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   三七


 季節はもう冬。一二月に入ったところだ。今日は、今まで勤めていた仕事の最後の日だった。

 仕事を終え、ロッカールームでグッサンと二人きりになり、別れの挨拶をした。


「職場でクサタロウさんと会えなくなるのは、寂しいっすね」


 グッサンが涙ぐんでいる。俺のために涙ぐんでくれているんだと思うと、嬉しさと寂しさでいっぱいになった。思えばエリコちゃんと友達になれたのも、とつぜん現れたライバルと闘う気持ちにさせてくれたのも、彼のおかげだ。


「ありがとう、グッサン。グッサンにはエリコちゃんのことを含め、本当に感謝してるよ。諦めない気持ちを教えてくれたのは、グッサンだから」

「何いってるんですか。行動したのはクサタロウさんですよ。俺は面白そうだから、おせっかいを焼いたまでです」


 グッサンが右手を差し出した。俺が右手でその右手を握ると、彼は左手も添えてぐっと握り振った。まったく相入れないと思っていた肉食系男子と草食系男子が、確かに友情を確認できた瞬間だった。人生ってのは、本当にどうなるかわからないものだ。


「でも、もう会えないんですね。あ、でも、いつでもメールして会えるか。じゃあ、大丈夫だ。あ、エリコちゃん経由でいい女がいたら紹介してくださーい。そのときは、メールよろしくでーす。こっちもいろいろ紹介しますんで」

「い、いや、俺はエリコちゃん一筋だから」

「えー。でも俺、クサタロウさんのこと、もっとプロデュースしたいなー。いろんな女の子と遊ぶのも楽しいっすよ」


 か、軽い。でもこの軽さが、そのままフットワークの良さに繋がり、たくさんの女性と関係を持てるまでになるのだろう。

 改めてグッサンの肉食度を確認し、なんだか頼もしい気持ちになるのであった。きっといつまでも、グッサンは変わらない気がする。その彼と、これからも友情を感じていたい。

 目の前で、白い歯を見せて明るさを放つグッサンを見て、強くそう思うのだった。


   三八


 金曜日の夕飯どきのファミレスは、いつにも増して人が多い。女友達らしき三人組、子連れの夫婦、学生らしき四人の男たち。中にはカップルらしき若い男女もいる。誰もが楽しそうに会話し、その席々で明かりが灯っているようだ。外では木枯らしが吹いていても、ファミレスの中は暖かかった。


「ようやく決まったよ。長かった」


 学生時代と第二新卒時代に就職に失敗してから、小説の道に逃げてきた。芽のでない小説をつづけながら、就職のことは考えないようにしてきた。だが、ようやく自分のやりたいことを見つけ、その道に飛び込むことができた。まだ始まったばかりだが、未来に漠然とした不安を抱きながら生きてきた時代を考えると、もう感無量だ。


「俺もほっとしてる。正直、クサタロウの将来が不安だったからな」


 すでに就職をして正社員であるエーイチは、心なしか明るい表情をして俺を見ている。本当に心配してくれていたのだろう。祝ってくれているのだ。エリコちゃんだけでなく、親友のエーイチにも良い報告ができたことは嬉しい。


