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負犬物語 -スラム・ドッグス-  作者: 民間人。


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入院

 病院の待合室で待機していたアンダーは、落ち着きなく貧乏ゆすりを繰り返していた。言うまでもない事だが、写真の中で見たドラム缶に医療機器を乗せた医務室と比べれば、病院の雰囲気はずっと良い。しかし、彼の心の騒めきは、写真を見たその時よりもいっそう大きなものになっていた。


 白衣の人々が自分の前を往来する。透明なパックに入れられた点滴液は向かいの壁を見通せるくらいに澄んでいる。

 彼は指をくねくねと組み替え、足を忙しく動かして、彼方此方から押し寄せてくる情報を整理していく。床に映った照明に幾つもの影が掛かっては通り過ぎていっても、巡りすぎる思考が彼の心を苛んだ。


「間に合いませんでしたか」


 もやもやとした脳内が冴えるような、馨しい薫りが彼の傍に寄り添う。自分よりもずっと自信なさげな細い声目掛けて、彼は衝動的に腕を打ち付けた。

 腹の上にぶつかる微かな衝撃に視線を落として、ベインは帽子を被り直して顔を隠す。燃え滾るような怒りと体を打ち付けるような悲しみとが隣り合って、過ごしづらい沈黙が長く続く。


 ベインはふいに白い天井を見上げ、何かを口ずさもうとする。アンダーは腹に柔い一撃を加え、言葉を遮った。そこから幾度も患者や看護師や医師が二人の前を通り過ぎていく。


 ようやく整理が追いついたらしいアンダーが、重い口を開く。


「悪い」

「・・・いえ」


 互いに言葉を詰まらせ、同じように視線を落とす。ベインは祈るように合わせた手の中に、親指を埋めると、その上に額を合わせて鼻を啜り始めた。


「私が関わると、みなが不幸になる」

「ほんとだよ」


「私さえいなければ、あなたもあの子も苦しむことはなかった」

「やめろ」


 今度は少しだけ柔らかく、ベインの腹に拳が当たる。俯く視界に映った拳の中には、一冊の本が握られていた。


「それは・・・」

「落としてただろ」


 ベインはそれを大切そうに受け取ると、眩しそうに目を細める。表紙を優しく撫で、胸にの中に抱くと、声を上げて泣き始めた。


「俺には、その本の価値は分からない。ただ、お前が大事そうに持っているっていうのが分かるだけだ」


 アンダーは俯きながらそう呟く。声を殺して泣くベインの姿を横目で伺いつつ、彼は言葉を続けた。


「彼女のことは、どう思ってるんだ?『騙された』?『憎い』?」


「どんな縁であれ、私にとっては、代えがたい縁であると思いますよ」


 ベインは、涙ながらに、二人の馴れ初めについて語り始めた。



 私がどのような仕事をしているかについては、どうか聞かないでいただきたいのです。ただ、ごく一般的な企業に就職しておりまして、毎日日中はそうした業務を続けているということだけはお伝えしておきます。当時も今と変わらず仕事をしておりました。


 ただ、何事も世の中というのはうまく行くことばかりではございませんから、そうした仕事に嫌気がさすこともございます。出来心から、はじめて風俗のお店を利用したのです。それが、彼女との出会いでございました。


 考えて頂ければわかると思いますが、彼女にとって、私はお客様。好意を抱いているということはございません。

 ですが、客である私は、そのようには感じられませんでした。


 それまで、誰が私を認めてくれたでしょうか。それを思えば何も不思議なことではございません。容貌についてお褒めにあずかることこそございましたが、それが長続きすることはございませんから、私の話など聞く人はございませんでした。当然、本の話など誰かに話すことなどございません。


 そんな有様でしたから、彼女が私に仕事以外の話をして下さったことが、たまらなく嬉しく思ったのです。それで、私が答えたのが、この本のこと。彼女は興味深そうに演じてくださいました。


 それからというもの、私は彼女を指名して連日風俗へ通うようになりました。他の上客に指名を受けて、席を離れる彼女のことも目で追いかけてしまうほど、恋焦がれる日々が続きました。決して安価とは言えない贈り物を送ったこともございました。


 そんなある日のこと、彼女がお金に困っているというご相談をしてきました。気恥ずかしいものですが、頼られるというのは気分が良いものですね・・・。私はすぐに彼女の口座に送金をしました。

 その後も何度か、彼女に送金しました。気づけば資産は底をつき・・・借金をするようになりました。それを繰り返し繰り返した末、私はブラックリストに登録されてしまったのだと思います。借金で首が回らなくなり、彼女からのご提案で、彼女が借りたという体で連帯保証人となって・・・闇金に手を出してしまったのです。


