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四三
それから一年が経った。エリコちゃんはニューヨークで仕事をしている。エーイチはミーナさんとデートを重ねているらしい。グッサンからは、あいかわらず合コンの誘いのメールが来る。マサシさんとは、あれから連絡は取っていないが、彼女によると、もう立ち直って仕事をばりばりこなしているらしい。
今日も朝七時、ニューヨークでは夕方五時のいつもの時間に、インターネットに繋いだパソコンの前に座って待つ。静止画の画面を見ていると、すぐに画面が切り替わり、ネットの向こう側の世界と繋がった。画面の向こうで、エリコちゃんがいそいそと椅子に座る様子が見える。
俺たちは、いつも休みが重なった日に、インターネット電話を使って、お互いの顔を見てコミュニケーションをとるようになっていた。俺が提案したのだけど、これなら物理的な距離も乗り越えられると思ったのだ。登録しておけば安価な値段でやりとりできるので、とても便利だ。
「パン屋さんの仕事、慣れてきたんじゃない?」
「あいかわらず、朝早いのはきついけど、充実してる。今日は新作のアイデアも求められた」
「へー、すごいじゃん」
「エリコちゃんの方は?」
「うーん。現地のスタッフとのコミュニケーションがまだうまくいってない感じ。なんか、いうこと聞いてくれないんだよね。なめられてるのかな。でも大丈夫。うまくやってみせるよ」
「はは、頼もしい」
「明日だよね。正社員の試験」
「うん」
パン屋の仕事が始まってから、もう三度目の正社員への挑戦だった。オーナーは俺に早くモノになってほしいようだ。
「リラックスして。深呼吸ね。コウタロウならやれるって信じてる」
「ありがとう。ベストを尽くすよ」
「受かったらパン職人の第一歩だね。楽しんできて」
「うん、全力で楽しむ。成るよ。パン職人」
なんとしても正社員になりたい。エリコちゃんは、おまじないといって投げキッスをしてきた。て、照れる。
「でさ」彼女は改まった様子で、目の前に、ダブルクリップで綴じられた、A4の紙を置いた。
「読んだよ、新作」
エリコちゃんが旅立つ前から書いていたものをじっくり書いて仕上げたものだった。一ヶ月前にメールで送っていた。
どきどきしながら、画面に映るエリコちゃんの感想を待つ。なんだか嬉しそうな表情をしているように見えた。
「面白かったよ、コウタロウの小説! 以前、読ませてもらったものより、ずっと!」
「本当?」
六年間書いてきた。その六年間の成果がようやく出た気がした。
「才能あるじゃん、コウタロウ。あは」
「へへ」
つづけよう、小説。パン屋で地に足をつけて働いて、小説家という夢を追う。それが俺のスタイルだ。念ずれば花開く。一念、岩をも通す。つづけていれば、いつか小説家になれる日が来るかもしれない。
そうでなくとも、小説は好きだから。そしてーー
彼女を見る。時空を越えても、やっぱりエリコちゃんはエリコちゃんだ。
「エリコちゃん、今日も好きだよ」
一四時間の時差があったって、一万キロメートル以上距離が離れていたって、可愛いものは可愛いのだ。簡単じゃない事実を知ったって。
そう思っていた。
だけどやはり、性癖という問題はどうしたって覆るものではないのかもしれないと思い悩んでいる。エリコちゃんのいったとおり、おじさんになるまで待つしかないのかもしれない。だけどその時間をあまりにも長く感じてしまう。彼女の恋愛対象という五〇歳になるまで、あと二五年間。二五の俺は折り返し地点にいる。なあに、今までも彼女なしで耐えられたのだ。今までと同じ時間過ごせばよいだけのことさ。同じさ。
……いや、同じじゃない。
俺は恋を知ってしまったのだ。恋の甘美さも切なさも、そして欲しくて欲しくてどうしようもないのに、手に入れることのできない、頭と胸がおかしくなってしまうんじゃないかと思うようなつらさも、エリコちゃんによって教えられたのだ。もう同じじゃない。
あと二五年間。その間にどれだけの女性との出会いがあるのか。それをすべて捨ててまで、キスひとつできないエリコちゃんを好きでいつづけることは、とても難しい。
あれから二人の関係に変化はない。いつまでも今のままではいられない。だから、今この場で勝負することにした。
俺の決め球はチェンジアップ。
「エリコちゃん、もしも俺が正社員試験に受かったら……」
画面の向こうの表情が固まるのがわかる。俺はかまわず投げた。
「もう二度と、俺には会わないでください」
エリコちゃんが驚きの表情を見せる。まさかこのタイミングでこの球が来るとは思っていなかっただろう。あのときのストレートとの変化、球速の違い。俺の渾身のブレイキングボール(変化球)。
エリコちゃんは眉を八の字にして言葉を探している。パソコンのディスプレイを通してでは、本当の気持ち、オーラまでもはきっと届かない。きっと物理的な距離は埋められないのだ。触れ合えなければ、気持ちが離れていくように。だからきっとこの気持ちは、届かない。わかってる。
――でも。
もし君が、そんなの嫌だといってくれたなら、俺は絶対にエリコちゃんを諦めない。
四四
あれからひと月が経ち、俺は、試験に……落ちていた。
まったく試験に集中できなかったのだ。考えるのは、後悔ばかり!
