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負犬物語 -スラム・ドッグス-  作者: 民間人。


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56/70

遊歩

 パピーの失踪から3日が経った。アンダーは日常生活を過ごそうにも、脳裏をよぎる不安を払拭することができずに懊悩する日々が続く。時間だけは無情に過ぎていき、目の前にアルバイトの時間が迫って来るし、教授からの連絡も時折かかってくる。その時々で、アンダーの心は終始上の空で、食事も喉を通らなかった。


 そんな時、アンダーのスマートフォンにベインから連絡が届いたのである。通知音に気づかずに4時間放置したその連絡によれば、ビッチの両親が気を使って、赤子と面会することができた、という連絡であった。短く丁寧なメッセージの後に、澄んだ目をした赤子の写真が続く。穢れ一つないその目に少し心が和んだアンダーだったが、すぐに現実的な不安に引き戻されて、表情が曇る。彼は、ベインに当たり障りのない反応と、自分の近況に関するメッセージを送り、スマートフォンをしまった。


 その直後、スマートフォンがプイプイと音を立てる。オコジョがその声に気づくと立ち上がり、湿った鼻をひくつかせながらちろちろと辺りを見回した。二匹がチィ、チィ、と合奏をする中、アンダーは画面を見る。ベインからの通話であった。すぐに通話ボタンを押す。


「お気持ちお察しいたします。申し訳ありません・・・私、あのような配慮のないご連絡を・・・」

「いや・・・」


 アンダーの声には張りが無い。ベインに当たる気にもなれず、彼はただ押し黙った。

 気まずい沈黙が流れる。


「アンダー様・・・すいません」

「なんだよ」

「いえ、その・・・。私のせいで辛い目に遭わせてしまったのではないか、と・・・」


 ベインは怯えながら言う。アンダーは怒りに唇を噛み締め、声を抑えて言った。


「やめろ」


 ベインからの返答はない。部屋がとても広く感じられた。オコジョたちが通知音の主を探して、アンダーのベッドの上をうろうろと回っている。アンダーは静かにオコジョを抱き上げ、ばたつく後ろ脚を膝の上に置いた。


「・・・すいません」

「俺は、まだ、あいつが生きているって信じてるから・・・。だから、もう言うな。謝らないでくれ・・・」

「すい・・・はい」


 ベインは静かに答える。アンダーはオコジョの前脚を構いながら、無理に微笑みを湛えて語り掛けた。

「赤ちゃん、かわいいな」

「健やかに、育って下さればと思います」

「本当に。じゃあな」

「すいません。失礼いたします」


 アンダーは通話を切る。しばらく暗くなった画面を見つめ、その上に雫をこぼした。しかし、袖口で涙を拭き、じっと机の上を見つめる。机の上に放り出されたペンを手に取り、書きかけのノートを開いた。



 -自分が何を目指してきたのか、分からなくなる時がある。最近は、特にそうだ。-


 幼い頃から人と比べて内気だったアンダーは、友人との関係を維持することも難しかった。一等他人に気を使っていたが、却ってそれが他人に語り掛けることを敬遠させる原因になった。

 持病も様々にあった。幼少期のてんかんにはじまり、少し成長してきたころに、別の疾患があることも分かった。それが何か自分の人生に暗い影を落としているとも感じたし、それを隠しながら生きることの難しさも、それと共に生きることの難しさも感じた。


 ただ、そうした自分を守ってくれていた者があったのも事実である。それが、医療であり、医療制度であった。

 こと福祉という法律は、不平等性が伴うものである。しかし、アンダーは、元をたどって行けば守られる側であったのだから、法律が自分以外も守ってくれると信じていた。


 ただ、最近はその手から零れ落ちる人々の姿をひどく目にするようになった。


 昼下がり、雲の切れ間から射し込む天使の梯子が、高層ビルの間に降りている。机に広げた資料を落ち着かない様子で構っていたアンダーは、窓から射す久しぶりの明かりを見て、大きく背伸びをした。背中が解れてぽきぽきと音がする。それと同時に、張り詰めた空気が、異様な緊張感と襲い掛かる自責の念が、取り留めのない現実の中で少しずつ解れていく。何度目かの瞬きの後、彼は自分の腹を摩った。


 腹の虫が、長く低く声を上げる。

「・・・飯か」


 そう呟いたのは、実に一週間ぶりのことだった。彼はのそのそと立ち上がり、冷蔵庫の中を覗く。消費期限切れで、半分使ったカットキャベツが、どろりと液状に変わっている。袋ごと持ち上げた瞬間にふわりと広がるヘドロのような異臭に、思わず顔を顰める。彼はそれを素早く生ゴミの袋に放り込み、すかさず蓋をする。そして、右肩に鞄をかけて、メガロータスへ向かった。


 澄み渡った快晴と言うには、あまりにも分厚い曇り空の下、所々から漏れる光を頼りに、彼はとぼとぼと歩く。水溜りの中に映ったスニーカーが、逆さまに映る。その上に波紋が静かに広がった。彼は履きなれた靴で水面を揺らしたかと思うと、それをすぐに持ち上げて次の水溜りへ向かって歩みを進めた。


 メガロータスの総合案内を素通りし、食品スーパーのエリアに向かう。もやしゾーンに直行し、上から一つをかごへ入れる。カットキャベツを新たにかごに放り込み、総菜コーナーの唐揚げ1パックを放り込む。そうしてレジへ並び、会計を済ませると、総合案内の前を通って帰路へ着いた。


 家に帰り、もやしとキャベツで炒め物を作る。一人分の皿を用意し、冷凍した米を解凍して、食卓に胡坐をかく。テレビのリモコンを手に取り、悲しいニュースを無表情で眺めながら、食事を続ける。


「パピー・・・」


 行方不明の子供のニュースが流れた時、思わずそう呟くと、彼はスマートフォンを手に取った。

 通知はない。


 スマートフォンを机に戻す。食事を掻き込み、洗い物を済ませると、再び布団の上に腰かける。脇息代わりの鞄に肘をつき、問題集を開いた。


 不意に時計を見上げ、「やべっ・・・」と独り言を呟くと、彼はスマートフォンで教授に確認の返信を返し、再び日課に戻った。


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