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負犬物語 -スラム・ドッグス-  作者: 民間人。


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負犬

 夜八時、アンダーが日課を続けている時に、その電話はかかってきた。施設からの電話であり、嫌な予感が頭を過る。アンダーは通話ボタンを押し、画面に耳を押し当てた。


「ああ、アンダーさん!すいません!パピーくんが、施設から抜け出したようで・・・!」

「・・・え?」


 職員の声はひどく憔悴しているようだった。受話器越しに聞こえる声声も慌ただしく、ただならぬ雰囲気が伝わってくる。


「アンダーさんのところには戻っておられませんか・・・!」

「いえ・・・いえ!いったい、どうしたのですか!」

「それが、施設の敷地内でお世話をしている間に、抜け出してしまったようで・・・申し訳ありません、一体何と謝罪して良いか!」


「いえ、そんなことより、心当たりはないのですか・・・!」


 アンダーにないのだから、預かったばかりの相手にわかるはずもない。ただ、職員は色々と考えあぐねた末、何か思いついたように答えた。


「あの・・・!少し前に、黒い高級車を、ずっと見ていました。車に興味があるのかと尋ねると、そっぽを向いて施設に戻ってしまいましたが・・・」


 その一言でアンダーは最悪の事態を思い出した。そして、職員に向かって、つい語気を強めて答える。


「まさか、臓器を・・・!警察に連絡は!?」

「・・・!えぇ、気づいてすぐにしました!」


 職員が何人かに声を掛ける。受話器の向こう側がさらに慌ただしくなったものの、アンダーの心には、その音はほとんど届かなかった。


『まさか、また、そんなことになったら。あいつは死ぬ・・・。』


 アンダーは祈るように手を合わせて、縋るような思いで「神よ・・・」と呟いた。受話器の向こう側にある声が再び近づいてくると、事務員はアンダーが我に返るまで、何度も呼び掛けた。


「今、警察から連絡が来ました。事件性の強いものとして捜索が進むようです。臓器売買の件も疑って、以前の取引場所に急行しているということです」

「分かりました。俺もできる限り協力するとお伝えください」

「すいません、アンダーさん。ありがとうございます」


 通話はそこで一度途切れ、アンダーは再び祈るように手を合わせた。その上に額を合わせ、「パピー・・・なんで・・・」と一人呟く。


 夜の闇は既に完全に極まっている。月はまだ昇りかけだったが、今からではすでに手遅れなのではないか、という思いが募る。


 何より、彼の心には、パピーの強い使命感へ対する懸念があった。口こそ悪いが、パピーが強い恩義を自分に感じてくれているのは、前回の一件で明らかである。であれば、何かの拍子に自分が例の組織の標的になっており、それから自分を守ろうとしたのではないか、それで事件に巻き込まれたのではないか、と強烈な罪悪感がとめどなく湧きだしてくるのである。


 何より、ベインの一件で、そうしたことが無いではないという心当たりさえある。アンダーの脳裏を最悪の事態が堂々巡りし、心が晴れる余地はない。薬の副作用もぶり返してきて、ひどい吐き気も襲ってくる。アンダーは目の前の作業にも集中できず、また、眠気も全く覚めてしまい、沸々と湧き出す衝動を抑えかねて立ち上がった。うろうろと彼の周りを往来するオコジョが驚き、爪先をじっと見つめている。アンダーは鞄を取り上げ、姿勢を崩しながら駆けだし、部屋を飛び出していった。


 夕食の時間を終え、ネオンサインがますます街路の彩りを豊かにする、妖艶な夜の気配が満ちる街を、アンダーは手当たり次第に駆け抜けた。パピーの名を大声で叫ぶ。肩をぶつけられ、倒れそうになるのを立て直しながら、彼は必死にパピーの姿を探した。


「メガロータス・・・!」


 事件に巻き込まれていなければ、という一縷の望みを求めて、彼は専門店街が閉店を始めるメガロータスへと駆け込んだ。

 まず入り口付近で立ち止まり、周囲を見渡す。目に付いた総合案内に飛び掛かるように駆け寄り、引き気味のスタッフに問い詰めた。


「すいません、これくらいの身長の・・・11歳くらいの男の子、迷子センターにいませんかっ!?あ、パピーっていう!」

「少々お待ちくださいませ」


 スタッフは内線をかけ、迷子センターへと問い合わせる。その間もアンダーはしきりに貧乏ゆすりをし、苛立ちに任せて表情を歪ませる。受話器を置き、正面を見たスタッフの回答を待たず、アンダーは前のめりになって問い質した。


