宇治囀(うじのさえずり)
あいにくの曇り空の下、ベインは京阪宇治駅へと降り立った。大きなアニメーション作品の看板が彼を出迎える。人通りは決して多くはない。彼は大きな鞄をコインロッカーに預け、駅前の小さなロータリーまで繰り出した。
目前に大きな橋が架かる。激しい水音が遠く高く響く。ゆっくりと橋の袂に歩み寄ると、彼の眼下には荒れ狂う川が広がった。
「宇治の橋姫・・・」
ベインは橋に寄りかかり、古いカメラで激流を撮影した。嵩が増し、濁った川の上に白波が立つ様子は、殆ど魂を飲み込まんとするようであった。
彼は橋を渡る間に川を何度も覗き込み、入念に激流を確認する。修学旅行中の学生や、自分と同じ目の色の観光客などとすれ違いながら対岸へと辿り着く。
彼は対岸に辿り着くなり、十二単の女性の像へと駆け寄った。
しなやかな曲線を描く松の木の下で、儚げに視線を落とし、巻子本を開くたおやかな女性。見紛うはずもない、紫式部の像である。
感極まった彼が像の前で手を合わせる。通り過ぎる人の波が、続々と平等院表参道へと向かって行く。宇治川を背に、通り過ぎる人のことも構わずに、一心に書を読むその女性の前に立ち、彼はカメラを構える。女性の姿を画角に映すと、遥か対岸へと伸びる長大な宇治橋もフィルムに収まった。その、息を呑むような美しさ、あるいは恐ろしさと形容すべき儚さに、ベインは暫く声を失った。
彼は表参道から僅かに逸れた道を進み、道の脇にある小さな神社の中を覗く。鳥居の前で礼をし、潜るには少し窮屈だが、脇を進むと、小さな拝殿が並んでいる。彼は感極まって涙が溢れそうになるのを抑え、500円玉を賽銭箱に入れた。資料で読んだ通りの参拝を、覚束ない様子でこなすと、彼は踵を返し、平等院の表参道へと繰り出す。
観光客の賑わいも激しく、土産物屋や飲食品が立ち並ぶ中を、彼は見向きもせずに直進する。表参道を直進すると、平等院鳳凰堂の拝観受付が賑わっているのが見えてくる。ガイドがツアー客を引き連れて、解説をしている姿を横目に眺めつつ、彼は更に奥まった道を進んでいった。
道すがらにある石碑を見て、ベインは再び立ち止まる。木々と柵の間から宇治川が望めるその場所で再びカメラを構える。彼がフィルムを確認すると、そよ風に靡く木々が、石碑に影を落としていた。
フィルムの中に映した木漏れ日をしばらく見つめたかと思うと、彼は方向転換をして歩き出す。来た道を真っすぐに帰る途中、宇治川に突き出した屋台小屋に、屋形船のポスターが並んでいる。彼はその場所で一度立ち止まると、「浮舟・・・」と独りのたまい、再び歩き出した。
宇治川の上を渡る橋を渡り、小島へと辿り着いた彼は、宇治橋の方に目を凝らした。地平線の彼方にはうねる雨雲から天使の梯子が降りている。川面は薄暗い灰色で、流れに抗う白波は不規則に持ち上がっては消えていく。
眩しそうに目を細める彼の後ろを、瑞々しい学生の、楽しそうな声が横切っていく。その声が対岸まで消えていくと、彼は再び歩き出した。
小島を進み、対岸へと向かう橋を渡ると、先ほどの学生達が橋の袂で群がっている。ベインが覗き込むと、彼らが囲んでいたのは二人の男女の像であった。
寄り添い合う束帯の男と、十二単の女の像。男は女に熱烈な眼差しを向け、女は俯きがちに視線を逸らしている。しかし手に持つ扇は男の眼差しを拒んではいない。
「源氏だー」と、学生が賑やかに語らうその間から顔を出し、「源氏ではありませんよ」とぽつりと呟いた。一人の学生がベインの方を向いたが、ベインは逃げるようにその場を立ち去る。
寄り添い合う男女は匂宮と浮舟である。秘めたる思いを交わして、背徳の白波をかき分け、小舟で宇治川を下っていくのである。ベインはそう語りたくとも、それを語るに足る男は彼ではないし、女は既に亡いのであった。
足早にその場所を立ち去り、宇治上神社の境内へと入る。ここには引率の教師らしい人物が黄色い旗を手に持ち、笛をぶら下げて立っていた。ベインは見様見真似の参拝を再度こなし、去り際に教師に軽く会釈をして通り過ぎる。ふわりと香り立つ紅梅の薫りに、教師は思わず身動きが取れなくなった。
彼が神社沿いの道を歩いていくと、深い緑の生い茂る中に、埋もれそうな石碑が佇んでいる。彼はカメラを構え、それを写真へと収めた。石碑は苔生したように背の高い草に阻まれており、石碑の奥にある木が、その葉緑に覆い被さるようにしている。フィルムの中にある緑に負けそうな石碑を確かめた後、彼は再び歩き出した。
さらに奥まった場所へと歩いていく。天は緑に阻まれて、木漏れ日だけがわずかに彼に降り注ぐ。心地よい風が吹き抜けて肌を撫でると、彼は静かに額の汗を拭った。
立ち止まり、木々のざわめきを聞く。ベインの心に一時の安らぎが染み渡る。深呼吸を擦れば、彼の心には木漏れ日のように僅かに光が射した。