 そのころを境に、彼女からの連絡は途切れがちになり、最後には、私が連絡を取っても無視されるようになってしまいました。


 彼女の影を追って風俗へ行くと、彼女がどこか別の店舗へ移籍したことをうかがったのです。



 ベインは自嘲気味な微笑を浮かべてこう結ぶ。

「笑ってしまいますが、今でも彼女は、私にとっては代え難い人なのです。ですから、恨みや憎しみとは・・・遠い感情を抱いているように思います」


 アンダーは何も言えなくなってしまった。目の前の男は恋をする乙女の様にもじもじとしている。何かを言おうにも、呆れと、同情と、絶え間ない怒りと、強い嫌悪感がないまぜになった感情で、言葉を整理することができない。渋滞した思考を整理している間に、彼は何かを察したように立ち上がると、胸に本を抱き、首を傾げて微笑む。


「ごめんなさい。もう行かなくては」


 彼はそう言って、音もなくその場を立ち去った。ちょうど人の形をした影が、物陰の中に馴染むようにすぐに景色の中へと溶け込んでしまう。その場に残った、得も言われぬ芳香だけが、確かに彼がそこに在ったという証であった。


「パピーくんの保護者の方」


 入れ替わるように、看護師が彼に声を掛ける。アンダーは気を取り直して立ち上がり、診察室へと入った。


 あの懐かしい芳香の代わりに消毒液のにおいが充満している。荷物用のかごに鞄を置こうとしたときに、アンダーは自分の肩に重い鞄もかかっていないことに気がつく。どれほど気が動転して飛び出してきたのかと、思わず顔が火照った。


 医師は信頼の置けそうな初老の男性で、白衣の下にあるビール腹はまさに不養生を物語るようであった。アンダーは腰を低くして頭を下げる。医師が席を勧めると、彼は何度目かの「すいません」の後に、硬い椅子に腰かけた。


 医師は電子カルテをペンでタップしながら、レントゲン写真を示す。

「えー。まず、彼の腎臓は一つになっています」

「本当なのですね・・・」


 アンダーが俯きがちに言うと、医師は粛々と同意して続けた。


「見たところ傷は存外うまく縫合してありますし、数値も安定しています。よほど日頃の行いが良かったのでしょうね。感染症等のリスクもありますから、暫く入院して経過観察を続けましょう。問題なければ、2週間ほどで退院できます。その後は通院をして頂いて、抜糸、という形になるかと思います」


 拍子抜けするほどスムーズに説明をする医師を何となく直視することが憚られて、アンダーは時折視線を落とす。電子カルテはレントゲン写真のぽっかりと空いた腎臓の位置、医師の所見などに赤いポインタが描かれていく。ほとんど理解が追いつかない詳細な説明の後、医師は入院手続きの書類を持ってくるように看護師に指示を回す。看護師が一度席を立つと、一息ついた医師が老眼鏡を軽く下ろして告げた。


「まぁ、あまり心配しなくてもいいと思いなさい。人は腎臓一つでも生きていける。では、入院手続きの書類を持ってきますから、待合室でお待ちください。」


 アンダーはとぼとぼと立ち上がり、待合室へと戻った。

 診察室に籠っていた消毒液のにおいが薄れる。そこに在ったはずの紅梅の薫りもすでに霧散して、どこにいたのかも覚えていないほどになっていた。彼は元の席に座り、隣にベインの輪郭があったことを思い出す。


 院内は白で統一されて、照明も明るく清潔感がある。彼の自室がずっと暗く、不潔であると思わせる。よれた患者衣で点滴をひいて歩く入院患者も、少し肌が乾燥してはいるようだが、健康状態は良好に見える。アンダーは中肉中背と言うにはあまりにも身長と体重が足りない自分の体に視線を落とした。「板のような」という表現がこれほど似合う体格もそれほどないだろう。筋肉は勿論、贅肉もほとんどない。自分の横腹を皮ごとつまみ、多少の痛みが伴うことに一つため息をつく。


 やがて、バインダーに残された大量の書類を看護師が届けに来る。彼はそれを受け取り、バインダーに書かれたシルバーの文字をまじまじと見つめる。そして、思い出したようにペンを手に取り、書類に必要事項を書き始めた。


 入院患者名のところで手が止まる。忙しく往来する看護師に、弱々しく声を掛け、躊躇いながら声を掛ける。


「あの・・・俺、保護しただけなので、あいつの本名が分からないんですけど・・・」


 看護師は少し困った後、ナースステーションに戻っていく。しばらくして戻ってくると、不安感を払拭するような微笑みで以下のように答えた。


「普段呼んでいらっしゃるお名前で良いですよ」

「分かりました」


 書類にパピーと書き込む。そして、再び手を止めると、看護師が書類を覗き込む。「ご自身のご住所で大丈夫ですよ」と言われ、促されるがままに書類に自分の住所を書いた。


 患者衣やタオルなどのレンタルに関する書類には希望しないことを書き込み、受付に書類を渡しに向かう。目移りするような大きな絵画や、不必要に明るい院内の催しが案内されたポスターなどを見るともなしに眺めながら、自分の名前が呼ばれるのを待つ。手持ち無沙汰な彼は、総合案内のすぐ向かいにある小さな売店も見て回った。炊き込みご飯だけを入れたパックや、市販の飴などが、少し高めの値段で陳列されている。


