上露(うわつゆ)
目覚まし時計に叩き起こされたアンダーは、先日の夜間に幾つかの連絡が届いたことを確認する。寝ぼけ眼でスマートフォンを開き、はじめにパピーの様子を伝えるメールを確認した。無事に退院と保護施設への保護を終えたこと、今後の面会が必要な場合の連絡先と住所などが書かれている。
次に、ベインからの連絡である。時候の挨拶から始まる丁寧極まりない文章で、以下のように記されていた。
『拝啓 アンダー様
残炎の候、アンダー様におかれましてはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
厳しい暑さではございますが、あれから勉学の方は進んでおりますでしょうか。将来有望な若者であらせられるアンダー様のお姿が、私にはとても眩しく思います。
さて、先日の借金救済制度に関するご教示の件、いろいろと思い悩んだ末ではございますが、やはり私自身が落とし前をつける選択肢の一つとして、前向きに検討をさせて頂こうと考えております。まずは組織との関係を断つこと、また許されるならば、罪を償う機会を得ることを一つの目標に、邁進してまいります。
最後になりましたが、アンダー様のご厚意、感謝に堪えません。まことに有難うございました。どうかお体にお気をつけてお過ごしくださいませ。まずは取り敢えずお礼まで。
敬具』
アンダーは思わず涙ぐみながら、『頑張ってください』と、ごく短い返事を返す。
しばらく、自分が学んできたことへ対する手応えを噛み締める。その後大きく伸びをすると、彼は定位置へと戻り、鞄に肘をかけ、ノートを開き、ペンを取った。
昼過ぎまでの時間を勉学のルーティーンに使い、午後からはアルバイトに向かう。その途中、再び部屋から現れたビッチと遭遇すると、アンダーは手を挙げて声を掛けた。
声に対して反応が薄かったため、アンダーは少し距離を詰める。すると、彼女は自室らしい部屋の扉に寄りかかって、荒い呼吸をこぼしていた。
アンダーは咄嗟に駆け寄って大きな声を掛ける。ようやく顔を持ち上げた彼女は、唇から肌の辺りまで湿疹ができており、額には脂汗が滲んでいた。すぐに鞄を漁り、スマートフォンを取り出す。救急車両を手配し、彼女の汗をハンカチで拭う。普段にも増して白い肌が、病状の悪さを克明に描いている。
「なぁ、大丈夫か。横になるか・・・?」
「見んな・・・バカ・・・」
彼女は乾いた唇を少し開き、力無く頷いた。アンダーは彼女の体を寄りかかった壁から少し位置をずらし、回復体位に導く。ガラスの上に浮いたような瞳孔がわずかにアンダーの方へ動いた。
「一体何があった・・・?いや、答えなくていい。楽にしていてくれ・・・」
彼女の唇が動いたが、アンダーにはそれをよく聞き取ることができなかった。
続いてアルバイト先に連絡を入れる。「知人が救急搬送されて、立ち合いのために遅れます」と手短に後輩に伝えると、相手は少し億劫そうに「わかりました。お大事に」と短く答える。携帯電話を切り、彼女の口元に耳を傾けた。
「子供がなかに・・・」
彼ははっと息をのみ、彼女の向こう側にある扉に目をやる。開けるには病人を少しずらさなければならない。数秒間逡巡した後、彼は病人に声を掛けて少し体をずらし、扉を開けた。
自分の部屋とは比べるべくもない広い通路に、幾つかの部屋へ続く扉がある。一目で風呂場とトイレだと分かる扉は無視して、大きな引き戸を開けた。
彼女の仕事道具である配色のうるさい衣装と化粧道具、同じ種類のバッグやアクセサリが並んだ小部屋であった。向かいの扉を開く。目の前に広がっているのは、よく手入れされたキッチンで、多機能の電子レンジが冷蔵庫の上に配置されている。
