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負犬物語 -スラム・ドッグス-  作者: 民間人。


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 月の出る頃になって初めて、紅梅の香りは街へと漂い始める。それはちょうど、朝日に照らされればその顔を萎ませる夕顔の花のようで、儚げな垂れ目の雅やかな雰囲気がそれとよく似ている。


 その日のロータス・シティは雲一つない星月夜で、心地よい瞬きに紛れて密会をするにはちょうど良い日であった。


 そのように風情の良い日を選んで貰えることをありがたく思う彼は、大通りの近くの中では人通りが少なく、比較的安全で馴染みのある店の近くへとたどり着いた。


 ところが、それらしい人はおらず、うろうろと街路を見て回っていると、ようやく不自然なほど奥まった道の半ばで、人影らしいものを見つけ、安堵の声を漏らした。


「『寄りてこそ それかとも見め たそかれの ほのぼの見つる 花の夕顔』※ ・・・勿体ぶらずにお声がけくださればよいのに・・・」


 そうして月明りも隠れる狭い路地を歩み寄ると、突然人影の方から細く角ばった手が伸びてきて、男の袖をつかんだ。あの柔らかい忘れがたい手とは全く異なった感触に、男は思わず声を上げて手を振り払う。怯え切った表情の男に近づいてくる人影は、身長160cmほどの小柄な男であった。


「騙してすまない、彼女の関係者だ」


 そういったアンダーの顔を見て、急いで逃れようとする男を、アンダーは強引に引き寄せる。ばたばたと忙しなく暴れまわる男に向かって、彼は極めて落ち着いた声で語りかけた。


「待ってくれ、お願いがあって彼女に呼んでもらったんだ。悪いようにはしないから、頼むよ」


 ベインは声を殺して手を打ち払うと、ほとんど霧にでも隠されたのかと思うほど、素早く姿を消した。アンダーはマンフグの入り口に面した大通りへと急ぎ飛び出す。彼は既に姿はなく、馥郁と匂い立つ紅梅の残り香だけがその場に漂っていた。


「・・・くそっ」


 やり場のない感情に地団太を踏む。通行人はその動作を一瞥して、通り過ぎようとする。アンダーははっと顔を上げ、すかさず通行人に声を掛けた。


「あの、さっきここから男性が飛び出してきませんでしたか?不思議な香りのする!」

「えっと、あっちに向かったかと・・・」


 アンダーはお礼もそこそこに、指を指された方向へ駆け出した。ロータス・タワーへと向かって行く大通りの方角で、通行人が非常に多い。往来する人の波に揉まれながら彼の姿を追いかけるものの、その高いニット帽すら人混みに紛れて見つけられない。アンダーは我武者羅にタワーを目指して走るが、やがてロータス・タワーまで辿り着いてしまった。


 息も絶え絶えのアンダーは、立ち止まって呼吸を整える。自らの膝を叩き、「くそっ」と声を荒げると、大ロータリーを渡る信号機が青に変わった。


 その様子を、細い路地から観察していたベインは、訳の分からない学生がタワーの方へと遠ざかっていくのを見送る。彼は一息ついた後、白いハンカチで額を拭った。


「一体全体なんだというのですか・・・」


 縁もゆかりのない男との遭遇で、危害を加えられなかったことは幸福なことである。蓮の花の下にはひどい泥濘があるのだから、都市の底辺では何があるとも分からない。少なくともベインの生きる世界は、ちょうどその泥濘の中にあるようだった。


 白いハンカチを折り畳み、胸ポケットの内側へ仕舞う。周囲を警戒しながら外へと繰り出す。人混みに紛れてしまえば、紅梅の香りもくすんだ香水のにおいに紛れてしまう。

 そのまま彼はマンフグのあるところまで戻り、未練がましく路地の様子を覗き込む。すると、闇の中から太く日焼けした腕が伸びてきて、彼の胸倉を掴んだ。


 情けない悲鳴を上げたベインは闇の中へと引きずり込まれていく。そして、ぞっとするほど大きい、逞しい男の日焼けした額が、青白いベインの肌に迫ってきた。


「お前がアンダーの追っていたベインとかいう男か」

「ひぃぃ、乱暴はおやめください・・・!」


 ハイトはドスの効いた声でベインに問いかける。


「お前の知っているケイナインって女が飢えで死んだらしいぞ」


 ベインは儚げな長い睫毛を下ろし、顔を背けて答える。


「それは・・・お気の毒なことでございました」


 ハイトの屈強な右ストレートが、思い切りベインの鳩尾を撃った。鈍い呻き声と共に倒れ込んだベインは、ミノムシのように地面を這いまわって逃れようとする。すかさずハイトの太い足が、思い切り背中を蹴り倒した。ベインは地面にワイシャツを擦りつけながら、電灯の照る方へと向かって行く。ハイトは片足で器用に力加減をし、彼を引き戻し、あるいは押し留めた。


 行き交う赤のテールランプに染められた靴先が通り過ぎる様で視界を一杯にして、ベインはヒィヒィと高い吐息を漏らした。


「お前みたいに人の心が分からないやつが、俺は大嫌いなんだよ。何でも他人事みたいに言いやがって。お前が蒔いた種ぐらい、お前でけりつけやがれ」


 少しだけ足が持ち上がると、ゴキブリのようなベインが表通りへと這い出していく。ハイトの右脚が勢いをつけて、ベインの脇腹へと迫る。狭い路地一杯を使った回し蹴りは、ベインをマンフグの外壁へと叩きつけた。