「ありがとうな」

「うむ」


 この後、エーイチにいおうと思っている言葉がある。きっと今みたいに祝福してはくれないかもしれない。だけど俺は、エーイチにだからこそ、いいたかった。


「まだ見習いだけど、試験に通って正社員になれたら、エリコちゃんに告白しようと思ってる」


 意を決して伝えた。エーイチの表情にさほど変化は見られない。


「いつ、正社員になれるんだ」

「わからない。三ヶ月の見習いの後、正社員試験があるんだけど、一発で合格できるとも限らない。でもチャンスは与えてくれるらしいし、何度でもトライしてみようと思う」

「長い道のりだな」

「でも、がんばるよ」

「そうか」

「うん」


 エーイチは特に否定してこなかった。どう思っているのだろう。すると彼は、さっきまでテーブルの下に下げていた両手をテーブルの上に置き、視線を下げた。


「おまえは俺を裏切った。だから応援はしない」


 俺を見ずにそういうエーイチに、やっぱりそうかと悲しい気持ちになった。

 でもエーイチは、次に、俺を見ていった。


「だけど、うまくいけばいいんじゃないか、とは思ってる。応援はしないけど」


 にっと笑うエーイチ。それって応援してるってことじゃ。まあ、ひねくれ者のエーイチらしい言葉だ。


「ありがとう。がんばるよ、俺」

「だから、応援はしないって」


 ひねくれたことをいうエーイチを、まあまあと宥める。あんなに拒絶反応を示していたエーイチが認めてくれた。ついつい頬が緩む。心底ほっとして、「もう、本当に仕事が決まって、良かった~」と吐息を吐き出すように言葉がでた。エーイチも、「今夜は無礼講だ。飲め飲め、コーラ飲め」と祝杯代わりの、ドリンクバーのコーラを勧めてくれる。俺たちは二人とも下戸なもんでね。

 でも、今日味わうコーラの味は格別だ。賑わうファミレスの中で、俺たちは自然に溶け込んでいた。久しぶりに、二人揃って笑顔になれていた。


   三九


 仕事が始まった。まずは、発酵したパン生地を綺麗に丸めるところから教えられた。

 オーナーがパン生地を計量しながら適度な大きさに切り、大きさの違う三種類の生地を丸めた。

 最初は掌に包み込めるほどの小さな生地。

 これを一個ずつ左右の手に収め、台の上で円を描くようにくるくる回しこね、丸めていく。

 これは簡単にできた。丸めた生地は、長方形のパットに並べていく。

 その工程が終わると、次に、男の手を一回り大きく広げたくらいの大きな生地を両手で丸める。これはすべてのパン生地の元になる生地らしい。さっきの小さな生地もこれをカットしてできた物だ。

 両手を、生地の周りを包み込むようにして、台の上でくるくると回しこねる。見よう見まねでやってみるが、うまくいかない。

 オーナーに「生地の外側を生地の下に織り込むようにやってごらん」といわれ、その通りにやってみた。

 生地を回しながら、生地の下側に添えた小指を生地ごと生地の下に入れていく。すると、うまくいったようで、「器用だなあ」と、褒められた。予想外に褒められたので気を良くする。

 まだ完全にまん丸にならず、楕円形になってしまうのが惜しいけれど、手応えはつかんだ。

 この生地は、さっきよりも大きなパットに入れていく。発酵させるのだ。

 最後に二種類の生地の中間にあたる大きさの生地が待っていた。

 これは難しかった。小さい生地を丸めたように、オーナーは両手を使い、それぞれの手で同時に二個ずつ綺麗に丸めていくのだが、俺はなかなか丸められなかった。コツがよくわからない。これも「生地を下に織り込むように」ということらしいが、片手でやるのは簡単ではなく、時折、うまくいくこともあったが、それがなぜうまくいくのか、よくわからない。とにかくたくさん丸めて、体で覚えるしかないと思った。ちなみにこの生地は、二個ずつパン型に入れて食パンになるようだ。

 緊張した状態で、三時間ほど、ほぼその生地を丸める作業に没頭し、大汗をかいた。だけど、オーナーには筋がいいと褒められたので、やっていけそうな気がした。小学生の頃、粘土遊びが好きで、毎日粘土をこねていたのが生きているのかもしれない。早く仕事を覚えて、この緊張感から脱したいとも思った。一人前と認められるようになりたい。


   ◇


 初日の仕事が終わり、くたくたになって帰る途中で、気分転換にと、久しく行ってなかった本屋に寄った。小説のコーナーに立ち寄り、平積みされている新作の小説を見た。当然だが、この中に俺の小説はない。そういえば、ここに自分の小説が並ぶことが夢だった。

