不審
自宅へ戻り、パピーに留守を任せた後、アンダーはその日の午後の講義一限だけを受けて、夜から深夜までのアルバイトに入った。深夜帯は彼一人でのオペレーションであったが、18時から22時までの間はケイナインと同じシフトが入っていた。
ところが、ケイナインはいまだ出勤簿を押しておらず、アンダーはまたか、とあきれた様子で頭をもたげた。
シフトをすかされて苛立った様子の店長が、アンダーの手を取って語りかける。
「ああ、アンダー!よかった、時間通り来てくれたね・・・!」
店長の荒れた手を丁寧にあしらいながら、アンダーは制服の裾を整えて答えた。
「ケイさん、最近ちょっと遅刻が多くないですか?」
店長は言葉にならない、というように首を振ると、稼働表に目をやる。今日は、彼女がトイレの掃除当番であったことが、苗字のみで簡潔に記されていた。
「俺、やっときますよ」
「ありがとね・・・!じゃっ!」
そういうと、店長は駆け足で更衣室へと去っていった。その哀愁漂う背中を見送ると、アンダーはレジ番号の交代をした後で、客のいないうちにトイレ掃除の支度を始めた。
15分もすれば、帰宅ラッシュに併せて客が入店してくる。その流れを止めることもできないので、彼は、トイレ掃除もそこそこに終え、すぐにレジへと戻って清算に入った。
ここから1時間ほどは人も途切れない。弁当やパンなどの商品の陳列棚が空に近づくにつれ、アンダーの焦りは次第に高まっていった。
やがて、ラッシュを迎えて三十分が経過して、ようやく、ばたばたと騒がしい音がスタッフルームから迫ってきた。
「ご、ごめん!!あっちの仕事が長引いちゃって・・・!」
「はい、商品補充お願いします!」
制服を半分着替えたままのような姿のケイナインに、アンダーは補充用の商品メモを放り投げた。彼女も慌てて受け取ったメモを眺めつつ、在庫を取りにバックヤードへと駆けていった。レジは相変わらず人が途切れそうにないので、彼もすぐに清算作業へと戻る。
一通りラッシュが過ぎると、アンダーは大きく息をこぼして伸びをする。入口には、先ほど買ったばかりの紙たばこを燻らせる客がきれいな列を作って、ガラス越しに背を向けている。
「さて」と声をこぼして、アンダーはケイナインを睨む。
「店長に連絡は入れましたか・・・?」
ケイナインは身をすぼめて、首を横に振った。その頭上に温いため息が落ちる。
「別に・・・夢を追うことを否定したりはしませんが・・・。もう大人なんですから、遅刻の連絡くらいは入れましょうよ」
「それはそうだ・・・。ごめんね」
アンダーは「はい」とだけ答えると、トイレ掃除の当番表を指し示した。空欄になったままのサイン欄を、彼女は上目遣いで見上げる。
「やっときましたから、名前だけ書いといてください」
一通りのやり取りを終えてからは、仕事も落ち着き、待機時間もちらほらと現れだした。アンダーは隙間時間を使って店内の掃除をはじめ、ケイナインはそわそわとしながら時計を気にしている。
中腰の青年は、モップに体重をかけながら、雑談がてらに彼女に声をかける。
「・・・で、最近はそっちの仕事が上向きだしたんですか?」
「ファンができたの!しかもイケメン!」
興奮気味の声を聞き、適当な相槌を打つ。店中に響きそうな大きな声だったが、幸いたまたま来店者はいなかった。
トイレ前から雑誌売り場までの廊下が鏡のように靴を移すほど磨き上げられる間中、彼女は嬉々として語り続けていた。
「私の絵が大和絵みたいでいいって言ってくれて!色白で、こう・・・影のあるような薄い顔のイケメンなんだけど、何とも言えない馨しいにおいがするの!」
(大和絵みたいは褒められているのか・・・?)
アンダーは外周を磨き終えると、カウンターの中へと戻る。夢見心地の少女のように、目を輝かせているケイナインに、気づかせるために、小さく動作を呟きながら、掃除道具を片づけた。彼女は構わず続ける。
「それでね、彼、画商とも取引があるんだって!もしかしたらお眼鏡にかなうかもしれないから、一つ描いてみてくださいって、依頼をくれたんだよ」
「よかったですね。でも、仕事はちゃんとしてくださいねー」
アンダーは手洗いを済ませ、ホットスナックを出すためにバックヤードへと向かう。彼女も我に返って姿勢を正した。
その後も、二人は仕事の合間にこの「大きな仕事」に関する話を、続けた。アンダーは聞くともなしに聞いていたが、彼女の傾倒ぶりに少々危ういものを感じ、表面上の情報以外にも探りを入れようと、耳打ちをするように尋ねた。
「その人、自分のことは語ってたんですか?」
彼の問いかけに対して、小首をかしげて応じる。
「あんまりプライベートなことは話さないでって言われたけど・・・。アンサーって名乗ってたな」
アンダーは、言われた名前を復唱する。呑気に「名前似てるね」と指摘されたが、不信感がぬぐえない彼は、彼女を真剣な眼差しで見つめながら諭した。
「あの、失礼ですけど・・・。その人って、少し怪しいんじゃないですか?あまりにも都合が良すぎるというか・・・」
「やめて」
言葉に重ねるように言い放たれた。奇妙なほど静かな店内に、きっぱりとした声が響き渡る。
彼女の目は動揺と怒りに揺れていた。無機質な入店音が聞こえるまで、気味の悪い沈黙が場を漂っていた。
二人はすぐに仕事の姿勢に戻った。ケイナインは店舗へと出て掃除を引き継ぎ、アンダーはバックヤードに戻って飲料の補充に入った。
陳列棚の隙間から、来店者が天然水を手にするところと目が合う。その男は時折この店を利用するがたいのいい男で、冬場でも薄手のシャツに軽く汗をかいていることがある。今日は汗臭さこそ感じないものの、装いは季節に比して薄手で、首にタオルを巻きつけている。
(今日も硬水か・・)
脳内にもやもやとしたものを抱えながらも、それを考えないように意識して、無意味な思考を挟む。男が商品を手に取って、パン売り場へと移動するのを認めて、彼はレジへと戻った。
ケイナインの「いらっしゃいませ」という声音は普段と変わりない。アンダーも、切り替えの早さに感心を覚える。
レジに持ち込まれた商品は、硬水の天然水と、一番安いパンであった。男はたばこの番号を短く言い放つと、尻のポケットから財布を手にする。
(不用心だな)
意味のない思考を無理に起こしながら、清算の処理を進める。客も慣れたもので、会計には1分とかからなかった。
彼がすぐに去ってしまうと、バイクのエンジン音を最後に、再び居心地の悪い沈黙が訪れる。今だけは、帰宅ラッシュが恋しいと思いながら、アンダーはこの、地獄のような雰囲気の仕事に区切りをつけた。