決別
ヘルメット・ライフ・インシュアランスロータス・シティ支店の窓際で、資料を留める音が規則的に響く。いつものように空気のように息を潜めながら仕事をこなしていたベインだったが、その日は悲壮な顔立ちではなく、際立った美しい顔立ちを一層引き立てるような凛々しい顔立ちであった。
周囲の女性職員が一瞬目を留めるような、あるいははっと息を呑むような美しさを湛えながら、ひたすらステープラーを操る。その様子が面白くないのか、彼にあたりの強い上司は動きを止める女性職員を語気を強めて叱責した。
無論、ベインの心は仕事になど向かってはいなかった。彼の思考はより強大かつ凶悪な組織へ向かっていた。
『借金を返すかではなく、どうやって彼らから解放されるか』
残念ながら、世間に疎いアンダーの提案では救済されないことなど、ベインはとっくに理解していた。相手は法律の通用しない相手であり、もっと言えば命に係わるやり取りをしなければならない。生半可な覚悟では太刀打ちできないし、覚悟があったところで彼には太刀打ちできない。
だからこそ、彼の記憶のリソースから、すなわち世間的には全く役に立たない経験から、うまく相手を煙に巻く方法を考えていた。
そう考えると、この仕事は都合が良かったのかもしれない。他のことを考えなくて良いし、手を動かしていれば多少は気も紛れる。ベインは自分に与えられた仕事を、この日ほど嬉しく思ったことはない。
リズミカルに資料を留める。ただ、それだけ。その間に、具体的な交渉内容、失敗した時の逃走経路などを繰り返し吟味する。留めた資料を左に置き、右から次の紙を手に取るまでに、別のより安全な経路はないかと思考を巡らせる。監視カメラの位置、明かりの有無、周囲の歩行者の数・・・。大通りに出れば、自分を隠すこともできる。その後は?見つからないで行方をくらませるならば組織の手が伸びていない遠方が好ましい。情報網の外、国外は難しい?様々な前提と経路が彼の脳内を行ったり来たりする。
全ての思考経路を通って、電気信号が出口まで辿り着くと、彼はすくりと顔を上げ、どこを見るともない目で前方に焦点を合わせた。
「『なく声の 聞こえぬ虫の 思ひだに 人の消つには きゆるものかは※ 』」
その時に、彼のスマートフォンがメッセージの受信を知らせた。
画面を見るなり、ベインが瞳孔を見開く。しかし、すぐに画面から目を離したかと思うと、「疾く、疾く・・・」と一人のたまって定時で退社をした。
ネオンサインに照らされた風俗街の向かい側、月の明かりも照らされぬ常闇の路地裏にある、組織のアジトを前に、ベインは一人立ち止まった。足元を通る肥え太った鼠すらほの薫る紅梅の香に足を止め、鼻を頭上へと持ち上げて立ち上がる。良く磨かれた、古い革靴が鼠を跨ぐと、鼠は急ぎその影を潜り、蜉蝣のように闇に蕩けて消えていった。
手入れされた革靴の靴音を聞いてか、はたまた玄関先に掲げた監視カメラの映像を認めてか、彼がノックをするより早く、アオスジが戸を開ける。いつものように上納される金子を回収しようと差し出した手のひらに、ベインは一歩後ずさり、しかし、視線を下ろさぬようにしかと鬼の容顔を見つめた。
拳に汗を握る。違和感に気づいたアオスジの手が胸倉へと向かってくる。ベインは自分を捕らえようとした手の上に、ステープラーが稼いだ金子の全てを置いた。すんでのところでアオスジの手が止まり、半分瞑ったベインの目が大きな手のひらを辛うじて捉えた。
「なんだよ、早く出しやがれよ・・・」
アオスジが上納金を懐に収めると、ベインは彼を横切って、アジトの中へと入る。アオスジが慌てて襟首を掴むのも構わず、彼はずんずんと前へ進んだ。
しかし、力において勝るところのないベインでは、アオスジが軽く襟首を引っ張れば、簡単に引き戻されてしまう。呆気なく彼に引き戻されたベインが、その秀麗な眉目でアオスジをきっと睨み上げると、不思議な凄みを含み、アオスジを怯ませた。