 ふと思い出す。書きかけの長編小説を。ぼそりと呟いた。


「もういいよな。小説のことは。やりたいことも決まったし」


 しかし、呟いた言葉とは裏腹に、小説のことが頭から離れない。なんだか煮えきらない感情が湧き起こり、迷いが心を占め始めた。

 このままではいけないと思い、本屋を出た。

 家に帰ったら、とっとと風呂に入って寝てしまおう。

 そう思った矢先、携帯にメールが来たのに気づいた。表示を見ると、エリコちゃんからだった。

 疲れた仕事終わりに、エリコちゃんからのメール。すごくいい。疲れやさっきまでの迷いが吹き飛んだ気がした。

 うきうきしながらメールを開く。しかし、そのメールの文面を読んでいく内に、明るい気持ちはずんと重くなり、暗転していくのだった。


   四〇


 突然のことだった。エリコちゃんの海外出張が決まったのだ。行き先はニューヨーク。今までの功績を買われ、初の海外出店のチームの一員に抜擢されたというのだ。

 彼女が旅立つのは一ヶ月後。あまりにも早い。まだ正社員の試験すら受けていない俺は、途方に暮れた。

 この旅立ちによる別れが、そのまま人生の別れになることだってありえる。物理的な距離は、そのまま心の距離にも繋がる。遠く離れた地に住む俺よりも、現地で共に生活する男と付き合うようになる可能性の方が高い。

 どうするべきか。まだ正社員にも成れていない自分が付き合ってくれといっても、駄目に決まっている。

 ああ、どうしたらいいんだ。でももう、時間がない。

 街中を歩きながら、そう苦悩していた矢先、携帯が鳴った。こんなときに誰だと思い見てみると、あのマサシさんからだった。

 なんの用件だろう。このタイミングで。

 ネガティブになっていた俺は、もう嫌な予感しかしなかった。

 いつまでも携帯は鳴り止まない。止む気配もなかった。

 出たくはなかったがしょうないので、ためらいながらも電話に出た。


「久しぶり」

「お久しぶりです」


 何をいわれるのだろう。あれからマサシさんは、エリコちゃんに告白したのだろうか。まさかもう彼女からOKをもらえたとか。このタイミングだ。別れ別れになる前に、くっついてしまおうというのは、誰だって考える。そうに違いない。


「振られた」

「え」

「ちゃんと告白して、きっちり振られた。俺のことは、異性として見れないらしい」


 意外な話だった。正直、マサシさんなら、告白すればうまく持っていかれるんじゃないか、それを恐れていたからだ。


「あの、なんていったらいいか」

「気になる奴がいるらしい」

「気になる奴?」

「誰かは知らないけどね」


 よくわからない感情が持ち上がってきた。気になる奴? 誰なんだ。以前、マサシさんに、エリコちゃんは俺のことを気に入っていると聞かされたことがある。もしかして、気になる奴とは、俺のこと? そんなわけはないか。他にいるのだ。だが、なぜ彼は、俺にそれを伝えてきたのだろう。


「君はがんばれ」

「え、あの」

「がんばれ」


 戸惑う俺に、携帯の向こうから押しつけるように強引に、そういった。『がんばれ』と。

 少しの沈黙の後、ようやく声を出す。


「が、がんばります」

「よし」


 マサシさんは納得したようにいうと、「じゃあ」と電話を切った。

 ツーツーと鳴る携帯を耳にしたまま、その場に立ち尽くした。やがて耳から離し、さっきまでマサシさんの声がしていた携帯を見つめる。


『がんばれ』


 残像のように、まだ耳に残っている声。マサシさんは、確かにそういったのだ。

 ふと自分が今立っている前にある、カジュアルウェアショップのショーウインドウに映る自分の顔を見る。何かを決意したかのような俺がいる。

 携帯を強く握りしめる。がんばろう。がんばるしかない。

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