手応(てごたえ)
アンダーが帰宅すると、すぐさまパソコンの電源を入れた。まずは手始めに関連しそうな制度に関する調査を行う。多くの医療補助が対象になりそうではあったが、幾つかの懸念点を見つけた。
そもそも、彼女の親族は収入がどうなっているのか、また、赤子の戸籍は現在どのようになっているのか。アンダーは考えてもしようのない問題をはじめて意識して、腕を組んで唸った。背もたれが恋しいと思い、背後の布団を三つ折りにしてもたれ掛かる。
アンダーは脇に置いたスマートフォンを手に取り、ベインへ連絡をする。質問に対しては素早く既読がついたが、想像通りの回答であった。
『さすがに収入のことについては聞いておりません。お力添えできず申し訳ございません』
素早くお礼の返信を返し、スマートフォンを脇に置く。アンダーはしばらく悩んだ末、ビッチのSNS跡地に、検索したサイトのアドレスだけを送付した。
続けて、メッセージを送る。
『お世話になっております。パープルさんの友人です。お子様のことについてお話を伺いましたので、少し補助制度について調べてみました。該当する支援が受けられるかどうか、よろしければ確認してください』
暫くすると既読がつき、さらに長い時間が経過して返信が返ってくる。
『こんばんは、アンダーくん。ベインさんに確認しました。ありがとう。アクセスして確認してみます』
アンダーは『よろしくお願いします』とだけ返答し、スマートフォンを置いた。
思い切り布団にもたれ掛かり、背伸びをする。一時間ほどの出来事ではあったが、強い達成感のようなものを感じられた。
しばらく余韻に浸っていると、胡坐をかく足元に、こそばゆい毛並みが近づいてくる。真夏に比べればずっと心地よいオコジョたちの体温に心を和ませる。腿の上に二匹を乗せたまま、彼は優しく撫で回した。夏毛特有のしなやかな毛並みは指先に絡み付くことも無く心地よく流れていく。オコジョたちも完全に気を許した様子で、尻尾でアンダーの足をびしびしと叩きながら、気ままに寛いでいる。
ふと、彼が顔を持ち上げた時、見晴らしのいい窓際が視界に入った。そう言えば、そこにいた少年もこのようにオコジョとじゃれ合っていた、と懐かしく思い出す。一抹の寂しさを感じつつも、彼は、今ある心地よい肌触りに意識を移し、自らの心を慰めるように努めた。
オコジョが欠伸をした。時計は11時を回っている。彼はオコジョを持ち上げて窓際においてやる。二匹は仰向けになって臍を天井に晒し、スピスピと寝息を立てはじめた。それを暫く眺めた後、彼は折り畳んだ布団を広げ、その中に身を預けた。
馴染んだ煎餅布団の上で、スマートフォンを弄る。オコジョたちの腹が持ち上がっては萎んでいく、その繰り返しを見るともなしに眺めながら、欠伸をした。そして、何気なく「おやすみ」と独り言を呟くと、そのまま重い瞼を閉じた。
ロータス・シティの大通りにある、ヘルメット・ライフ・インシュアランスサービスは、その朝騒然となった。かつてこれほど軽視されていたことはないと言えるほどの、会社のお荷物であったベインが、仕事の合間に新規の契約締結のためにメールによる営業を始めているのである。資料を留めるだけの作業員に過ぎなかった男の突然のやる気の変化に、誰もが驚きを隠せなかった。
まず、女性職員がベインの際立った美貌に沸き立つ。儚げで暗い眼差しに光が灯り、以前にも増して魅力的に映った。
次にこれまで蔑ろにしてきた年下職員が驚き、中堅社員が半ば馬鹿にしつつも感心したように後輩に話を振る。ベインがこれまで以上に仕事を出来る訳でもないのだから、大した仕事ぶりでもないのだが、それでもこれらの、入社当初から恐らく全く仕事に協力的ではないように見えた男の変化は、あまりにも強い衝撃であった。
ただし、上司にとっては面白くない。かねてより彼を毛嫌いしていた支店長を始め、彼の能力の低さから、トラブルを懸念して仕事を振らなかった中間管理職の職員が、彼の業務を妨害しようと次々と仕事を振っていく。ベインは簡潔な返事だけを返し、資料留めの作業を素早く済ませ、自らの業務に戻る。その手際の良さは、明らかに長年専業をしてきた男のそれであった。
怪我の功名というべきか、支店内にいるどの職員も、この速度で資料を留めることは出来ない。昼休み前までに資料を纏めたベインが、次々と職員らにそれらを渡して回る姿を、上司たちは呆気に取られて眺めていた。