広いキッチンに地続きのリビングルームに、ベビーベッドが置かれていることに気が付くと、彼はよく眠っている赤子を慣れない手つきで抱き上げ、すぐに玄関口へと向かった。
ひどく骨ばった腕に抱かれた赤ん坊が口をもぞもぞと動かしたかと思うと、大声で泣き始める。アンダーは歩速を速めて「ごめんな、ごめんな」と優しく声を掛けた。
部屋から出ると、通行人が数人彼女の近くに集まっている。赤子を抱いたアンダーを見ると、中年の通行人はみるみる血相を変えて怒鳴った。
「おま・・・誰だこいつ!」
アンダーは咄嗟に状況を把握して、負けじと大きめの声で答えた。
「彼女の友人です!すいません、えっと…親戚の子らしくて、中にいるって聞いたので、抱いて出てきました・・・」
「彼氏じゃないだろうな!」
「俺みたいなチー牛をこいつが気に入ると思いますか?」
そこまで言い切って、はじめて納得した中年は、すたすたと歩き去ってしまう。アンダーが呼び止めようとすると、大声に驚いた赤子が足をばたつかせて泣き始めてしまった。
「何だよアイツ・・・」
そう吐き捨てたアンダーに、彼女は「上客」と短く答える。すこし具合が治ったのか、体勢を起こそうとした。アンダーは赤子の小さな手に拒否されながらも、彼女のすぐそばに近寄る。
「にしてももうちょっとあるだろ」
「こういう仕事はね、こういう綻びで人生終わるんだよ。ウチもね・・・」
アンダーは体に優しく手を乗せ、「寝てろ」と声を掛ける。彼女も大人しく姿勢を倒した。
膝に乗せた赤子の足が漕ぐように上下に動く。アンダーは見様見真似で赤子を揺らしてあやしてみる。すると、ますます赤ん坊は激しく泣き喚いた
「・・・へたくそ」
「勘弁してくれ、初めてなんだよ」
アンダーが唇を尖らせて答えると、彼女の乾いた唇が弧を描く。無論、アンダーは赤子をあやすのに必死で、気づく様子もない。
しばらくして、救急車が到着すると、彼女は簡単な問診と触診を受けて救急車両に運ばれていく。
「彼氏さんですか?」
「まぁ、知合いです。連絡者です」
救急隊員は書類に書き込みをしつつ、車両に搬入されていくベッドをペンで指し示す。
「有難うございます。お手数ですが、病院まで付添いお願いできますか?」
「わかりました。同行いたします」
アンダーは、彼女の鞄から鍵を探し出し、扉の錠を閉めると、救急車両に乗り込んだ。
同行者としてビッチの隣に座ると、彼女はわずかに顔を彼の方へ傾けて苦しそうに微笑む。
「なに不安そうな顔してんの。大した関係でもないでしょ」
「そうだけど・・・そういう訳にもいかないだろ」
ビッチは苦しそうに声を殺して笑う。救急隊員が素早く彼女に措置をする様子を、いたたまれない気持ちで見届けた彼は、病院に到着するころには病人らしい様子で眠る彼女に、特別な同情を抱いてしまっていた。
運び込まれた院内の、消毒液のにおい、綺麗な白い天井と壁、見覚えのある絵画などを通り過ぎて、緊急病棟の前にある待合室に座る。脳裏をよぎるのは、発見されて検査を受けるパピーの姿。続けて非難を浴びせてくる中年男性の姿がフラッシュバックした。
彼は祈るように手を合わせ、額をそこに預ける。落ち着きなく貧乏ゆすりをし、しきりに時計を見る。アルバイトの時間には間に合いそうにない。
大切だと思ってパピーを送り出した。彼女を愛するが故に彼女に散々に拒まれたベインはどうだったろうか。あるいは、愛されてもいないのに執着を晒した中年男性と、そこに経済的に『依存する』彼女の関係はどうだったろうか。法律が解決してくれない問題は、どうしてこれほど多いのだろうか。
