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負犬物語 -スラム・ドッグス-  作者: 民間人。


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秋風 

 静寂の中で目を覚ます経験は、彼女にとっては新鮮だった。

 深夜の柔らかいベッドの上は、ソファよりも居心地が良く、それでいて何か物足りないと感じる。体を起こそうとすると、胸や、内臓が軋むように痛む。腰は鉛のように重く、感じたことのない『重み』に堪えかねてベッドに身を委ねた。


 首が凝り固まっており、うまく動かすことができない。顔を掻きたいと思っても、細い手を持ち上げるのも難しい。なにより、考えたり、先のことを思うことがない。


「何にも考えないなんて、久しぶりかも」


 そう呟いても、返ってくる言葉もない。激しい頭痛が突然襲いかかってくると、ただ埋めた枕に乱れた髪を擦り付けた。

 隣室のナースコールへ対応する看護師の足音が通り過ぎていく。その歩数をただ数え、自分の頭上にある茶色いボタンを見上げた。


 やることがない。ちょっと悪戯をしてみたい。

 苦労して頭上へと運んだ手でボタンを握り、摩ってみる。

 そこまで弄ってみて、彼女は普段ならしないような不合理な思考に気が付いて苦笑した。わざわざ運んでいった手を布団の中に戻す。五感が心地よい綿の感覚を伝えてくる。


「ウチの金、何に使おっかなぁ・・・」


 そう一人こぼしてみても、答えてくれる人はいない。そうして夜が更け、そして夜が明け、昼過ぎになる。病室をノックする音がして、彼女は看護師がおむつを替えに来たのかと思って視線を動かす。しかし、そこに立っていたのは散々弄り倒した友人の姿だった。


 枝毛を枕に埋めつつ、悪戯っぽく笑う。アンダーは難しそうに口を結んだ。


「病室で悠々自適してんだよ。邪魔すんなよ」


 男らしさの微塵も感じられない手が持ち上がり、提げているビニール袋を彼女に見せる。


「備品買ってきた」


 そのまま無遠慮に丸椅子に座り、小さな机の上にビニール袋を置く。逞しさはないが、チェック柄のワイシャツからちらりと覗く鎖骨が、その時だけは不思議と頼りがいがあった。

 彼女は口の端で笑い、意地悪そうに目を細めた。


「ありがと。遺産は渡さないけどね」

「普通に法定相続させろ」


 流れるように返答したアンダーの声はどこか冷たかった。普段の彼女ならば一言言い返してやろうとも思うだろうところだが、今は単に胸につんとした痛みが走った。


「あんまり探りを入れるのは悪いけど、赤ん坊の引き取り先のためにお父さんに連絡入れたからな」

「ん。どうだった?」


「どうだったって・・・。引き取ってくれるから安心しろよ。ゆっくり休んで、奇跡が起こることだけ考えてろ」


 アンダーは答えながら、お見舞いの林檎を剥く。なれた手つきとはとても言えず、分厚く実をつけたままの皮をごみ箱の中に落としていく。不思議と心が安らぐ仕草を眺めながら、彼女はぽつりと呟いた。


「ウチ、こんな仕事してんのに同年代の友達もいないじゃんか。家族にも顔合わせできないし。なんか・・・最期に見る顔があんたでちょっと安心した」

「なんだそれ・・・。そんなに深いかかわりでもないだろ」

「そんなに深いかかわりでもないのに、ウチの世話焼いてくれんのはあんただけなんだよ」


 彼女は普段通りの口調でそう話す。アンダーは歪な形をした「白い」リンゴと果物ナイフをもったまま、手を膝に置いた。少し目を閉じ、小さく開いた口から細く長い息をこぼす。肺が苦しくなると、ゆっくりと目を開き、彼女のやつれた顔を見た。


「少し関わったくらいでも、後味悪い別れはもう嫌なんだよ」

「くふ、バカ・・・」


 アンダーはリンゴを8等分に切り、一切れを彼女の口元へ運ぶ。

 乾いた唇がゆっくりと開き、りんごを削るように食べた。長い咀嚼の後、彼女が苦しそうに飲み込む姿を、アンダーは彼女よりずっと悲壮な表情で見ていた。

 彼女は冗談を言う時と同じ顔で笑う。アンダーは、ぎこちなく口角を持ち上げてみせた。


「面会時間は15分だから、そろそろいくな。りんご、良かったら食えよ」

「そんなに食べれるわけないじゃん」

「食べれるぐらい元気になれよ」

「なにそれ。ウケる」


 アンダーは名残惜しそうに何度も振り返り、彼女が自分の背中を見送っているのを確かめる。面会時間終了から5分経って、病室の扉が完全に閉まったのだった。


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