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負犬物語 -スラム・ドッグス-  作者: 民間人。


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理想

 それから数日、いつも通りのアルバイトと大学図書館、寮との往復生活が続いたある日、のこと、アンダーの元に施設からの電話がかかってきた。

 いつものように大学図書館の学習スペースで資料を読み漁っていたところ、机の上にあったスマートフォンが机を震わして横移動をはじめた。彼は席を立ち、通話ボタンを押す。足元に置きっぱなしの鞄のチャックを閉める音が、最初に相手が聞いた音だっただろう。


「もしもし」

「もしもし、アンダーさん。お世話になっております。パピーくんの件でご相談がございまして・・・」

「はい」


 アンダーは普段より一段と低い声で応答する。不思議と声は小さくなり、通話口に自然と手を添える。早足で図書館を出るアンダーを、司書が不思議そうに見送っていく。


「先日お話させていただきましたところ、パピーくんはどうしても、アンダーさんとの生活を変えたくない、ということでした」


 アンダーは思わず胸を掴んだ。嬉しさと同時に絶望のような感情が心を曇らせる。淀みなく喜ぶことができたのであれば、どれほど幸せであったろうかと、我が身の上を呪った。


「分かりましたパピーを説得してみます」

「・・・わかりました。無理に引き離してしまえば、かえって心の傷を広げてしまうこともあります。どうか感情的にならず、きちんと話し合って下さいね。そのうえで、私共が関わるべきかどうかを、私達も含めて一緒に考えていきましょう」


 アンダーはしっかりと相槌を打ち、そして通話を終えた。しばらく黒くなった画面に映った顔を眺める。眉間にしわを寄せる自身の表情が、ひどく醜く映った。

 彼はスマートフォンを強く握りしめ、暗転した画面に額に合わせて呟く。

「パピー・・・」


 図書館の中へと戻り、開け広げた参考書を仕舞う。どこか苛立った様子で動きが乱暴になる彼の姿を、司書が目で追いかけている。


 重い鞄を肩に掛け、少しよろめきながら椅子をしまう。着慣れたチェック柄のシャツの襟を整え、一呼吸置いてから、病院へ向かって出発した。


 病院へとついてすぐ、受付に両手をついて声を掛ける。

「すいません、面会で来ました」


 必要事項を確認して、エレベーターホールへ向かう。エレベーターがおりてくる間、彼は荷物を掛け直し、顔を引き延ばしてマッサージをした。丸みを帯びた顔立ちにピコっと笑窪を作って、微笑んで見せる。エレベーターが到着すると、彼はその笑顔のまま絵画と対面する。額縁越しにどことなく呆れるような、訝しむような目線を受けて、彼はぎこちない所作でパピーの病室へと向かった。


「大丈夫かー?」


 不自然な陽気さで声を掛けると、パピーがじっとりとした目つきでアンダーの方を向く。元々細身の体格だったが、少し輪郭が丸みを帯びたように見えた。


「普通」

「なら良かった」


 アンダーはぎこちない笑顔を浮かべたまま、背凭れのない簡素な丸椅子に腰かける。病室の窓から見渡せる広い道路と町並みを背景に、パジャマ姿の少年が生意気そうな目つきで彼を見ている。心臓が激しく鼓動する、ほんの少しの間をおいて、アンダーが笑顔で切り出した。


「お前さ」

「施設は嫌だ」


 出鼻を挫かれ、僅かにアンダーの表情が崩れる。それでも努めて冷静に、彼は言葉を続けた。


「俺と過ごすよりもいい飯食えるぞ?ここよりいいかも?」

「追い出したいのかよ」


 パピーが唇を尖らせる。その刹那、アンダーはパピーを強く抱き寄せ、声を震わせて言った。


「んなわけないだろ・・・」


 鉛のように重い沈黙に沈んだ。パピーは、鎖骨にかかる温い感触に応えて、震える背中に右手を添えた。


「俺は、お前の命が心配なんだよ・・・。もう無茶して欲しくないんだよ・・・。頼むよ、頼むよ・・・」


 その時、パピーの表情が崩れた。眉間にしわを寄せ、瞼を伏せる。唇を強く噛み締めたかと思うと、少し長くなった髪の中に伏せた目を隠すようにして俯いた。


 長い、長い沈黙の中で、レースカーテンだけが静かに揺れ動く。互いの温度を確かめ合うかのように、二人は相手の背中に手を回し、鼻を啜った。


 この人の兄弟であったら、と、パピーは有りもしない想像に心を預けた。無愛想な自分をそっと守ってくれたのではないか。何かの形で、甘えることもできたのではないだろうか。それすらも、遠い昔に過ぎた記憶のような気がして、横腹がずきずきと痛んだ。


「お前が、ただ、お前が、同年代の子とかと遊んだり、生意気にゲームとかやったりして、勝ったらイキって、負けたらちょっと拗ねて・・・。そういうのをしててくれりゃいんだよ。それだけで、俺は安心するんだよ」

「うん」

「路地裏で食った飯のことなんかいつの間にか忘れて、今日カレーじゃん、おかわり俺のだぞって、友達と喧嘩してる姿見て安心するんだよ」

「うん」

「時々様子見に行った時に、怪訝そうな顔をして、『また来たのかよ・・・』って唇尖らせてさ・・・。ちょっと、そっぽ向いているのを見て、安心するんだよ」

「う、ん・・・」


「何か」がどうしようもなく恋しい。このままずっと病室で一緒にいてくれればいいのにと思う。それでも、こうして抱き合った温もりが離れる時が、いつか来てしまうのだと良く知っている。パピーには、その離別を飲み下すだけの心の準備はなかった。

 ただ、カーテンが靡くたびに、背筋がぞわぞわとして、どうしようもなく動かないで欲しい、と思った。


 でも、いつかは時間が来てしまうから。パピーはそっと、アンダーの背中に回した手を離した。


「わかった・・・」


 その声は、微かで少しだけ上ずっていて、しかしアンダーの耳にははっきりと届いた。

 互いの体が離れる。アンダーはさり気なくパピーの頭を撫で、複雑な心境の籠った笑顔を浮かべる。


「また、会いに行くからな・・・。いい子にしてるんだぞ。前みたいに盗みとか、悪いことはしないでくれよ」


 パピーは静かに頷く。アンダーはそれに答えるように笑顔のまま頷く。時計の分針が数字の上を3つ分進む。アンダーは名残惜しそうに振り返りながら、病室から退いていった。


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