洗浄
「姉ちゃんの家が良かった」
四畳半の小さな室内に電気が灯ると、パピーは開口一番にそうこぼした。
「生憎、あの人野宿か漫喫かだぞ」
「え、家ないのかよ?」
パピーが目を丸くして見上げる。
「画材とか、絵の講習費とかで、家賃払いたくないんだってさ」
「女がそれは危ねぇだろ・・・」
「お前も大概だかんな」
「俺、男だし大丈夫だもん」
アンダーは荷物を布団の脇に置き、布団の上で胡坐をかく。パピーは立ったまま、本のせいで足の踏み場もない様相の室内で、物を踏まないように慎重に奥へ進んだ。
「適当に座って良いからな」
アンダーはノートパソコンを立ち上げる。騒々しいファンの起動音が響いた。パピーは鞄を背もたれにして僅かな隙間の中に座る。鞄の向こうには空のピロー包装が捨てられたごみ箱がある。
「お前、病気か?」
「あん?色々あんの」
アンダーは怪訝そうに眉をひそめ、ごみ箱を隅に寄せる。パピーは眉間にしわを寄せ、彼の顔を覗き込んだ。
「あ、そうだ、お前。今日は風呂入れよ」
アンダーは思い出したように言いながら、立ち上がる。パピーは犬歯を剥き出しにして「やだね」と短く答えた。風呂場の前で立ち止まったアンダーが大きなため息をつく。
「は・い・れ」
「や・だ・ね」
お互いに一音一音を強調して歯向かった。アンダーは黙って少年を睨みつけ、そのまま風呂場へと入っていく。
パピーは、一人取り残された室内で、煌々と照り付ける白い光の中を見回した。彼の周りには、盗んで売っても100円にもならないような重いだけの本が大量にある。唯一金目のものと思えるのが、机の上でブルーライトを放つノートパソコンだが、型落ちの低性能品で、恐らく安ものだろうと一目でわかった。
とは言え、彼にとっては食いつなぐ腹の足しになりそうなものだ。鞄を跨ぎ、そっとパソコンに手を伸ばした。
青い光の中に、大量のテキストファイルが保存されている。それらを整理したファイルが、乱雑に散らばっているらしかった。インターネットへ繋ぐアイコンも、パピーには何なのか分からない。しかし、稼げるものだというのは分かった。彼の脳裏に黒い思考が過る。元々大した縁もない相手だ。
しかし、彼の胸は不思議と大きな罪悪感に駆られた。鞄を再び跨ぎ、てきとうに本を開閉する。数分後、風呂場からアンダーが顔を覗かせた。
「洗ってやるから来い」
パピーは大きな舌打ちをして、脱衣所に向かう。
脱衣所に向かったパピーの目に飛び込んできたのは、二匹のオコジョが流し台の上で、蛇口からちろちろと水を飲んでいる様子だった。オコジョは見知らぬ子供の気配に気が付くと、歯を剥き出しにして威嚇したが、少年も負けじと歯を剥き出しにして唸った。
アンダーはじっとりとした目つきでその様子を眺める。
「さっさと服脱げよ・・・」
「こいつらに上下関係教えてやらないと」
「野生の猫かなんかかよ」
「パピーだ」
二匹と一人の睨み合いは一向に収まりそうにないので、アンダーは水を止め、無理矢理パピーの上着を脱がした。その後、自分も服を脱いで野良猫を引っ張る。抵抗するパピーをシャワーの前に座らせると、指先に水を出して温度を確かめながら、ぬるま湯になるとパピーの頭からかけ始めた。
一瞬だけかかったお湯にびくついたパピーだったが、その後は仏頂面で湯を浴びている。彼を伝った水はすっかり黒い色になり、排水溝へと流れていった。
「意外と暴れないんだな」
「ガキじゃねーんだから」
「ぶはっ」
思わず吹き出す声に、鋭い視線で振り返る。アンダーは綻んだ顔の前で手を立てて、「ごめん、ごめん」と笑いをこらえながら言った。
流れていく垢と泥の量に、アンダーは少年の長い路地裏生活を思った。生意気に顰め面をする少年の長い髪が、べったりと顔に圧し掛かっている様を、同情の眼差しで見つめる。手に取ったシャンプーを泡立て、髪の毛をしっかりと洗い流す。泡はすぐに小さくなり、水で流すたびに灰色になって流れていく。それを何度も繰り返し、体も何度も丁寧に洗い流す。
少年がじっとりした目つきでアンダーに振り返ると、彼はお湯の張った風呂の中に入るように、少年を促した。
「なげーよ」
「ちゃんと洗わないと傷とかも膿むし、病気もするだろ」
「なったことない・・・」
風呂の中から顔だけを覗かせながら、少年はぽつりと呟く。アンダーは体を手早く洗い、髪も簡単に泡立てる程度で洗い流す。パピーは、その様子を眺めつつ、湯船に口を埋める。吐き出した息が泡となって水面に浮き上がる。呆れたような視線に対して、アンダーは呆けた様子で首を傾げた。
「・・・自分のはてきとうなのかよ」
「いつも洗ってるからいーの」
そう言って風呂に入ると、僅かに湯船から湯が溢れ出した。気持ちよさそうな声を上げるアンダーを、少年はじっと睨みつける。流れていく湯が排水溝に吸い込まれて、僅かに黒ずんだ泡が溜まった排水溝へと流れていく。
浴室内に湯気が充満している。肌にかかる湿った空気が不思議と気持ちよく、少年は何となく表情が緩むのを隠そうとする。何気なく足を組み替えたりする男を見上げていると、視線に気づいたアンダーが怪訝そうに眉をひそめた。
「どうした」
「・・・何でもない」
パピーは火照った肌を隠すようにそっぽを向く。
二人はゆっくりと湯船につかった後、オコジョが流し台から降りて扉を叩き始めたところで、風呂から上がった。
「タオルで拭くんだぞ」
「なんでそんなこと言うんだよ」
「悪い、悪い」
パピーはアンダーからバスタオルを奪い取り、体を乱暴に拭う。鏡に映った自分の顔に、鬱陶しいほど垂れ下がった髪が目を隠している様子が映っている。小さなタオル二つで体を拭ったアンダーは、洗濯篭の中にタオルを放り込むと、パピーの顔の高さまで身を屈めて話しかけた。
「髪も切ろうな」
パピーの火照った顔がそっぽを向きながら、小さく頷いた。