再び歩く途中、道の半ばに石碑を見つける。彼は屈み込んでこれを読み、思わず瞳孔を広げた。
「与謝野・・・」
静けき林の中、彼の鼓動は高鳴る。黙々と石碑を読み解き、思わず首を垂れる。そして、この石碑をカメラに収めた。
さらに奥へと歩き、ほどなく彼は山の麓に大きな石碑が立っているのを見つけた。跡を前にして立ち止まる彼の頬を、涙の露が伝っていく。
「『あげまきに 長き契りを むすびこめ おなじ所に よりもあはなむ※ 』」
木々の間を通り抜ける風が、激しく木の葉を揺さぶる。その騒めきは彼の全身を包み込み、激しく罵声を浴びせた。
首を垂れた彼の足元に、雫が零れ落ちる。しばらくすると頬を撫でる冷たい風も通り過ぎていき、やがては罵声も止んだ。
彼は前を向き、再び歩き出す。連なる道を真っすぐに進み、学校の裏手へと辿り着いた。子供の声が建物を挟んだ向こう側から聞こえてくる。垣根に囲まれ、薄らと絵画の描かれている蜉蝣石が立つ隣に、ひっそりと表札のような碑が並んでいる。ベインは背後を気にしながら慎重に後退し、並び立つ古跡にカメラを構えた。大きな垣根に囲まれた石がフィルムの中心に鎮座し、小さな石碑は視界に入らない。彼はシャッターを切ってから首を傾げ、改めてそれぞれを個別に撮影した。
長い徒歩の旅は続く。なだらかな傾斜の道路を進み、徐々に険しくなる勾配を上っていく。良く磨かれた革靴も苦しそうに皺を寄せていた。額に浮かぶ汗をワイシャツの袖口で拭い、一心に前を向いて登っていく。やがて大きな駐車場の前に辿り着いた。彼の歩幅も少し大きく、忙しなくなる。
やがて木々に囲まれた一本道の坂道が視界に現れる。色めく木々の遥か上に、厳かな雰囲気の寺院が建っている。ベインは受付で入山料を支払い、ネクタイを緩め、貼り付いたワイシャツに空気を入れながら登っていこうとする。
「できればご洋服を整えてご入山ください」
受付の老爺が難しい表情で声を掛けると、ベインは頭を下げて緩めたネクタイを締め直した。老爺は親指を立てて応対したので、彼も微笑みを返した。
険しい階段へと続く傾斜を登っていく。涼しくなったとはいえ、薄ら汗の浮かぶ額が、かつての道の険しさを想起させる。脇道に池を中心とした日本式庭園が見えてくる。同時に、僅かに水の落ちる音が耳に届いてくる。庭園を回る人々を見おろしながら、彼はずんずんと先へ進んでいく。
険しい階段を昇り切り息を切らせたベインは、厳かな雰囲気の本堂を前にして立ち止まる。あたりを見回し、まずとぐろを巻く蛇の体に老爺の顔がついた石像に気づき身構える。恐る恐る近づき、説明を解読すると、彼は素晴らしい笑顔の老爺をそっと撫でた。
学生が屯する牛の像を後ろから眺め、さらに奥まった場所へと向かう。
厳かな鐘楼のある脇に、ひっそりと石碑が佇んでいるのを見つける。彼は石碑の前へ歩み出てじっと睨み、それをフィルムへと収める。そして、墓石のようにひっそりと佇むそれに向かって、長いこと手を合わせた。
踵を返し、宇治駅へ向かう大通りを目指して道を降っていく。趣のある一戸建てや、モダンな建物が入れ替わる景色をずっと下り、大通りへと出る。横断歩道を渡り、小さなジャングルのような並木の一つを一周した。
ほとんど緑にすっかり隠れてしまっていたが、背の高い石碑が裏手に立っている。背の高い木と多年草に囲まれ、突き出したススキに守られる雰囲気のある石碑は、裏手にびっしりと草が絡みついている。風が吹けば草木が息を合わせて騒めき、心地よく鼓膜を揺する。ベインは裏面を撮影し、続いて表面を撮影した。
通行人の老婆がベインを見上げて通り過ぎていく。老爺は見るからに観光客というこの男に穏やかに挨拶をすると、そのまま駅へ向かって歩いていった。
道すがらに見えてくる神社の前で立ち止まった彼は、鳥居と拝殿、持仏だけが並び立っているこの小さな神社で得意の参拝を行うと、小さな鳥居の脇を潜って、神社の前に並び立つ古跡の前でカメラを構えた。神社と共に撮影をし、再び宇治駅へ向かって降っていく。
ほんの少し下った辺りで、彼は再び立ち止まった。鎌倉時代の古い観音像が、道路の脇にひっそりと建っている。静かに座して横断歩道の真中から道路を見守る仏像は、車道を往来する軽車両を優し気に見守っている。そして、自分の前に立ち止まった、ちっぽけで貧相な男にも微笑みかけた。男は恥ずかしそうに彼を拝み、悲しげな眼差しを持ち上げた。そして、観音像の傍にある石碑をフィルムに収めた。
ベインは観光客で賑わう宇治駅へと戻ってくる。彼は大きく伸びをして、汗ばんだ背中からワイシャツを剥がす。視界に収まる遥かな宇治川の流れは変わりなくうねり、白波を下流へ、下流へと運んでいく。
彼は宇治橋の袂へと戻り、あたりが暗くなるまでじっと宇治川を眺めていた。
※紫式部『源氏物語』、「第47帖 総角」、薫15




