初だけ。俺はまた以前のように、ブレンドのSサイズを注文し、小一時間ほど店の中にいる、ただの客に戻ればいいだけのこと。元の姿に戻るだけだ。

 でも一応、無理なことをいってすみません、とだけ謝っておこうと思う。

 カフェの外から中を覗き、ニクさんがいるのを確認する。今はちょうどレジカウンターに客はいない。店内に入り、その前に立った。目を合わせられない。彼女の横にいる店員さんに、いつもの対応をされ、いつもの注文をした。そしてニクさんに声をかけた。


「この間は、無理なお願いをしてすみませんでした」


 ニクさんはいつもの一〇〇%スマイルとは違う笑顔で、「あ、いえ」と応えた。

 そして俺はコーヒーを受け取ると、席に着いた。

 さあ、これで元の姿に戻れるぞ。でも外見は同じでも中身は同じではないな。今までと違うのは、もうニクさんのことを見ても、気持ちを昂ぶらせてはいけないということ。なあに。きっと俺には、それができる。

 そう思っていると、ふいに声をかけられた。ニクさんがいた。彼女が俺の席にまで来ているのだ。なんで?


「あの。来てくれたら渡そうと思ってました。この間のお返事です」


 そういう彼女が差し出した両手の先には、桜色の便箋があった。

 俺は固まってしまっていたが、「仕事に戻らないといけないので」というニクさんの声で我に返り、便箋を受け取った。

 これはどういうことだ。返事? 待っていてくれた? 無視されたんじゃなかったのか。

 俺は勝手に内から沸き上がろうとする喜びを押さえつけた。まだOKの返事をもらったわけじゃない。これだって、ごめんなさいの意思表示が書かれてあるかもしれないじゃないか。

 だけど、内から沸き上がるそれは、すぐに俺に便箋の中身を確認させた。手紙が入っていた。すぐに文章に目を走らせる。


〈私はお客様の、草野様の小説の内容を知りません。どういったものを書かれるのか。何がいいたいかというと、フィーリングってあると思うんです。面白いといわれる作家さんの小説でも、自分とフィーリングが合わなければ、面白いと感じないこともあります。だから、まず一度、草野様の小説を読ませてください。それで私とフィーリングが合えば、きっと草野様のお役に立てるかもしれませんし、次の作品も読ませてください。私とフィーリングが合わなければ、きっとただの批判になってしまい、草野様のためにならないと思いますので、それきりにさせてください。草野様は助けてくれたし、よく楽しませてくれるし、当店をよくご利用いただくお客様で、ありがたい存在なので、お役に立てたらいいなと思っています〉


 手紙に書かれた文面をもう一度読む。そして、もう一度読んだ。

 これはOKということだ!

 今度は沸き上がる喜びを押さえつける必要はなかった。すぐにレジカウンターにいるニクさんの元へ向かった。


「よろしくお願いします!」思い切り頭を下げる俺。


「はい」


 いつものニクさんの一〇〇%スマイルが返ってきた。

 小説がんばるぞ。もっと前に進もう。


   一五


 次の日の夜、ニクさんからメールが来た。携帯に来たアドレスは、どうやらインターネット上で簡単に手に入るフリーメールアドレスのようだ。

 いきなり携帯のアドレスはもらえないか。そりゃそうだ。俺がどういう人間かなんて、よく知らないのだから。

 彼女が知っているのは、レジのとき、おかしなことをする、ニクさん曰く「面白い人」ということだけだ。

 だけど、きっとそれが功を奏した。これでようやくお話ができる。ニクさんのことをもっと知ることができるのだ。俺にとっては大きな喜びだ。

 しかしもしかしたら、このことを喜べない奴がいるかもしれない。エーイチだ。

 気になる女性がいると話したときのエーイチのあの反応。あれは明らかに歓迎の意思表示ではない。

 ニクさんを想うのはやめるべきだというあの言葉は、そのまま拒絶を意味しているだろう。

 明日はエーイチとファミレスで飯を食う予定だ。

 どうするべきか。このことは黙っておいて、何事もなかったように、今までと同じようにエーイチと接するべきか。

 もしかしたら、安穏という意味では、その方がいいのかもしれない。

 だけどエーイチには、本当のことを話しておきたい。喜びを分かち合いたいというのが本音だが、それは無理だろう。望むべきではない。だけど、それでも話しておきたい。

 エーイチが親友だからだ。

 エーイチは穏やかではいられなくなるだろう。彼に憎しみのような感情を抱かれ、罵倒すら浴びせられるかもしれない。

 でもそれでも、話すべきなんじゃないか。エーイチのためにも。

 俺はまだメールのアドレスを交換しただけだ。えらそうにいえた立場じゃない。

 そして、エーイチはエーイチなりに、今の状況に幸せを感じているはずだ。それは聞かされるアニメの話から伝わってくる。

 でもまだ俺にもだけど、彼にも、前に進む余地が十分に残されていると思えて仕方がないのだ。

 親友として何か伝えたい。伝わって欲しい。

 エーイチ、おまえにはまだ、先があるのだと。そこに留まっている必要はないんだと。


   ◇


 翌日の一九時、いつものファミレスで、俺の前にはテーブルを挟んでエーイチが座っていた。

 エーイチはいつものように、お気に入りのアニメのキャラである星野モミジについて語っていた。


「ようやくモミジの良さを監督が理解しだしたようだ。もはやストーリーの主軸といってもいい。このままだと主役を食うな。いい演技してる」


 エーイチは楽しそうだ。今を十分、堪能しているように見える。そしてエーイチは気づいていない。目の前に座っている友人だと思っている男が、懐に自分の今を撃ち抜くのに十分な、強力な拳銃を秘めているということに。

