後又(のちにまた)
夏の蒸し暑さも過ぎ去り、秋風がそよと肌を撫でるようになるころ、アンダーは早朝に起床して着替えを始めた。朝ぼらけの空が白んでいく中、安物の腕時計をし、チノパンツにチェック柄のワイシャツを身に着けた「半端な」一張羅で空港へと繰り出す。
ロータス・シティ駅はロータス・タワー前の大ロータリーを北東に進んだ先にあり、2つの環状線、郊外へ向かう電車の16のホームと各都市を繋ぐ高速鉄道のホームで迷宮めいた基幹駅となっている。
朝方始発ということもあって、駅のホームはがらんどうであり、疎らに人が歩くだけであった。
電車に揺られること1時間、見事な快晴となっている。乗降する人の姿も徐々に増え始め、ちょうど車内が満席になろうかというところで、一気に電車から人が流れていく。一度乗り換えを行い、人の往来が少ない空港線へと乗り込む。
外の景色から大きなビルが姿を消し、一軒家と食品スーパー、4つのホームがある中程度の規模の駅と小規模な駅が代わる代わる現れるようになる。
ロータス・シティからは既にかなり遠ざかっており、自転車置き場の規模を平面駐車場の規模が凌ぐようになると、いよいよ彼方に白い旅客機の往来が視認できるようになった。
「次は、空港駅、空港駅―」
間もなく腕時計は8時前を指し示す。アンダーはワイシャツの袖口を少しだけまくり上げ、時計を気にしながら立ち上がった。
ほとんどの旅客が立ち上がる中、座席で転寝をする学生が取り残される。イヤホンの垂れさがった耳がシートの上に倒れ込んだとき、学生は気だるげに起き上がって出口へ向かう行列の方へ向かった。
停車してから少しの間があり、扉が開くと同時に、キャリーケースを持ち上げた人々が早歩きで電車から繰り出して行く。身軽なアンダーは一足先に広い階段を上り、改札を出た。
駅前特有の小さなコンビニエンスストアの前を横切り、階段を降りると、彼の前に大きな空港が現れた。
鉄道駅直通の連絡通路から、空港へと向かう人の荷物は多い。幾つかの高架橋が合体したような空港前の入り口を、アンダーは圧巻の様子で眺めていた。
連絡通路からガラス張りのターミナルへと向かうと、目の前にはアンダーが久しく見た記憶のない、広大なアスファルトが敷かれた景色が広がっている。
「滑走路」
無意味な呟きをこぼしてガラス越しに滑走路を眺めていると、隣から、控え目な笑い声が聞こえてきた。
「空港は初めてですか」
国外旅行にしては軽装のベインがアンダーに声を掛ける。アンダーは口を半分開いたまま、無言で頷いた。ベインは微笑みながら、彼の視線を追った。
「良く空が見えるでしょう」
「地平線まですっかり見通せる」
「私も若い頃、出張で二回だけ使いました。なかなか悪くないものですよ」
「広い」
「それは、もう。空を飛ぶのですから、羽搏くに足る助走をつけなければ」
ベインは間近に合った椅子に座る。滑走路の中へと航空機が入り、車輪を出して着陸する。
「あれに乗るんだな」
「もう一つ後の便です」
アンダーもベインに倣って座った。旅客機の前に長い階段が運び込まれ、乗降口の扉が開く。ぞろぞろと航空機を出る旅客の姿は、米粒のように小さく見えた。
「色々と、考えることの多い夏になりましたね」
ベインは老人のようにのんびりとした口調で呟く。キャリーバッグの取っ手を杖のように掴み、体重をかけている。
「そうだな・・・。でも、悪くなかったかな」
「悪い結末ばかりでしたよ」
ベインは優しい眼差しをアンダーに向ける。広い滑走路から伸びる地平線の向こう側をみつめながら、アンダーは小さく頷いた。
「それでも、悪くなかったよ」
「そういうものですか」
「そういうものです・・・」
澄み切った青い空と空の間をかき分けて、続々と航空機が上陸していく。いくつかの航空機が車庫に入り、あるいは車庫から現れて、方向転換をしては低速で進んでいく。
ターミナルを包み込むアナウンスの声は、今日の最高の天候と、快適な空の旅を約束した。それに対して、答える人はないまま、ベインはアンダーのそれよりも幾らか高価らしい腕時計を確認した。
「すいません、そろそろ行かなくては」
ベインが立ち上がるのに合わせて、アンダーも立ち上がる。
「じゃあ、また」
「『のちにまた あひ見むことを思はなむ この世のゆめに 心まどはで※ 』」
「それも源氏?どういう意味なんだ?」
そう問われて、ベインは静かに頷く。
「・・・また会いましょうという意味ですよ」
「あぁ、また」
ベインはキャリーバッグに引き摺られていくように、ゲートに向かって歩んでいく。やがて蜉蝣のようにみえなくなると、紅梅の残り香だけが、僅かに留まった。
※紫式部『源氏物語』「第51帖 浮舟」浮舟、13