「どうですか!?」

「申し訳ありません、迷子センターには届け出が無いようです」


 アンダーは吐き捨てるように礼を言い、すぐに店内を回り始めた。一度でも二人で通ったことがある店舗を手当たり次第に探し回り、最後にはフードコートに辿り着いた。フードコートには数名の高校生や、サークル終わりの大学生がいる。カードゲームをしばきながらコーラを飲む大学生を横切り、隅々まで席を確認したが、パピーの姿はなかった。彼は力なく壁にもたれ掛かる。

 デリバリーサービスがハンバーガーショップの前で持ち帰り用の商品を受け取る姿を視界の隅に収めながら、呼吸が整うのを待つ。行き場のない不安感で満たされた心が、ますます焦燥を煽った。1分ほどして呼吸が落ち着くと、彼は外を探そうと身を起こした。

 汗が染み付いたシャツが、背中に纏わりつく。店舗特有の過剰な冷房のせいで背中に張り付くそれは氷のように身を冷やし、彼は思わず身震いしながら歩き出した。


 その後、アンダーが考えられる限り町を探し回った。ロータス・シティの大通り、駅前広場へ続く歩道、漫画喫茶マンフグのある少し車幅の狭い道、パピーと出会った路地裏や、パピーが攫われそうになった風俗街の道まで、行動範囲内にありそうな道を手当たり次第に回る。しかし、ついに彼の姿を見つけることは出来なかった。

 何度目かのロータス・タワーへの到達の際、殆ど祈るような気持ちでスマートフォンを開く。しかし、何らの連絡もなく、彼はスマートフォンを乱暴にポケットにしまった。


 足も腿もパンパンになり、ひどい筋肉痛により鈍くなる足を引き摺りながら、家路につく。路地裏で壁に擦ってほつれた衣服の裾を庇う。視界が酷く悪い中で、潤む眼球を擦り、「くそっ・・・」と一人呟いた。


 自宅に入るなり、玄関の段差に足を取られたようにそのまま床に倒れ込み、酸素を求める肺をフローリングに押し付けた。頬を伝う涙が床を濡らし、煌めく水溜りに映った自分の顔がひどく歪んでいることが見ていられずに、静かに目線を逸らした。


 彼には世界がひどく歪んでいる、と感じた。因果とはこれほど残酷なものだろうか。どれほど思い悩んだところで、現実が変わることは絶対にない。

 彼には、現実を変えるだけの力はなかった。


 そのままの姿勢で何度か分針が動く音を聞き、ポケットの中に入れたスマートフォンが鳴り響く。ポケットの中から鈍重にスマートフォンを取り出し、通話ボタンを押した。


「はい」

「もしもし、アンダーさん。ロータス・シティ警察の者です」

「はい・・・」


 声音から伝わる悲痛ぶりに、受話器越しの警察官はなるべく丁寧な声音で語り掛けた。


「パピー君の捜索の件について、ご確認したいことがございます。いま、お時間はよろしいでしょうか」

「はい」

「まず、本日の午後8時ごろ、何をしていらっしゃいましたか」

「家で勉強をしていました。一人暮らしなので、証明できる方はいませんが・・・」

「なるほど。では、パピー君とのご関係は」

「以前路地裏にいたところを保護して、その後施設に預かってもらいました。以前、大きなトラブルがありまして」

「大きなトラブル、と言いますと?」


 警察の声音が少し厳しくなる。アンダーは構わず、極めて「生真面目に」答えた。


「はい・・・。誘拐されて、臓器売買に巻き込まれてしまったのです。通報し、保護された時には手遅れで・・・。それで、俺では保護することが難しいと思い、施設に・・・という感じです」

「なるほど」


 警察官は一旦間を置き、何かを調べている。その後、「少々お待ちください」と声を掛けた。

 アンダーの耳元で、慌ただしく誰かを呼ぶ声が聞こえてくる。アンダーはほとんど投げ槍に、その声を聞くともなしに聞いていると、徐々に会話の声が近づいてくる。


「お待たせいたしました。確認が取れましたので、また、後程連絡させていただきます」

「パピーのことはよろしくお願いします。あいつは、これ以上、不幸になるべきじゃないんです・・・」


 警察官は、アンダーの祈るような声音だけでも何かを察したらしく、「とにかく、気を確かにもって」と一言を残して通話を切った。アンダーはスマートフォンを持つ手を力なく床の上に下ろすと、うつ伏せになって奇声を上げた。

 その声はただ室内にこもって響くばかりで、誰が彼を慰めてくれるわけでもなかった。


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