総角(あげまき)
いうまでもない事だが、一度裏社会に手を出してしまえば、そこから逃れることほとんど不可能と言っていいほど困難になる。ベインはもとより、そのことに深く懊悩し逡巡してきたのであるが、その時の足取りは一等軽やかだった。
駆け抜けるとあたりにふわりと薫る紅梅の薫りが、道行く人を振り返らせる。ベインはその視線も気にせずに、いや、気に留める必要がないというその事実自体に、言いようのない達成感を抱いた。
風俗街のネオンサインを抜け、ロータス・タワー前の大ロータリーへ至る。人混みでごった返す中に紛れたベインを見つけるのは、最早至難の業だろう。蜉蝣か、あるいは幻のように人の中に紛れたベインは、大ロータリーを南東へ渡り、大病院を目指す。その足取りに確かな覚悟を持って。
病棟は当然灯りが消されていた。緊急搬送の入り口だけが、オレンジ色のライトで照らされている。ベインは息を切らし、明かりの灯る病室の前で呼吸を整えると、入り口の前にあるインターフォンを鳴らした。
「はい」
女性の声であった。
「ベインというものです。『親族』が危篤と聞き、駆けつけたのですが」
「ご親族のお名前をどうぞ。・・・はい。少々お待ちいただけますか?」
一連のやり取りを終え、入り口に白いライトが灯されたかと思うと、中年の看護師が自動扉のドアを開けた。その扉を手動で開いた看護師は、ベインに詳細に説明を施しつつ、病室への行き方を確認する。落ち着きなく身を揺さぶる男の、はっと息を呑むような心地よい体臭に思わず顔を持ち上げた看護師は、その顔立ちの端正さにも驚く。
しかし、彼は彼女の説明を聞き終えると、一目散に病室へと向かって消えていった。看護師は呆気にとられて背中を見送る。そして、扉の施錠を施した後、この素晴らしい土産話を同僚たちに話したのである。言葉では形容のしがたい、美しい容顔のことを、うまく伝えることは出来なかったが。
ちょうどその頃、先に到着していたアンダーが、ビッチの枕元で彼女へ呼びかけをしている。目は落ちくぼみ、乾燥して荒れた唇には、以前のような生気はない。ただ、呼吸はゆっくりと穏やかで、その心持ちは落ち着いている様子だった。
細くしなやかだった腕は枯れ枝のように骨がむき出しになり、あちこちに斑模様のような斑点がある。襟から覗く鎖骨のあたりには、一目見て鳥肌が立つような多くの湿疹で覆われ、最早取り返しがつかないということを滔々と伝えている。
呼びかけに応じて目は僅かに動くが、腕は胸の上に乗ったままで動かず、足はベッドへ向かって真っすぐに伸びている。
形容すれば、死に際の老人と全く違いないものである。息災の頃を知っていれば、まともに直視することも憚られる有り様であった。
「大丈夫だからな。俺がいるからな・・・」
アンダーは優しく呼びかける。その声に、僅かに瞳が動いた。
『ウチは最期まで、深く愛されることのない人間だった』
言葉を発することは出来ないまでも、呼吸の音、口の僅かな動きだけで、アンダーに語り掛ける。彼は「大丈夫だ、大丈夫」と優しく宥めるばかりで、言葉はこれっぽっちも伝わっていない様子であった。
『ただ、改めて、最期に見る顔が、どうしようもなく馬鹿なあんたでよかったよ』
何を感じ取ったのか、アンダーはそっと口を結び、彼女の細く皺の寄った手に触れる。
「最期に見るのは、俺の顔じゃないんだよ・・・」
そう彼がこぼすと、俄かに病室の扉が開く。息を切らし、涙を堪えたベインが、そこに立っていた。
彼女の瞳孔が開く。どうして、かつての客がそこにいるのか。一匙も愛を与えていない人が、搾りかすの麩のような男がいるのか。困惑と非難の混じった瞳が、アンダーの胸を射抜く。アンダーは静かに瞼を下ろし、彼女に語り掛けた。
「お前がどうしても手に入れたかったものは、本当は疎ましいものだったのかもな・・・」
アンダーは手を離し、そっと席を譲る。動揺した様子で瞳を揺らすベインがゆっくりと彼女の元に近づき、その手を優しく握ると、潤んだ瞳から遂に涙がこぼれた。
「加持祈祷もしました。御仏に御念仏も。教会で神にも奇跡を願いました。陰陽師に穢を払って頂くことも・・・。きっと、治ります。きっと・・・」
『どこまでもつくづく馬鹿・・・』
ごく冷静な嘲笑であった。朦朧とする意識でも、とても効果がない事が分かる、措置の数々・・・。ただ、虚しく大枚をはたいただけの憐れな男が、自らの枝のような手を取り、額をついて祈る。その袖はしとどに濡れていた。
「ああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ・・・!どうして快復して下さらないのか。自らお拒み遊ばすのか・・・」
目の前の男への愛着も愛情も、遂に湧きそうになかった。ただの金づるで、重くて気持ちの悪い男で、今は用済みの男に思えた。
ただ、ただ、一つ。自分が稼いだ金が残っている。墓場にも地獄にも持ってはいけないが、それがあれば、後には何か残すこともできただろう。
それは、目の前の男からすっかり搾りつくした金だった。
『あんたと私とは、あくまで金の関係』
「どうか、神よ。御仏よ。彼女から穢や疫病を、すっかり取り除いて下さいませ・・・」
『そこには何の忖度もない。金の切れ目が縁の切れ目』
「お願いします、どうかお願いいたします。少しでも彼女に生きる猶予を、私と御話する猶予を・・・」
『でも・・・だから、いいよ』
『あんたの【北の方】でいてやるよ』
不思議と彼女の唇が大きく開き、微かではあったが詰まっていた言葉が喉を通った。
「『おくと見る ほどぞはかなき ともすれば 風にみだるる はぎのうは露※1 』」
「紫・・・!」
ベインが言葉を詰まらせる。乾燥し、わずかに持ち上がった口角を見て、みるみる涙で袖を濡らす彼は、唇を噛み、悲痛な表情で返した。
「『ややもせば 消えをあらそふ 露の世に おくれ先だつ ほど経ずもがな※2 』」
わずかばかりの風が、枯れかけの青葉を攫っていく。それと同時に、彼女の手が力なく布団の上へと滑り落ちる。
暦も立ち返れば秋の風が吹く頃、盂蘭盆会も盛りの8月14日午前3時26分、萩の上露は静かに零れ落ちた。
※1紫式部『源氏物語』「第40帖 御法」、紫上23
※2紫式部『源氏物語』「第40帖 御法」、源氏200