昼休み、ベインが一人おにぎりを片手に資料を眺めている。その姿を、女性職員が遠目に伺っていた。異様に多い視線に気づき、おにぎりをすっかり食べ終わったベインが振り返ると、途端に黄色い声が沸き起こった。
困惑した様子のベインが、女性職員たちに声を掛ける。
「あの、なにか、ご用でしょうか・・・?」
「いいえ、何も」
「やばいやばい」
今までにない騒ぎに視線を泳がせていると、同僚たちが彼のデスクに手をついて近づいてきた。
「今日頑張ってたな」
「えっ、えっと・・・。恐縮でございます」
「メールの文章とか大丈夫か?」
「えっ、えーっと・・・。ご確認いただけるのでしょうか・・・?」
「見てやるよ」
同僚たちはメールファイルを開き、ベインのメール文章をチェックする。しばらく数人で囲んでメールをチェックしていたが、彼らはぽつりと「丁寧でいいじゃん」だけコメントを残した。ベインも、「恐縮です」と、短い応答をする。その後、同僚たちはそのメッセージを眺めながら、訴求力が弱い、面白みがないなど、それぞれ気ままにベインへとコメントをぶつける。あまりのコメントの多さに困惑しているベインだったが、それを察した同僚たちがようやくベインのデスクから身を起こす。
「お前、やればできるじゃん。それでいいんだよ、それで。困ったら聞いてくれよ。じゃあなー」
ポケットに片手を突っ込んだままそれぞれのデスクへと戻っていく人々の背中を呆気にとられつつ見送ったベインは、訝しむように視線を逸らし、少し間をおいて驚愕の表情をした。
間抜けだが愛嬌のある表情を見て、黄色い声が彼のデスクを包む。午後の始業のチャイムが鳴る頃、ベインは自分から波のように引いていく人々の視線をうまく処理できず、始業数分間だけ硬直していた。
この男にとって、著しい環境の変化というのは、必ずしも喜ばしいことではない。彼は思い人に『源氏の物語』へ対する熱を認めてもらえた喜びによって破綻していく道を歩むことになった。それゆえ、職場の人々が彼に協力的になることが、一種のトラウマめいたものを想起させるのである。
ベインは気を取り直して仕事に戻るものの、頭の中に要らぬモヤモヤを抱いてしまったために、動きにぎこちなさが生まれてしまった。それに気づいた支店長が、ベインにあれこれと言付けをする。元より仕事の出来ない彼だ、あれこれ言われてすぐに動けるはずもない。
ところが、その日のベインは、支店長の思った以上に『臆面もない』男であった。
彼は隣席の職員の袖を軽く引っ張ると、「もしもし、ご多忙のところ失礼します・・・」と声を掛ける。一瞬険しい表情をした職員がベインの方を向くと、その風圧に煽られて、ほのかに薫る芳香に眉間の皺が伸びた。そして、ベインは腰を低くし、上目遣いに職員に問いかける。
「あの・・・これは、どのようにすればよいのですか?」
職員は作業を一旦止め、資料を一瞥する。新入社員に振られるような、ごく簡単な業務である。上目遣いをする男の顔を睥睨すると、資料に指差しをしながら、他人行儀に説明をし始めた。
近くに寄るたびに、心を狂わせる芳香が職員の鼻腔をくすぐる。蠱惑的な白い肌がブラインドから射し込む光に当てられて輝くばかりに艶やかに光を映し、同性だというのに心を乱される。説明を終えた時、ベインが短い礼と共に頭を下げ、控え目に姿を消すことが口惜しく思えた。
狂おしい衝動は成虫になって1日後の蜉蝣の如く、彼の目前から曖昧になって消えっていく。あの甘やかな薫りも過ぎ去り、その記憶も定かではない。寝起きのようなぼんやりとした恍惚に暫く浸っていた社員は、支店長の眼差しに気づくと即座に業務に戻っていく。
ベインはようやく作業を終えて支店長へと届けていくと、それを乱暴に奪い取られる。そして、苛立ちを隠そうともせず貧乏ゆすりをする支店長の前で、整った細い指を揃えて置物のように立った。支店長は受け取った資料を机の隅に放ると、「はい」と不貞腐れたように吐き捨てて、ベインを追い出した。
首だけで礼をして、とぼとぼと席に戻ったベインに、先ほどの社員が椅子ごと身を寄せて耳打ちをする。
「あの人贔屓するよな」
「はぁ、そのようなものですかね・・・」
ベインはどこか上の空で答える。しんと静まり返ったオフィスに声が漏れぬよう、二人は自分のデスクに椅子を寄せて、それぞれの必要な業務に戻った。
午後の長い5時間は、見知らぬ業務に追われたその日のベインにとっては却って短いと感じたのであった。




