夜景
「こんなに広かったっけ・・・?」
アンダーはぽつりと呟く。カーテンを全開にしたばかりに、顔にかかる強い朝日に目を細めて起き上がった。照り付ける射光のせいで保存の悪いビデオのような光が視界を妨害する中、半分だけ開いた目をこする。しばらくぼんやりとしていると、オコジョがキュゥと鳴いて立ち上がった。
彼はオコジョに白いトレーに入れられたままの生肉を差し出し、不服そうににおいを嗅ぐオコジョをじっと見つめる。トレーの上で肉片を切り刻みながら、あたりに肉を散らかすオコジョたちを見つめながら、彼は腰かけ代わりのエナメルバッグを漁り、携帯電話を取り出す。
彼はビッチにベインと話を取り持ってくれるようにとショートメッセージを送った。その日のうちにバイブしたスマートフォンを開くと、そこには「だる。」というごく短い承諾の返事が映っていた。彼は構わずにアルバイトへと向かう。
夕方までフルタイムで働いた後、彼は再びスマートフォンを取り出す。通知を示すタイムラインの中に、「また前の場所で」という短い言葉が流れていた。彼は飛び上がり通知欄をタップする。ポイントやキャンペーンの広告で幾重にも折り重なった新着タイムラインの中から、最も下にある殺風景な彼女のメッセージ欄をタップした。
集合時間は夕方の5時30分。彼はスマートフォンの時計を一瞥し、「やべっ・・・」と呟いて荷物を担ぎ上げた。
夏休みの観光客でごった返す大通りを駆け抜ける。カジュアルなカップルからフォーマルなビジネスマンまで、ロータス・タワーへと放射状に向かって行く道路を、列をなして上っていく。すし詰め状態の通路を、大きな鞄で無理矢理こじ開けるようにして、アンダーは約束の場所へと向かった。
人も疎らになる対向車線に移ると、余分に体に圧し掛かっていた負荷が軽くなる。一気に加速したアンダーは、マンフグのすぐ横にある、仄暗い路地へと向かって行った。
顔にビルの長い影がかかるのに合わせて、少しずつ速度を緩める。鞄が圧し掛かった肩を激しく上下させながら、彼はきょろきょろと左右を見渡した。
彼が鼻に掛かった雅やかな薫りに気づく頃、突然、視界の中に青白いと形容していいほど白い、淡く光るような容貌が闇の中から顔を見せる。この世の全ての苦痛を背負ったかのような儚げな、同性であってもはっと息を呑むような、抜きん出た美しさの相貌がアンダーに丁寧に頭を下げる。綺麗な45度のお辞儀、しっかりと膝の上に揃えられた、青い血管が少し浮き出た手の甲。それらが一丸となって彼に敬服を示すその姿を目の当たりにして、アンダーはケイナインの気持ちをはじめて理解した。
アンダーは呆気に取られて会釈を返す。顔を上げたベインは、自嘲ぎみに微笑を浮かべて、アンダーから少し視線を逸らした。
「あなたのことを不幸にしてしまったこと、心よりお詫び申し上げます。つきましては、毎月、私の給金から一割を慰謝料としてお支払いいたしたく存じます・・・。もし差し支えなければ、あなたの口座・・・振込先口座をお教えいただけないでしょうか」
ベインは緊張しているのか、しきりに手を揉みながら一方的に話しかけてくる。アンダーは彼の言葉尻に重ねるようにして、その流れを無理矢理断ち切った。
「そういうのは良い、間に合ってる。それより、この資料に目を通してくれ」
アンダーは大きな鞄を開き、2分ほどその中を乱暴に探す。四隅がよれて折れ曲がった封筒を取り出し、ベインに手渡した。ベインは目を瞬かせて、封筒の封を丁寧に切る。中から出てきたレジュメは、いかにも専門の学生が頭を悩ませて作った、借金救済制度に関する法令についてまとめたものであった。
中には、法務局の広報が作成したホームページの写しや、弁護士会の公式記事も併せて収められており、それぞれがステープラーで3つほどに分けてまとめられている。ベインは目を丸くして、アンダーの顔を見た。アンダーは乱暴に開け放った鞄のチャックを半ば強引に閉じながら続ける。
「お前の事情はパープル・・・えっと、こっちの伝手で少し聞いたんだ。金に困ってるんだろ。俺に出来ることなら協力させてくれ」
「いま、紫・・・と?」
ベインは泣きそうな顔でアンダーの肩を掴んだ。アンダーは困惑しながらも頷く。立て続けに「ご壮健でございますか?」と問い質されれば、アンダーは続けざまに頷くことしかできない。肩を掴んだ手がぶるぶると震えはじめる。先程まで持ち上げていた顔を、ベインは静かに下ろした。
ベインのきめ細かな肌の上を、透明な雫が伝う。彼は言葉を噛み潰すように歯を食いしばり、一呼吸を置いて静かに首を横に振った。
「『わが身こそ あらぬさまなれそれながら そらおぼれする君はきみなり』※ 」
「・・・は?」
アンダーが聞き返すと、ベインは憎々しげにかぶりを振って、アンダーの顔を覗き込んだ。艶やかな長い髪の影が、人ならざるものを思わせるほど深く暗く、瞳の色に掛かっている。
「いえ、失礼。いずれにしても、この問題は法律で簡単に片がつくもの、というわけでも御座いません。用意するべきことも、気を使うべきこともあまりにも多い。お気持ちはしかと受け取っておきますから、どうか私とは深くかかわらぬように、そのようによろしくお願いいたします」
ベインは資料を両手で大切に抱え、軽く会釈をして闇の中へと消えていった。ほとんど幽霊のように、跡形もなく姿をくらませた彼を、アンダーは最後まで見送ることができなかった気がした。
言いようのない居心地の悪さを覚えた彼は、自ら胸をぎゅっと握りしめる。肺の拡縮、心臓の鼓動、色々な体の動きが、微かに腕に伝わってくる。
「どうしろってんだよ、こんなの・・・」
彼は途方に暮れながら、とぼとぼと帰路についた。
帰り道、彼は思い出したようにベインの独り言を検索エンジンに打ち込んだ。やはり、というべきか、物語のことがつらつらと解説されているページへと辿り着く。彼は、ベインが何を思って言葉を絞り出したのかを思うと、いっそうかけるべき言葉を失ったように感じた。
大きな道にでれば、あちこちを照らす街灯の下を、人混みが流れていく。スマートフォンを弄りながら歩く人が、前の人の靴を踏みつけて、謝罪もせずに早足で通り過ぎていく。わずかに眉を顰めるだけで、踏みつけられた人も道を急いでいく。まるでベルトコンベアのような長い道を、彼は逆らうように戻っていく。夜も眠らぬロータス・タワー前の大ロータリーを、外周沿いに歩いて自身の寮がある道へと戻ると、彼もまたコンベアの中の商品の一つのように、流れに組み込まれてスムーズに歩んでいった。
あっという間に辿り着いた、閑散とした寮の前で佇み、ぼんやりと棟を見上げていると、視界の隅に、ベインの詐欺被害者がいることに気が付く。彼女は泣きべそをかきながら、しつこく誰かに連絡を取っている。受話器の向こう側にある声を思いながら、彼は浮かない表情で視線を建物に戻した。そして、まったく関わりがないかのように、彼女の真横を通り過ぎていった。
紫式部『源氏物語』「第35帖 若菜下」、六条御息所11




