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負犬物語 -スラム・ドッグス-  作者: 民間人。


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手習

 彼が目を覚ますと白い天井があった。体中が気だるく、僅かにも動こうという気持ちが湧かなかった。しばらくは自分が何者であるのかも判然とせず、ただぼんやりとした思考で目の前の天井を見つめていた。


「先生、起きました」

「ご無事ですか、苦しいところ、痛いところはないですか?」


 そう声を掛けられて顔を動かすと、看護師が立っている。仰々しい声が姦しいと思いつつ、耳につんと響くのを堪えて頷いた。

 慌ただしく医師や看護師が彼のベッドを取り囲んで、色々と声を掛けながら処置をする様は、目覚まし時計の不快さと形容すべきかもしれない。寝起きの気怠い感覚を無理矢理叩き起こすような措置の数々。彼は意味も分からず彼らの為すに任せていたが、徐々に意識が鮮明になると、もの悲しさに思わず涙があふれてきた。


「どうしました、痛いところがありますか?」


 医師がそう言って顔を覗き込んでくる。その時、ベインははじめて、掠れた声で答えた。


「・・・いえ、すいません」

「良かった。大丈夫ですよ。措置を続けますね」


 医師は手早く医療行為をこなす。末端まで感覚が戻ってくると、どうやら足元がひどく痒いらしく、見おろせば細々と切り傷などがあるらしかった。ただ、目立った外傷らしいものは少ない。消毒や、意識確認を終えると、医師はようやく措置を終え、電子カルテを覗き込んだ。


「あなた、お名前は言えますか?」

「ベインです」

「はい、ご出身などは・・・?」

「ロータス・シティから参りました」

「どういう訳でここに来たのかは分かりますか?」

「・・・。暗い、冷たい川に落ちて・・・。えっと、いいえ。確かに月に呼ばれた気がして」

「月に?」

「えぇ、水面に月が映っていて、波紋で揺れているのです。それが手招きをしているようで・・・」


 医師は振り返り、看護師に何かを伝えている。そして、カルテへの打ち込みを終えると、ベインに向けて丁寧に解説をした。


「どうやら少しせん妄があるようですが、命に別状はありません。経過観察のために数日入院していただき、問題が無ければすぐに帰れると思いますよ」


 医師は一通り解説を終えると、すぐに病室へ案内するように看護師に告げた。手際よく淡々と業務をこなす医師の姿を、ぼんやりと眺めていたベインは、やがてベッドごと運ばれて狭い病室へと運ばれた。


 丸一日天井と睨み合いを続けた後、朝日が完全に昇って暫くして、ようやく体を起こす気力が湧く。朝食は食べなかったので下げられてしまっており、間もなく昼食の時間であったので、ひどい空腹であった。


 腹の虫がひとりでに鳴く。そっと腹に手を添えた彼は、彼方に大きな川が望めることに気が付き、それを見おろして呟いた。


「『身を投げし 涙の川の はやき瀬を しがらみかけて たれかとどめし※ 1』」


 ぼんやりと窓を眺めて呟く彼の姿を見て、食事を運んできた看護師が給仕をしながらこう言った。


「あなたを助けてくれたのは、石川県から修学旅行できていた高校生の子だったらしいですよ」


 ベインは深刻そうに視線を落として、殆ど消え入りそうな声で答えた。


「・・・その方が、どうか後悔などなさいませんように。私は罪深い身でございますから、罪人を助けて肩身の狭い思いをなさいませんように」

「・・・。大丈夫ですよ。きっとあなたのことを知る術もありませんから」

「罪深いことに、生き長らえてしまったこと・・・。どうにせよ生きることはとても許されざることでございましょう。これから、どこに身を置けというのでしょうか」


 仄かに薫る紅梅が、看護師の鼻に届く。料理を置き、ベッドを起こして、彼女は爽やかな笑顔で答えた。


「どこにあってもよろしいのではないですか。浮舟だって生き長らえることとなったのです。まして、あなたは、物語の人ではないのですから」


 そう言って、次の患者のところへと看護師が向かって行く。その背中を見送った後、彼は、目の前の食事に視線を落とし、やがて細くしなやかな指で食器を手に取った。


 食事を終えてすぐにベッドに身を預ける。満腹と言うには物足りないが、心地よい満足感の中で彼は微睡に沈んだ。


 そして目を覚ますと、あたりはすっかり闇の中にある。彼はベッドから足を下ろし、スリッパを床に擦り付けながら、窓にかかるレースのカーテンを開いた。


 大きな川を挟んで住宅街が広がっている。駅前の小さなロータリーに、ちっぽけな車両が一台停まっていた。

 そして、そっと顔を持ち上げれば、満天の星空がある。降り注ぐ光の粒子が遍く町を照らし、その明かりの隙間に、家々から漏れる電灯の照明があった。

 何よりも、これらの星空の中心を、望月が照らしている。空の明かりにも家の照明にも染まらない、青い、青い月が。


「『心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな』※2 」


 ベインはその月をじっと見上げ、手近にあった紙とペンを引き寄せる。そして、静かにペンを取り、


「 これはいつの、どの指導者の頃だったろうか。 」


 と、物語にはそう書き始めたのだった。



挿絵(By みてみん)

※1紫式部『源氏物語』「第53帖 手習」、浮舟、15

※2 藤原定家撰『百人一首』第68歌・藤原通俊撰『後拾遺集』雑1・860 (作・三条院)

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