高貴というべきか、典雅というべきか。立ち振る舞いの優美さにおいては劣らないベインは、見事な所作でアオスジを退けて、ヘッドの元へと向かう。
彼が書斎の扉をノックした時、ヘッドは古い雷管式の銃を丁寧に手入れしているところだった。麗しい飾り銃を愛でるヘッドが、余裕綽々とした口調で、「通れ」と答える。扉を開けた男がベインだと見るや否や、ヘッドは目を丸くして、口元をいびつに持ち上げた。
「へぇ、珍しいことだ。それで?用件は?」
ベインは姿勢を正し、アオスジよりも着やせして見えるヘッドに頭を下げた。
「足を、洗いたく存じます」
恐ろしい瘴気めいた気迫が、ヘッドの見開いた瞳から放たれる。ベインは顔を持ち上げることもできず、自然と全身に鳥肌が立ち、身震いする。ヘッドはゆったりとした所作で丁寧に古い銃を置くと、腰に帯びた「実弾の籠った」拳銃の安全装置を外した。
「ベインさん、そんな寂しいこと言わないでくれよ。鉛玉よりも言霊が先だってのは面食らっちまったけど。お前さんが責任を果たせなきゃ泣くのは俺らじゃあないんですよ」
一言一句に重苦しい瘴気のようなものがこもっている。誰をも逃さぬ不気味な威圧感に気圧されて、ベインは言葉も発せられずにただ唇を震わせた。
舌が滑るという感覚。「言葉」が放たれることを拒んでいる。ヘッドは白い手袋を口で外し、そのまま机の上に落とす。その音が、いっそう大きくベインの耳に届いた。
「こっちへ来て、その手袋で俺の頬を叩いてごらんなさいよ。脳天に鉛玉を貰えるかわりに、少しは頭もすっきりすると思いますよ」
ベインは身震いして動くことができなかった。秒針の音が心臓の音を周回遅れで追いかけていく。刹那よりも短い鼓動を抑え込み、ベインはゆっくりと、自ら銃口の前へ近づいていった。
間近に感じられる狂おしいほどの瘴気。列をなす銃のコレクション。突き付けられる鈍色の銃身。ベインは唾をのみ、思い切り目を瞑る。そして、恐る恐る手袋に触れると、それをヘッドの手にそっと掛けた。
「まことのことを言えば、許されざることとは存じております。それでも、どうしても足を洗わぬというわけにはまいらないのです。わずかばかりの責任も果たせず、このような形であなたから逃れようというのは、あまりにも・・・。あまりにも虫のいいお話でございます。それでも・・・」
ベインはヘッドの手首に乗せた手袋を素早く持ち上げてヘッドの右頬に打ち付けた。
「男には・・・!逃れ得ぬ因果というものがあるのです!」
体中を迸る血流が、全て足元へ流れていく。兎よりも疾く、鼠よりもすばしこく、ゴキブリよりも俊敏に、ベインは「一目散に」ヘッドの部屋から逃げていった。後から追ってきていたアオスジがすかさずベインを捻り潰そうと扉の前に立ちはだかる。
その刹那、馥郁と薫る紅梅の香が俄かに強く彼の鼻を掠め、アオスジの股の間を素早くベインが滑り抜けていく。振り返り、手を伸ばしてすぐに襟首をつかんだアオスジだったが、背後に凄まじい殺気を感じて思わずその手を離してしまう。
そして、逃げていくベインを戸惑いながら追う彼の背中に向かって、ヘッドは覇気のある声で「もういい」と声を掛けた。
振り返るアオスジが、悲痛な声を上げる。
「ですが、ヘッド!」
「代わりを手配するだけだ」
ヘッドは含みのある微笑で答える。戸惑うアオスジを顎で指図すると、同時にメールの受信音がアオスジのポケットから響いた。戸惑いながら徐に携帯を取り出し、メールを確かめるアオスジが目にしたのは、病院へ向かうアンダーの横顔であった。彼はヘッドの顔を窺う。ヘッドはそれに答えてゆっくりと頷き、「お前で落とし前をつけるように」と答えた。アオスジは行き場のない怒りを足元に向けながら、どかどかと足音を鳴らして部屋を後にした。
※紫式部『源氏物語』「第25帖 蛍」、蛍宮4