あの後、こんなことがあった。
◇
「そんな、そんなのひどいよ」
エリコちゃんは、ひどく取り乱していた。見たことのない表情だった。
「もう私とは、会いたくないの? こんな別れ方って」
俺は黙っていた。俺の放った一球が、どんな結果をもたらすのか、見届けようと思っていた。
画面上の彼女が目をそらす。顔を背け、うつむき、声を絞り出した。
「でも、確かに、私もひどい女だ……。君をいつまでも、待たせてしまっている」
エリコちゃんの右手が動く。回線を切ろうとしているのだと気づいた。何か言葉をかけなければと戸惑っていると、彼女が口を開いた。
「試験、がんばって。応援してる」
目には涙をためていたが、笑顔だった。そしてパソコンの画面上に、相手の回線が切られた旨の表示がなされた。もう彼女は映っていない。
これが事の顛末だ。フラれた。見事に。
あれから連絡は来ない。
◇
今、自分の部屋でスマホを握り、エリコちゃんに送る文章を入力している。未練たらしい俺は、諦めきれず、なんとか彼女からの返信をもらえないものかと、頭をひねっていた。
『試験に落ちました』
考え抜いた末、まずシンプルに現状を伝えることにした。
スマホを畳の上に置き胡坐をかく。すぐに連絡が来ないことなどわかっちゃいるが、スマホから目が離せない。
すると突然、スマホが鳴った。え、と驚き着信画面を見ると、なんとエリコちゃんからだった。嘘だろう、と驚きつつ電話に出る。
「落ちたんだ」
彼女の声だ。喜びが沸き立ちつつ応える。
「ぜんぜん集中できなかった。エリコちゃんに振られてからこっち、仕事もミスが重なって」
すると彼女は意外な反応をした。
「私も」
「え」
「私も仕事に集中できてない」
「なんで……」
「君のせいだよ」
「それってどういう意味?」
次の言葉が聞きたくて聞きたくてしようがなくなっていた。彼女は間合いをわずかに溜めて応えてくれた。
「君が別れてなんていうから。ひと月離れてみてよくわかった。私はどうあっても君がいないとダメみたい」
そのセリフに天にも昇りそうな気持ちを叫びだしそうになるのを抑えつついう。それでもまっすぐな気持ちを。
「俺は今でもエリコちゃんが好きだよ」
嘘偽りのない言葉だ。
「だから」
するとそれを制するかのようにエリコちゃんがいった。
「待って。今度は私からいわせて。また変な言葉掛けられたら困るもの」
「じゃあ、どうぞ」
「正社員試験に合格して。そうしたら付き合ってあげる」
今度は気持を抑えられなかった。
「やったぞおおおおおお!」
「ちょっと、まだ決まってないから」
スマホの向こうで彼女が笑っているのがわかる。
「絶対、合格する」
「絶対だよ。私、君が50歳になるまで待てないよ」
俺の渾身の変化球は確かに彼女に届いて、こんなにも春を纏った球を投げ返してくれた。今度は俺の番だ。どんな球を放ろう? ええい、心のままに。絶対に絶対に、合格だ!
(了)
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