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負犬物語 -スラム・ドッグス-  作者: 民間人。


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警鐘

 大手保険会社ヘルメット・ライフ・インシュアランスのロータス・シティ支店は、ロータス・タワーから南へと伸びる都市のメイン・ストリートに位置する。横断歩道を挟んで向かいにはメガロータスが、徒歩2分、南へと進めば最寄りのコンビニ『エイト・フォー・テン』がある。オフィスはビルの3階に位置し、ひっきりなしに契約や事故の電話が鳴り響いていた。


 若手から支店長まで忙しなく仕事をこなすオフィスの窓際で、資料をステープラーで留めているのが、ベインであった。彼の席には次々と資料が置かれ、彼より6歳は年下の新入社員が「これ留めて」と乱暴に言い放っていく。焼き魚の目のような濁った瞳で、資料を手に取ると、彼は得意のステープラーで年下の作った「出来の良い」資料を留めた。

 かかったブラインドのお陰で彼の顔が外部に漏れないことが、彼にとってどれほど有難かっただろう。それほど冴えない表情をしていた。


 ひたすら資料を留めていると、肩幅の広い威圧的な影が彼に近づいてくる。顔を持ち上げると、仄かに薫る体臭が、威圧的な支店長の顔をますます歪ませた。


「また香水つけてきたのか。男のくせに」

「香水ではございません・・・」

「あぁ!?聞こえないな!」


 そう言って大量の資料を机上に投げられる。思わず目を瞑ったベインの頭上から、支店長の吐き捨てるような声が聞こえた。


「昼までに全部留めとけよ。それしか出来ねーんだから」


 それでも、彼は言葉に逆らうことが出来ない。人数分の会議資料を留めるだけである。

 人と人が声を掛け合い、外回りや、電話対応の声がオフィスのあちこちで起こっている。ビルの窓を拭く職人がブラインド越しに彼の頭上に影を落とす。時計の針が12時を指し、オフィスでチャイムが鳴る。


 それでも、カチ。カチ。カチ。誰かに慮られることも無く、ただ、ステープラーで紙をはさむ作業。彼はそれだけを、冴えない目つきで繰り返した。


 昼休みが半ばになった時、スマートフォンが鳴る。役割分担を繰り返した末、末席へと押し込められてしまった彼に、仕事の連絡が来ることはない。ただ、彼には他の『仕事』がある。待機画面を見て、手を震わせながら通話ボタンを押した。


「はい」

「ハイトは殺った。今ガキの家に来ている」

「はい」

「たっぷり仕置きしてやるから、後でボスには礼言っとけよ」

「はい」

「はいしか言わねぇじゃねぇか。ほんとにわかってんのか?」


 ベインは唇を噛み、さめざめと涙を流す。同僚たちがその様子を遠目で眺め、ひそひそと語り合っている。ベインは静かに「はい」とだけ答え、通話を切った。


 支店長が戻ってくると、ベインの席に一瞥をくれる。「まだ終わってないのか・・・」と吐き捨てると、自分の席へと戻っていった。


 資料に涙の露が零れ落ちるのを、ベインは袖を置いてそっと拭う。そのまま袖口を目に当てて、暫く鼻を啜る。時計の針が1時を指すと、軽快なチャイムが楽し気に仕事の始まりを告げた。オフィスに戻ってきた人々が、それぞれに仕事を再開する。ベインも袖口で、零れる涙を綺麗に吸い上げる。焼き魚のような濁った目でしとどに濡れた袖口を眺める。


「人はみな いそぎたつめる 袖のうらに ひとり藻しほを たるるあまかな※1 」


 と、呟いてみても独り。



 バイトの時間も終わりに差し掛かったころ、常連客を亡くした寂しさも落ち着き始めていた。後輩も仕事を一人前にこなせるようになっており、遅刻もない分以前よりも円滑に業務が進む。それはそれで虚しい気持ちにさせられるなどと考えながら、店長が来るまでの時間を、秒針など眺めながら待っていると、交代間近になって来客が現れた。


「いらっしゃいませー」


 レジにハイト馴染みの硬水が置かれる。アンダーが金額を告げて顔を持ち上げると、ふわり、と紅梅の薫りが匂い立った。


 思わず言葉を詰まらせる。


「橘の かをるあたりは ほととぎす こころしてこそ なくべかりけれ※2 」


目の前の男は金額ちょうどをレジに渡すと、硬水を回収して即座に立ち去ろうとした。


「ちょ、ちょっと待って・・・!」


 声を掛けると、後輩が振り返る。まさか追いかける訳にもいかず、そわそわとしていると、交代のために店長が休憩室から現れる。


「アンダーくんお疲れ」

「あ、店長、後よろしくお願いします!」


 アンダーは店長にそれだけを告げて、その場でエプロンを外し始める。


「うぇ!?え、うんお疲れー」


彼は駆け足で休憩室へ向かうと、荷物も持たずに店先へと飛び出した。寂し気な後ろ姿をした男の輪郭が、夕焼けの中で佇んでいる。息を切らして対峙するアンダーに、逆光の中にある息を呑むような美しい容貌を晒す。馥郁と匂い立つ紅梅の薫りが、都会の喧しいにおいの中でも際立って匂ってくる。


「待って、ベイン・・・さん!」


 アンダーは体中のポケットを探り、とにかく何かを渡して足をとどめようと試みる。ベインはゆっくりとアンダーの方へと体の向きを変え、赤みがかった目で、彼が何かを言うのをじっと待っていた。


「あの、えっと・・・。いきなりすいません。ベインさん、借金の返済とかに困っていませんか・・・?」


 思わずベインの瞳孔が開く。目の前の青年が、不思議なほど優しい声音でそう語り掛けるので、涙がこみ上げてきそうになるのを抑え込んだ。自分自身が詐欺師であるのだから、詐欺師の立ち回りは分かっているつもりである。しかし、不思議なことに普段通りには動揺を隠せない。


「私と話すよりも先に、あなたに関わることを心配なさってはいかがでしょうか・・・?」


「はい?それは・・・」


 アンダーが聞き返すと、ベインは儚げに目を伏せて、躊躇いながら言った。


「あの子が危ないかも知れませんよ」


  アンダーは驚愕し、衝動に任せて自宅へ向かって走り出す。

一人残されたベインは、眩いものでも見るように、アンダーの背中を目で追いかけた。

 アンダーを送り出すと、ベインは靴の先を見つめて目を潤ませる。転がっている小石を爪先で弱々しく蹴ると、石は側溝の中へと転がって消えていった。


「しるべせし われやかへりて まどふべき 心もゆかぬ あけぐれの道※3」


と、返す人もなく一人のたまうと、とぼとぼと自宅へ向かって歩き出したのだった。


※1紫式部『源氏物語』「第48帖 早蕨」、弁尼 2

※2紫式部『源氏物語』「第52帖 蜻蛉」、匂宮 24

※3紫式部『源氏物語』「第47帖 総角」、薫19

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