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朧月夜

 メガロータスのあるメイン・ストリートから、聳え立つ高層ビル、ロータス・タワーを中心に、放射状に道が伸びている。街を騒がす喧噪さえ隠すような、排気ガスとエンジン音。姦しいクラクションの音と、目を潰すようなネオンサイン。この巨大ロータリーを東に向かう道の中ほどに、ケイナインは座っていた。さざめくネオンサインとは趣を違えた、夜は闇に沈む大通りに、一つ、二つと連なる街灯が規則正しく並んでいる。その真下、茣蓙もない路上に座り込み、大きなキャスケットで画材を庇いながら、ケイナインはひたすらスケッチブックにデッサンを続けていた。

 疎らに通る軽自動車のライトに目を窄め、オーバーオールから濃い色の鉛筆を取り出しては線を引く。紙の上には書きかけの、等間隔に光を灯すこの街路がある。地平線の向こうには色鮮やかなネオンの明かりがあり、そこからずっと向こう側に、寂れた道に座り込み、絵を描く女の姿がある。俯いてひたむきに絵に向かい、何かを描いている。群青色に沈んだ町の中で、表情も影に隠れて良く見えない。


 ケイナインは何度も絵を空に掲げて目を凝らしては、納得いくまで影の色を濃く、濃く書き足した。


 そんな彼女の前に、良く磨かれた革靴が立ち止まる。小指の先から小指球までにこびりついた鉛筆汚れが、爪先に映ると、彼女は顔をくい、と持ち上げて、晴れやかな表情で笑った。


「アンサーさん、またいらしてくれたんですね・・・!」


 馥郁と匂い立つ紅梅の薫りが、喧騒に喘ぐ自動車の排気ガスを霞ませる。しっかりと折り目を作ったスラックスに包まれた足は細く長く、これまた穢れのない白いワイシャツに包まれた体は板のように薄い。背の高いニット帽で固い印象の服装を着崩してこそいるが、その影は揉烏帽子のようなシルエットに見え、どことなく風雅な印象を与える。よく手入れされた白い歯が覗く。


「ケイナインさんの絵を憂き世の数少ない慰みに、と考えて居りますゆえ・・・」


 ケイナインは蕩けた女の表情で月の逆光で隠れる微笑を見上げている。男のほほえみは、月暈(げつうん)のような朧げな輝きを放っていた。


「今日はどのような絵を・・・?」


 男は、儚げな声音で乙女の傍ににじり寄る。乙女は恥じらいもなく、自慢げにデッサンを披露した。


「この前から、ここの路地を描いているんです。アンサーさんと出会った路地を・・・」


 その時から少し明るく見える、とでも言いたげに、彼女はうっとりとした笑みで答える。黒と白紙で描かれた芸術をまじまじと見つめ、男もうっとりと表情を崩して呟いた。


「まことに・・・。十五夜の月の美しさと、それに似せた街灯の白い明かり・・・。華やかな色彩のロータリーからはいくばくか離れた喧噪の中にこそ、趣深い風情がありますね・・・。なにより、そこに座って絵を描く女性は・・・」


 長い睫の内側にある、霧深い夜のような黒く濁った瞳がケイナインを覗く。恍惚の表情で固まった彼女に、男は(たお)やかな微笑を湛えて語り掛けた。


「『深き夜の あはれを知るも 入る月の おぼろけならぬ 契りとぞ思ふ※ 』。まことに、世の中には打ち捨てられるには惜しい才能というものがございますね・・・」


 男は折り畳み式の革財布から小銭を取り出すと、彼女の帽子の中に放り込んだ。ケイナインはここではじめて我に返り、意識を飛ばしそうなほど馨しい紅梅の薫りに堪えながら礼を言った。


「あ、あの!ありがとうございます!で、で、その・・・個展の件は・・・」

「ええ!勿論、順調に進めております。ただ、この時期は会場を取るのに少々の手心がかかりましてね・・・」


 男がそう言って屈み込むと、ケイナインは所構わず財布の紐を緩めた。ぱちん、と小気味の良いボタンの音がするのを、男は光るばかりの微笑で聞き入り、そして、乙女の汚れた手に白い手を重ねた。


 物語の中から現れたような白い肌の、細い指先が、古い財布の中から先ほど稼いできたばかりの2万円を拾い上げる。疑うそぶりも見せずに目を輝かせるケイナインに、男は白い歯を見せて儚げに微笑んだ。


「少しばかり返そうとしても、あなたからつまらないものを取り上げるのは心苦しく思います。その手から受け取るものは、ちょうどその絵のように、面白いものであれば良いのですが・・・」


「きっとたくさん描いてみせますから!約束の日までに・・・!」


 穢れを知らない屈託のない笑みに、男は僅かに眉尻を下ろす。そして、徐に立ち上がると、眩い望月を見上げながら、二枚の紙幣を懐に仕舞った。

 そして、ゆっくりとした歩調でネオンサインの方へと向かって行く。ケイナインは、その細くしなやかな背中を、恍惚と眺める。白い光の下に出た時だけ現れる、物語の貴公子のような佇まい。それを静かに追いかける間だけは、彼女がスケッチブックを握る手が緩んだ。


 紅梅の薫りが遠ざかるにつれて、耐え難い排気ガスと残飯のにおいとが街路に充満するように感じられる。見送った麗しい背中の残り香を惜しみながら、彼女は行きつけの仮宿である、漫画喫茶『マンフグ』へ続く階段を登っていった。


紫式部『源氏物語』「第8帖 花宴」、源氏46

なお、同作について、本作で参考にした文献としては、柳井 滋 (著), 室伏 信助 (著), 大朝 雄二 (著)ほか校注、紫式部著『源氏物語』(岩波文庫,2022、全九巻)、および中野幸一編『新装版 常用 源氏物語要覧』(武蔵野書院、2012)による。また、引用短歌の番号は、前掲中野幸一『新装版 常用 源氏物語要覧』(武蔵野書院、2012)、85頁-116頁「作中和歌一覧」の番号に依った。参照にされたい。


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