「・・・俺が腹立ててんのはさぁ、それだけじゃねえんだけど。わかる?お前さ、ずぅっと前から、いろんな女騙してきたんだよな?話聞いてみりゃ、お前らしい男の話が、路地裏のガキどもからもわんさか出てくるんだわ。やれ母ちゃんが家売った、やれ父ちゃんが首括った。お前にフラれた女が風俗で体売ったとかもあるらしいな。いい度胸してんなァ、お前よぉ!」


 鈍い打撃音が響く。ハイトの繰り返す長い長い説教と殴打の嵐に、ベインは言葉も声も上げることができない。それでも、彼は自分の『商売道具』だけは守ろうと、交差した両手で顔を覆い隠して受け止めた。


「ちょ、ハイトさん駄目です・・・!」


 徐々に通行人が集まってくる中、騒ぎを聞きつけたアンダーが慌てて駆け寄ってくる。彼は馬乗りになって暴力を振るうハイトを後ろから羽交い絞めにする。これに抵抗するハイトは、凄まじい力で腕を振りほどこうと試みた。


「離せ、アンダー!こういうのは痛い目見ないと分からないんだよ!」

「だからって暴力は駄目です・・・!捕まっちゃいますって・・・!」


 暴れ馬がそうであるように、ハイトは前後左右、縦横無尽に上半身をくねらせる。そのうちに、僅かに持ち上がった図体の隙間から這い出したベインは、二人と通行人から顔を隠すようにしながら狭い路地の奥へと消えていった。


 取り残された二人が、息を切らしながら互いの拘束を解く。ハイトは空に拳を打ち込み、荒々しい罵声をこぼした。


「ハイトさん・・・!落ち、落ち着いて下さい・・・!警察呼びましょう」


 少しずつ呼吸が落ち着き始めると、二人はゆっくりと立ち上がる。ズボンの裾にこびりついた汚れを払い落とし、互いに背を向けた。


「悪い。頭に血がのぼっちまった・・・」

「ほんとに、警察呼びますからね・・・」

「悪い・・・」


 周囲はすぐに関心を失くし、各々の向かうべき場所へと進んでいく。アンダーは深い闇が続く路地の奥に目を細めた。


「見失っちゃいましたね・・・」

「まぁ・・・これで懲りたろ。俺は一旦帰る」


 そう言って立ち去ろうとするハイトを、アンダーは静かに制止する。


「駄目です。警察は呼びます」


 ハイトはアンダーの腕を振り払い、「勘弁してくれ・・・」と声を荒げた。アンダーは長い間非難の眼差しを彼に向けていたが、深い溜息と共に思わず言葉を漏らした。


「なんで普通の人ってこんな・・・」


 ハイトはその声も聞かずに帰って行ってしまう。アンダーは両ポケットを探り、散々に尻や胸に手を当てて探った後、鞄の中を開いて携帯を取り出した。長い間画面とにらめっこした後、彼は苦虫を噛み潰したような顔で警察へと連絡を入れる。


 警察官が現れたのは数分後であった。ハイトもベインもそこには居らず、ぽつんと取り残されたアンダーに、警察官が事情聴取をはじめる。通行人は取り調べを受ける彼を一瞥して通り過ぎ、彼は何とも言えない居心地の悪さを感じた。

 周囲には彼らの痕跡はない。ただ、アンダーの証言通り、周囲に争ったような痕跡が見られたため、一通りの捜査が進められた。


「・・・それで、詐欺師の方についても、一応事情をお聞かせ願えますか」

「あ・・・はい。と言っても、俺は被害者ではないので、あまりお力にはなれませんが・・・」

「構いませんよ。続けて」


 アンダーはケイナインの話、寮に住む女学生の話を一通りする。警察官は簡単にメモを取りながら、細かに相槌を打っている。そうしてベインの香りや、おぼろげながら思い出せる容姿の特徴などを説明していると、警察官の一人が薄暗い路地の奥に目を凝らし、のそのそと歩いていく。アンダーは会話を止めて警察官を視線で追いかける。屈み込んで何かを拾った警察官は、それを持って暗闇の方から街灯の近くまで戻ってきた。

 彼は拾った書籍の表紙と裏表紙を確認し、事情聴取をする警察官に示す。


「『The Tale of Genji』・・・」

「『The Tale(源氏)of Genji(物語)』か・・・」


 アンダーは表紙を見て咄嗟に答える。警察官は目敏くアンダーの方を向いた。


「ご存じですか?」

「いえ、名前くらいですけど・・・」


 警察官は慎重に装丁をめくり、奥付を確認する。小声で「最近のはやりか・・・」などと語り合っている。アンダーはベインの詩的な言葉遣いを思い出し、そのままの言葉で検索をする。


「・・・あ」

「どうかしましたか?」


「詐欺師の人の持ち物かもしれません。その本の詩を読んでいたみたいなので・・・」


 検索結果を警察に提示する。顔を見合わせた警察官は、本を捜査資料の一つとして丁重に回収した後、アンダーに軽い会釈を返した。


「ご協力ありがとうございました。あとはこちらで受け持ちますので、どうぞ気を付けてお帰り下さい」


 アンダーは「ありがとうございます」と深く頭を下げる。警察官がパトカーに乗り込むと、回転灯を消し、ゆっくりと車線に合流していく。パトカーが見えなくなるまで見送った後、アンダーは手に持つスマートフォンでビッチにメッセージを送る。それから2分と経たないうちに、彼のスマートフォンはバイブした。


『渡せなかった』

『ばか。』


 それだけの応答だった。彼は思わず舌打ちを打ち、諦めて帰路についた。


※紫式部『源氏物語』「第4帖 夕顔」源氏5

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