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負犬物語 -スラム・ドッグス-  作者: 民間人。


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穂摘(ほづみ)

 カチッ、というロックの外れる音の後、甲高いアラーム音が狭い部屋に響く。作業机の上で寝息を立てていたアンダーは、つられて重い瞼を開いた。足元をくすぐる柔らかい毛並みを軽く撫で、鈍重に立ち上がる。彼は頭を掻き、大きな欠伸をしながら脱衣所へ向かった。空の洗濯カゴを持ち上げ、洗濯機の蓋を上げる。洗剤の良い匂いが、彼の鼻腔をくすぐった。


 無感情に洗濯物をカゴへと放り込み、カーテンを開けてベランダへと向かう。

 お盆の厳しい残暑も過ぎ去り、街には秋の気配が訪れようとしている。道路わきの並木は葉が色づき始め、瑞々しさが少しずつ失われている。じめじめとした蒸し暑さが和らぎ、彼は肌着で過ごすには少し物足りないと感じた。


 少し背伸びをして竿竹に外出用の衣服をかけていく。そのたびに仄かに広がる甘やかな香りもまた、今の彼にはやはり少し物足りなく感じた。


 洗濯物を一列に並べ、湿ったタオルの皺を伸ばしているところに、突然スマートフォンのアラームが鳴った。彼はタオルを乱雑にハンガーに掛けると、スマートフォンを取りに急ぐ。作業机の上で鳴るスマートフォンには、パピーのいた施設の名前が通知されていた。口の中で苦いものが広がる。一呼吸置き、恐る恐る通話ボタンを押した。


「はい」

「ご無沙汰しております。アンダー様ですか?」

「はい、ご無沙汰しております」


 緩やかな通話のスタートである。背後には変わらない子供たちの話し声がある。しかし、相手の声音はどこか暗く、アンダーは揺らぎそうになる心を抑え込もうと、唇を引き結んだ。


「パピー君の行方に関する手掛かりが見つかったようです」

「本当に?どこですか」


 期待よりもずっと大きな不安が胸の奥から込み上げてくる。アンダーは一筋の希望に取り縋り、声を上ずらせた。


「パピー君の着ていた衣服が、港の倉庫で見つかったのだそうです」

「・・・」


 不安げな受話器越しの声に答えることもできず、アンダーはスマートフォンを持つ手をだらんと垂らした。

 動揺して広がる瞳孔がわずかに揺れ動く。視界が徐々に悪くなり、それを誤魔化すようにギュっ、と目を閉ざした。


 返事をうかがう職員の声が、垂れ下がった手の中からこぼれている。アンダーは三つ折りにした布団にもたれ掛かり、天井を仰いだ。しばらく応答をせずに、そのままで留まっていたかと思うと、心の整理が追いついてようやくスマートフォンを耳に当てた。


「・・・にかく、まだ亡くなったとは限りませんから、警察にお任せして、気を確かにもって!信じて待ちましょう」

「そう、ですね・・・。ごめんなさい。少し取り乱してしまって」

「無理もありませんよ・・・。ですが、きっと元気な姿を見られると信じて、希望を捨てずにいましょう」


 相手の言葉が右から左へと流れていく。それでも、なんとか短い相槌を返して、通話を切り上げた。


 再び重い頭を布団の上に投げ出し、天井を仰ぐ。空は白い鱗雲が少し流れていくだけの快晴である。意地悪な太陽は夏を忘れられずにぎらぎらとして輝き、青く澄んだ空の上を渡っていく。


 アンダーは目線だけを動かして鱗雲の行方を追いかけながら、呆然として過ごした。


 時計の秒針の音と秒針の音の間に、長い沈黙が挟まる。洗濯物がそよ風に揺られて心地よく踊る姿さえ、どことなく憎らしげである。

 置きっぱなしの空のかごがガラス越しに、連れ戻されるのを待っていた。アンダーは視線を洗濯かごの方に向かわせると、ゆっくりと立ち上がり、ベランダへと出た。


「・・・ごめんな」


 返す声もない。洗濯かごを取り上げて、すぐに部屋へと引っ込む。再び作業机の前に座り込み、布団にもたれ掛かった。

 筆のように先端の黒い長い尻尾が、アンダーの視界の上に乗りかかってくる。短い前肢が少し痛いくらいに髪の毛を引っ張り、尻尾が視界から引っ込んだかと思うと、視界一杯を丸いオコジョの顔が埋めた。

 気まぐれに布団の上にある背中を撫でてみる。オコジョの滑らかな毛は一瞬逆立ち、しかし身を任せるように手のひらに流れて萎んでいく。絹のような滑らかさの体毛は、夏の盛りをいまだに忘れてはいないらしかった。


「お前らも寂しいか」


 チィ、と高い声が鳴いた。アンダーは苦笑いをこぼして、布団から身を起こす。頭の上に乗っかったオコジョを引き剥がすと、胡坐をかいた膝の上に乗せ、母猫が毛づくろいをするように、滑らかな毛並みを頭から背中の方へと撫でた。


 不思議と心が穏やかになった時、時計の針を見上げると、すでに12時直前を指し示していた。


 アンダーは押し入れの中を探る。滅多に履かないチノパンツを引っ張り出した。その辺に寝間着を放り投げ、ズボンを履き替える。彼が滅多に使わない安物の腕時計をして、これまた滅多に使うことのない無地のブルーストライプのワイシャツを引っ張り出す。そして脱衣所へ向かい、それらを着込んだ自分の姿を風呂場の姿見に映した。

 何てことはない。貧相な風貌の、眼鏡の男が、寂し気に立っている、それだけの姿が映った。彼は半分立っていた襟を整えると、鍵と貴重品を詰め込んだだけの鞄を持ち上げて、街へと繰り出した。


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