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負犬物語 -スラム・ドッグス-  作者: 民間人。


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未遂

 アンダーは自作の資料を捲りながら、小さな溜息をこぼした。

 警戒されてしまった。今度会う時はもっと警戒されることは避けられないだろう。まして、警察に通報してしまえば、結局手元の脅しも無意味なものとなる。やめてくれるどころか、彼自身に危害が及ぶかもしれなかった。


「なに見てんの?」


 少し癖のある持ち方で箸を掴むパピーが、特等席のアンダーに声を掛ける。アンダーは脇息代わりの鞄に腕を預け、手元の資料を机に放り投げた。


「別に。勉強が行き詰まってるだけだ」


 パピーは山盛りの白米をかき込み、興味なさげに相槌を打つ。その淡白な反応が、かえって今のアンダーにはありがたかった。

(とはいえ・・・。どうやって説得しようか)


 アンダーは机に頬杖をついて狭い窓の外を見る。厳しい夏の暑さに嘆く空気が、陽炎を作っている。

 手元にある勉強用のノートをいたずらに捲りながら、纏まらない練習帳のような思考を整理した。


 パピーが手を合わせる音が背中でする。白い腹を見せて眠るオコジョがくるりと起き上がり、跳ねるようにしてパピーの元へと向かう。パピーも彼を膝の上に導き、夏の日差しに焦げた温い毛を撫でる。もう一匹が居所を競うように彼の膝の上に上ってくる。パピーは「あちっ」と一つこぼした。アンダーは声に反応して振り返り、視線が交わらないことを確かめると、再び机に向き直った。


 考えても仕方がないと、しおりを挟んだ参考書を開いた。シャープペンシルをノックし、問題を解き始める。


 十分後、アンダーは時計を見て、机の上にペンを放る。


「あぁぁぁぁぁぁぁ・・・」

「ほんとにどうした?」


 奇声を上げて髪の毛をかき回すアンダーに、パピーは引き気味で声を掛ける。


「やっぱりどうにかして渡さないと・・・!」


 次に続く言葉は、「俺が!落ち着かない!」だったはずである。彼は布団の上から立ち上がると、上着を着こみ始める。パピーが何度か声を掛けても、彼は聞く耳を持たずに部屋を出た。


「・・・えぇ、なに?」


 取り残された部屋に、虚しい独り言が響いた。



 さすがに不審な動きを感知したパピーは、苦戦しながら部屋の鍵を閉め、アンダーを追跡した。ポケットに両手を突っ込み、小さなショルダーバッグ一つを提げたアンダーは、ひどい猫背で歩いている。周囲を異様に警戒しながら、時折きょろきょろと辺りを見回す様は不審者そのものである。その上、彼は容姿も見るからにナードなのであり、警察に職務質問をされても仕方がないだろう。


「な、なにやってんだ?あいつ・・・?」


 一回り歩幅の広いアンダーは、明らかに普段よりも身軽である。パピーは駆け足に近い早歩きで尾行を続け、ロータス・タワー前の大ロータリーまで辿り着いた。


 アンダーが背伸びをしたりつま先立ちをしながら、歩行者天国と化した横断歩道から顔を出す。鼻をひくつかせ、辺りを見回しては、ロータス・タワーのロータリーを一周する。幸いというべきか、アンダーが群衆の中から顔を出しても、背の低いパピーは人混みの中に自然に紛れて発見される様子はなかった。とは言え、明らかに不自然な行動は、ある種の異質さを周囲に植え付ける。信号待ちをする周囲の人々は、彼を一瞥して少し距離を置き、信号が変わると少し早足になって流れていった。


 やがてアンダーは、風俗街のある方角へと渡っていく。パピーには縁のない場所であったが、年頃の子供であればそれが「何」を売る店なのかなど容易に予想がつく。彼は固唾を呑み、アンダーを尾行した。


 異様に主張の強いネオン街の中を、自己顕示欲が見られないだらしない男が進んでいく。キャッチの女が近づこうとすると、それを押し退けて前へ前へと進んでいく。

 しきりに鼻を動かすアンダーの横顔に疑念を隠せないパピーは、自分には不釣り合いなぎらぎらした看板に身を隠し、町の奥へ、奥へと進んでいく。

 そんな中、パピーは不意に後ろから肩を叩かれ、思わず飛び上がった。


「あの、坊や。こっちは大人の来る場所ですよ」


 見たところ30代前半の男は、ワイシャツにスラックスという大人らしい落ち着いた服装に、背の高いニット帽を被った不思議なファッションをしていた。香水のにおいなのか、パピーの嗅いだことがない香りが馥郁と匂い立っている。


「うっ・・・!うっせぇ!別に町に用があるわけじゃねぇよ・・・!」


 パピーが手を払いのける。男は振り払われた、静脈が浮き上がるほどの白くしなやかな指をしばらく見て、不自然にそれを動かした。

 パピーは殆ど反射的に男から距離を置く。アンダーに拉致された時には全く感じなかった、ほとんど殺意に似た悍ましい悪意の感触を、全身で感じ取ったのである。鳥肌がぞわぞわと立ち、凍り付いたかのような悪寒が背筋を駆けあがってくる。目の前の男は異質なほど美しい相貌に仄暗い影を差して、少年を静かに見つめている。パピーは助けを求めてアンダーの進行方向へ視線を送る。しかし、既にアンダーの姿はなく、彼は行き交う金で結ばれた縁の中に紛れてしまっていた。


 男は涼やかな表情で少年の手を取る。


「人攫いだ!」


 パピーは大声で叫んだ。彼は路地裏暮らしの頃に、隣で腐りかけのパンを齧っていた子供が翌日には消えていた時のことを思い出していた。その時、子供の手を取ったのは、暗い路地裏では際立って輝く青白いと言っても良い白く艶やかな肌。自分の手に触れたのは、それによく似た手であった。


 艶っぽい唇や高く盛られたマスカラが、パピーの方を見る。男は即座に暗い路地の中へと消えていく。激しい緊張状態のあまり肩で息をするパピーは、男が消えていった路地をじっと睨みつけた。騒ぎに気付いた風俗街の人々が、パピーを保護しようとして集まってくる。その間を縫って、アンダーが顔を出した時、パピーは全身の力が抜けて、その場に座り込んだ。


「な、パピー!?おま、なんでそんなところに・・・!?」


 駆け寄ってきたアンダーの腕を鷲掴みにして抱き寄せ、パピーは消え入りそうな声で答えた。


「お前こそ・・・なんでこんなとこに来てんだよ・・・!」

「あ・・・。わ、悪かったよ・・・」


 周囲の人々がアンダーに冷たい視線を送る。アンダーはパピーに手を貸して立ち上がらせる。普段なら滅多に見せることのない苦々しい涙がパピーの頬を伝った時、アンダーは再び彼を抱きしめた。


「怖かったよな。ごめんな」

「お前にデリカシーがないと一番思うのは、こういう時だ・・・!」


 パピーはアンダーの袖を強く握りしめる。アンダーの胸のあたりが濡れる。二人はしばらくその場で抱き合って、パピーの呼吸が落ち着きだすと、アンダーは声を掛けた。


「今日、何が食べたい?」

「ハンバーガー」

「じゃ、買い出し行くか」


 パピーは鼻を啜り、無言で頷いた。


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