 その中に、雑な梱包のハンバーガーが混ざっているのを見つけて、彼はそれを手に取る。値札を見ると、量のわりにそこそこ値が張り、カロリーもかなり高めである。彼は暫くにらめっこした後、売店のレジにそれを置いた。


 それから5分ほど経ってから、総合案内から呼び出しのアナウンスがある。何度か腰を上げ下げしていたアンダーが、ようやく待合室のソファから立ち上がると、事務員が諸々の書類やパンフレットと面会用の名札などを封筒にまとめて彼に渡す。彼は封筒に書かれた住所と病院名の羅列をぼんやりと見つめ、やはり思い出したように財布を取り出し、支払いを行った。


「立ち合いの患者さんの入院準備が済むまで、藤の待合室でしばらくお待ちください」

「はぁ」


 空返事を返して案内板を眺め、彼は待合室まで向かう。そして、それから二十分ほどして、検査室の扉が開いた。中から看護師二名がベッドと共に現れ、アンダーに声を掛ける。


「お待たせいたしました。病室へご案内いたしますね」


 アンダーは立ち上がり、ベッドの横に歩み出る。覗き込むと、いつもの無愛想な少年が、難しそうに顔を顰めていた。


「痛くないか」

「・・・保険」

「ん?」


 身を乗り出すと、パピーは大袈裟に視線を外す。アンダーは意識的に口角を持ち上げて、彼が話しかけるのを待った。


「効かないだろ。お金のこと、ごめん」


 アンダーは長く唸りながら、暫く周りを見回した。明るい照明と、白い天井。染み付いた消毒液の微かなにおい。ガーゼの裏側のような凹凸の壁面。そこに何がモチーフか分からない、色鮮やかな絵画が飾られている。


「病院なんて何年振りかに来たけど、綺麗なもんだなー。なんか、俺の部屋にいるよりちょっと気分いいもんな」


 アンダーはそう言ってベッドの中を覗き込み笑いかけると、パピーは不服そうに眉を顰めた。


「は?」


 アンダーの細い手が、柔らかい少年の髪をくしゃくしゃとかき撫でる。


「前言っただろうが。子供が金のことなんて気にすんな。命と比べたら安いもんだろ」


 パピーはそっぽを向き、黙って頷く。看護師がベッドを動かし、アンダーはそれに追従する。ベッドが丸々一台入る大きなエレベータに乗り込み、看護師が5階のボタンを押した。エレベータは特有の浮遊感を伴って、四人を運んでいく。


 エレベータが開くと、まずは大きな絵画と病院からのお願いの貼り紙が並んで貼られているのが目に付く。H字が連なるような構造の廊下のところどころに、空の食器が置かれた配膳車が停まっている。その間を縫って病室へ入った。


 比較的広い室内は大きなクリーム色のカーテンで複数に仕切られ、それぞれのカーテンの中に金庫や、小さな古いテレビ、机と椅子が配置されている。どの位置からでも広い窓から外を眺めることができ、目下は絶景というほどではないが、都会特有の渋滞などが眺められて飽きるほど景色が変わらないわけでもない。パピーのベッドが金庫とテレビの置かれた棚の隣に運ばれると、看護師たちはアンダーに礼をする。アンダーは看護師よりより一層深く頭を下げた。


「お願いします」


 二人きりになると、アンダーはパピーのベッドににじり寄るように近づき、鞄の中に仕舞っていたハンバーガーを机の上に置く。


「ご飯はちゃんと食べろよ。豪華だぞ」

「じゃあなんでそれ買ってきたんだよ」


 パピーは体を起こし、唇を尖らせる。アンダーが脇腹の辺りに視線を向けているので、彼は思わずため息をこぼした。


「じゃあ、また明日着替えとか持ってくるからな」


 アンダーは努めて明るく手を振ると、パピーは訝し気に眉を顰めて頷く。アンダーはその場を後にして、ナースステーションの前を通り過ぎる時に、看護師たちに向けて軽く会釈をした。「お大事に」という穏やかな声が返ってくる。彼は先程より一回り小さいエレベータを使って、一階へと戻っていった。


 アンダーの後ろ姿を病室から見届けた後、パピーはハンバーガーの包装を取る。見るからに安っぽいそれをまじまじと見つめ、柔らかいバンズを頬張る。


「なんか、しゃびしゃびしてる・・・」


 思わず声をこぼしつつ、彼はそれを綺麗に平らげた。


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