 いつ話す? 俺はさっきからずっと、タイミングを計っていた。

 話すと決めた今だって、話すことがエーイチを傷つけることになるのではないか。その傷は深くなるのではないか。彼の自己治癒力でその傷を癒すことは可能なのか、と悩んでいる。

 そしてエーイチの話す声が一旦止んだ。俺はまだタイミングを計っている。

 そのときエーイチがいった。しみじみといったように思う。


「アニメはいい。モミジがいれば、一生幸せだ」


 その瞬間、頭の中で凄腕のガンマンのように素早く懐に右手を突っ込み、エーイチに銃口を向けた。


『モミジがいれば、一生幸せだ』


 その言葉は迷っていた俺に引き金を引かせた。容赦などなく。

 エーイチ。本当はモミジなんて、この世にはいないんだ。


「俺、前にエーイチに話したニクさんとアドレス交換した」


 エーイチの表情が固まる。この距離だ。言葉の弾丸を外すわけがない。銃声はしっかりと彼の鼓膜に届き、弾丸は胸を貫いた。エーイチは呻き声もあげず、固まっている。みじろぎ一つしようとはしない。

 長い長い沈黙が訪れる。ファミレスの周りの席の住人たちが話すざわめきが遠くに感じられた。俺とエーイチが出会ってから、こんな深く重い沈黙が訪れたのは、あのとき以来だ。俺はまたあの扉を開けたのだ。触れてはならない、エーイチの中にある暗黒世界への扉を。


   一六


暗黒世界への扉というと、ちょっと大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、要するに、女性からもてたことがないエーイチの自尊心が作り上げた、彼の心のありようだ。

 俺もいえる立場ではないけれど、十分にそれはわかっているつもりなのだけれど、エーイチはとにかく女性と縁がない。

 女性とのこっぴどい思い出がある、かというとそうでもないらしい。

 ただ女性から好意を抱かれたことはないらしい。女性に告白したこともないのに、絶対女性には好かれないと確信するという、草食系男子特有の自滅感とでもいおうか。そしてそのことが、エーイチの心をしっかりと歪めることになったようだ。

 一度、あまりにもエーイチがモミジモミジというから、それはどうかと思い、友人として一言忠告したことがあった。ここと同じファミレスでの出来事だった。初めて彼の暗黒世界に立ち入った瞬間だった。


「なあ、エーイチ。でもモミジってアニメのキャラクターだろ。好き同士になることもできないじゃんか。いいの?」


 その言葉を告げた瞬間、エーイチは沸騰湯沸かし器のように、警笛のような店内によく響きわたる大きな音を鳴らした。


「がたがたうるせえ! 素人は黙ってろ! モミジのことなんて何一つ知らないくせに!」


 唖然とした。今まで見たことも聞いたこともない、エーイチの憤怒の表情と大きな怒声でびくつき、ファミレスの中なので他の客の顔色を窺いながら、おろおろと何もいえなくなってしまった。

 エーイチは一瞬の沸騰で熱が吹き飛んだのか、俺がそれ以上言葉を発しないのを確認すると、またいつものようにぼそぼそとした口調になった。


「いいんだよ。黙って聞いてくれれば。ただ俺とモミジの世界に訳知り顔で妙な言葉を引っ提げて入ってこないで欲しい。それが嫌なら、俺と友達でいてくれなくていいから」

「わ、わかった。悪かったな」


 そう応えるのが精一杯だった。エーイチはアニメの話もよくするが、そればかりでもなく、就活のときはよく相談にも乗ってくれたし、ひねくれたところはあるが、基本穏やかでいい奴なので、俺の方で友達関係を辞めるつもりはなかった。

 しかし、エーイチの中に触れてはならない暗黒世界があるのも知った日だった。そしてそれ以降、彼になまの女性関係の話をすることはできなくなってしまった。


   ◇


 今再び、エーイチの世界を揺るがそうとしている。

 目の前のエーイチの背後から何か黒く重いモノがせり上がってくるような圧迫感を覚えた。ごくりと生唾を飲み込む。

 暗いオーラを纏った(まとった)彼がぼそりといった。


「アドレスとは、メールアドレスのことか?」

「そ、そうだ」

「それを何故、俺にいう?」

「え、いや」


 エーイチのためとは、こっ恥ずかしくていえない。するとそれを察するはずもなく、とんでもないことをいいだした。


「そうか。おまえは俺を置いていくのか。一生、親友だと思っていたのだがな」

「ちょ、ちょっと待て。置いていくって大袈裟な」

「俺はおまえの成功を願っていない、とだけいっておこう」


 エーイチの背後からせり上がってくる黒くて重たいモノが天井まで背丈を伸ばし、俺に覆い被さろうとするような逼迫感ひっぱくかんを覚える。

 エーイチの迫力にしどろもどろになっている俺に、顔を下に向けたまま宣言した。


「俺は、認めない」

「え、え?」


 今度は両拳でテーブルをがんっと叩いていった。


「俺は断固、認めない」


 エーイチのいつものぼそぼそ声とは違う、重厚感のある「断固」という言葉に、しっかりとした拒絶の意図を理解した。

 おまえは、娘の嫁入りを認めない頑固おやじか。


「だが、やはり、おまえの動向は気になるので、どちらにしても、その女とのことは俺に報告してくれ」

「う、うん」


 テーブルに両拳を置いて、俯いているエーイチ。その両拳の間には、今日もほうれん草のバターソテーがある。

 やれやれと思い、右手にある大きな窓から外を見た。暗い。夜だ。


「認めない」


 もう一度発したエーイチの声が、暗闇の中に溶け込み一体となった。

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