アンダーはそっと頭を持ち上げる。時計の針は本来の退勤時間を示している。思わず歯軋りをした。
緊急病棟から医師がやってくるのを見るや否や、彼は殆ど反射的に立ち上がる。薄緑色のマスクを外した眼鏡の医師は、単刀直入に尋ねた。
「彼女と性交渉したことは?」
「ありません。彼女がそうした仕事に従事しているとは聞いています」
「そうですか。なるほど・・・」
医師は検査結果などをまとめたクリアファイルを構いながら続けた。
「準備が整いましたらまたお声がけします。少々お待ちいただけますか」
「はい。あの・・・電話とか・・・」
医師は「どうぞ」と淡々と答え、再び措置室へと入っていく。アンダーは苛立ちながらスマートフォンを探し出すと、アルバイト先に連絡を入れる。疲れた声の店長が応対に入ると、彼は開口一番に謝罪をした。
「すいません・・・」
「いやぁ、急病は仕方ないね。お友達は無事?」
「まだ、なんとも・・・」
「あー、そっかぁ。明日のシフトは大丈夫そう?」
「・・・また連絡します」
「はい。よろしく」
アンダーは無意識に頭を下げながら、通話を切る。一つため息をこぼし、天井を見上げた。
そのまま一時間が過ぎた頃、看護師が病棟からアンダーを呼ぶ。アンダーは素早く立ち上がり、医師の待つ診察室へと向かった。
引き戸を開けた瞬間に五感が感じ取る『消毒』が強くなり、思わず顔を顰める。空のベッドの上には四角く固い枕がぽつんと置かれている。
「おかけください」
促されるままに丸椅子に座ると、タッチペンで画面を操作する若い医師が、「えー」と言葉をためて資料を画面に表示した。
「えっと、彼氏さんではないんですよね?」
「はい、友人?・・・友人です。はい」
医師は重ねて確認したうえで、少し答えづらそうに、しかしはっきりと伝えた。
「いくつかの性病と、合併症があります。アンダーさんが見た出来ものは、そのうちの初期症状の一つです」
「そうですか・・・」
驚きはなかったが、覚悟が追いつくわけではなかった。仕事柄、「そういうこともあるだろう」というのは、初心なアンダーであっても想像がつく。とは言え、彼の脳は様々な悪い予想をいくつも想像してしまっていた。
「あの・・・それで、彼女は・・・」
「見た目以上に深刻かもしれません。もう少し早く分かっていれば、手の施しようもあったのですが・・・。彼女はあなたに決断を委ねるそうです。入院されますか。それとも・・・」
気まずい沈黙。医師は単にアンダーの言葉を待っているにすぎないが、アンダーは激しく動揺していた。
「彼女の意思は・・・どうなのですか」
「死ぬまでが少し長くなるだけであれば、特別な措置は必要ないと」
アンダーは苦虫をかみつぶしたような表情で答えた。
「では・・・そのようにお願いします」
どうして決断をこちらに委ねたのだろうか。疑問は尽きないが、一人の成人の決断を覆せるほど、彼には力もその権利もなかった。医師はあっさりと応じ、必要書類を届けるまで待つようにと事務的に彼に伝えたが、彼はほとんど聞き流して待合室に戻った。
彼が待合室で書類を書いていると、彼女を乗せたベッドが病棟から出てくる。顔は変わらずはりのあるままだが、顔色はすこぶる悪い。青白く、唇も乾いており、恐らく熱もあるだろう。運び出された彼女に近寄ると、湿疹は薄いピンク色になっており、先ほどよりも大人しくなっていた。
「これじゃ仕事もできないね・・・」
「今はどうでもいい事だろ」
「そんなわけないでしょ。稼げなきゃ屑っしょ」
「そんなわけないだろ・・・」
彼女は力なく微笑み、病室へと運ばれていく。その様子を、アンダーは静かに見送った。




