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本当にやりたいこと

作者: 涼田

第一志望に落ち、なんとなく決まった就職先。安定を選んだ青年は、居酒屋の店長との会話をきっかけに、本当の夢とは何かを考え始める_____。

 小雨に濡れたアパートの窓ガラス。十月にようやく就職が決まった。第一志望の市役所でないどころか民間で希望していた企業のどれでもない、ただ自分の学部が工学部だったから工学系に行けばやったことが活かされるだろうという理由で安直に受けることにした工業メーカー。西都大学4年生の田邊芳樹は赤銅色に光るカブトムシの標本が置いてあるアパートの一室でメールを受け取るとひとまず安堵し、それからすぐ父親に連絡した。


「もしもしお父さん、矢部工業に就職が決まったよ。」

「そうか矢部工業か。とりあえず職が決まって良かったな。」

「うん。とりあえず報告した。じゃあ。」


 父親の言い方からすると本当は市役所へ就職してほしかったのだろうと思い申し訳なく思うとともに息子の就職を心から祝ってもらえていないと感じ、少し寂しかった。電話を切り芳樹は大学一年の頃からバイトしている個人居酒屋に向かった。道中は雨脚が強まっていたが内定が出た喜びからか特に気にならず、足取りは軽かった。店につくと芳樹は開口一番店主に就職が決まったことを報告した。


「店長、矢部工業に就職が決まりました。」

「おぉ、おめでとう。就職できなかったら俺が雇おうと思っていたのに。そうか芳樹ももう就職かぁ。寂しくなるなぁ。」

「僕も就職できなかったらずっとここで働くつもりでした。」

「辞めてもいつでも待ってるよ。」


 冗談交じりに会話を交わした後、仕込みを始めた。4年間バイトを続けているのでほぼすべてのことをできるので店長やほかのバイトからも信頼が厚かった。ピークの営業が終わり、少し暇になってきた芳樹はふと店長がなぜ居酒屋を経営しているのか気になった。営業が終了し片づけをしているタイミングで聞いてみることにした。


「店長は何で居酒屋の店長やってるんですか。」

「なんでか、うーん。俺がもともとバンドやってたって話は知ってるよな。」

「はい、でもそれって若い時の話ですよね。」

「いや実は四十になる前くらいまでやってたんだよ。もうちょっともうちょっとってやってるうちにな。とにかく俺はみんなが楽しんでいるあの空間が好きだったんだよ。仕事終わりのサラリーマンでも学生でも誰でも嫌なこと忘れてヘドバンしてまるで住む世界が変わったみたいな。もちろん売れてるわけじゃないから色々バイトもしながらで、ここでバイトしてたんだよ。そしたらメンバーの一人が結婚するからバンド辞めるって言いだしてメンバーみんなびっくりしちゃってさ。そのまま解散しちゃったんだよ。」


 芳樹はいつの間にか包丁を洗う手を止め、少し欠けた包丁の先を見つめていた。使い古されただけの包丁があたかも人生を象徴するかのように思うほど、店長の話に聞き入っていた。


「それで解散しちゃったんですか。メンバー募集したりして続けたりしなかったんですか。」

「ほかのメンバーも解散するかって雰囲気になっちゃってな。俺にとっちゃ生きがい失なったようなもんだからさ、どうしようってなってるときに当時の店長が正式にうちの店で働かないかって誘ってくれて。年も年だからまぁそろそろ安定した職に就かないとなって思ってたから快諾したんだよ。居酒屋ってさ、ライブ会場と似てんだよ。みんなお酒飲んだり飯食ったりして楽しんでんだろ。俺は俺自身がみんなを笑顔にしたかったんだなってそん時気づいて楽しくなって今まで続けてるって感じかな。まぁあの時メンバーが抜けなかったら、新メンバー募集していたらって今でも思うけどな。」

「そうだったんですね。急に聞いたのにありがとうございました。」

「おう、自分のやりたいことを見つけるのがええぞ。後悔しちまうからな。」


片付けも終わり芳樹は帰る準備を始めた。


「居酒屋がライブ会場に似ている。か。」


芳樹はそうつぶやくと、しばらく黙り込んだ。父親の安定を求める声、店長の夢を追った話が心の中でせめぎ合っていた。本当に自分のしたいことは何だろう。子供の頃昆虫図鑑に夢中になってたなぁ。小学生の夏休みは虫取りしすぎて宿題していかずに怒られたっけ。本当はもっと違うことをしたかったのかもしれない。工学部に進んだ理由も就職に困らなそうだからだったしな。このままやりたくもないことをやる人生でいいのかな。そんなことを考えながら準備も終わり、帰路についた。雨はさらに強く降っていたが傘を差さずに帰ろうと思った。濡れてもいい。これからの人生はきっとこんなことの連続だ。

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