誘拐
翌日、講義とアルバイトを終えたアンダーは、店の裏口から光を背にして歩き出した。眠らない町、ロータス・シティの中にあって、この狭い路地裏にある泰然とした暗色は、彼に未知への緊張感を感じさせた。ごみ箱を横切り、狭い道を進むと、ぽつぽつと、2つ並んだぎらついた光が壁沿いに幾つか連なっているのを目にする。近づくにつれてはっきりとした影と形を成し、それらが「人間」であることがはっきりすると、彼に向けられる好奇の目が、途端に恐ろしく思えた。
(荷物、バイト先に置いてきて正解だったな・・・)
彼が手ぶらでポケットも膨らんでいないと悟った瞬間、濁った目があちこちに散らばっていく。それでも、数少ない好奇の目が纏わりついてくるのを、彼は珍しく恐ろしく感じながら路地裏を彷徨った。
ロータリー沿いに放射状に広がった町並みであることに手伝ってか、建物と建物の隙間にある空間もまた、なだらかに屈折しているらしい。散乱したごみや、小石などを直に踏んだ感覚を覚えながら、彼は前へ前へと暗い道なき道を進んだ。
徐々に光が強くなり、視界が開けてくると、自分が次の大通り沿いに近づいたのだと理解し、一つの店舗を跨いで、再び光を背にして道を進んでいく。壁沿いに貼り付いた「明かり」に細心の注意を払いながら、ひたすらそれを繰り返していると、ある時不自然な動きのする壁沿いの視線を見つけた。彼は迷わずにその目に向かって行き、それが立ち上がって逃げようとするのを、腕を掴んで制した。
「・・・っ離せ!しつこいな・・・!」
周囲の目線が俄かに険しいものに変わる。昨日スリをした少年は案の定同じ服を着ており、よれよれに伸びた首元から、右の袖口にかけて指が隠れるほどの長さになっていることに気が付いた。彼は急ぎ少年を引き寄せると、そのまま体を固定する。抵抗する少年に腕を思い切り噛みつかれ、思わず声を上げた時、周囲の目線が一目散に自分から離れていったことに気づいた。彼はいつになく薄いポケットの中を弄り、飴玉を取り出した。
「いってぇ!おいこら、大人しくしろ!ほら、これやるから!」
少年の目線の先に、飴玉を晒す。そのまま少年を解放すると、アンダーの手から飴玉が奪い取られた。
少年は包装を乱暴に引きちぎり、口の中に飴を放り込む。がりがりと音を立てて噛み砕き、警戒心に満ちた鋭い視線をアンダーに向けた。
赤く噛み痕のついた腕を摩りながら、アンダーは目線を合わせて訊ねた。
「子供。家族は?」
「いねーよ」
「親とか、いないのか。警察呼んで保護してもらうけど」
「警察は呼ぶな!」
子供が叫んで逃げようとするのを、再び痛む腕で抱え込む。今度は足をばたつかせて抵抗するので、困り果てたアンダーはバイト先に向かって走り出した。
「・・・次はパピーが売られるぜ」
少年はそんな声を耳に挟んだが、アンダーは抵抗を抑え込むのに必死で耳に入らなかった。抵抗が激しくなるのをない膂力で抑え込みながら、子供をアルバイト先の裏口から休憩室に放り込んだ。
驚いたのは休憩に入ったケイナインである。突然扉が開き、見ず知らずのぼろぼろの少年が放り込まれたのだから。戸口から服を乱したアンダーが現れた時、彼女の目が驚愕を通り越した恐怖の色を帯びていたことは、想像に難くない。
アンダーは裏口の鍵を閉めて一息つくと、ケイナインの射すような視線に慌ててこう切り返した。
「あっ、えっ、これは、ちょっと違くてですね・・・。こいつに盗みを働かれたもんで、もしかして家出の子供かなと思って・・・」
「そういう趣味あったとは知らなんだ・・・。法廷画とかも依頼されれば描くけど・・・?」
「だから違いますって・・・!」
「お姉さん、こいつヤバイよ!」
形勢逆転を感じ取ったらしい少年が、ケイナインに縋り付いて叫ぶ。彼女が少年の顔を覗き込むと、怯えた表情で上目遣いをする。その視線が離れると、アンダーに向けてべっ、と舌を出して煽った。
腹の底から子供への苛立ちが湧きだすのを抑えながら、アンダーは更衣室へと入り、鞄の中からコンビニ弁当を手に取る。それを二人の前に差し出すと、「取り敢えずその子はこれを食え!」と叫んだ。
ケイナインが少年から手を離し、差し出された弁当を受け取ると、アンダーを睨みつけながら一口食べる。体に異常のない事を確かめた後、少年の前に弁当をずらした。
「とりあえず、話、聞いて下さいよ・・・」
アンダーの懇願に、彼女はそこに腰かけるようにと促した。
気まずい空気の中、少年の汚い咀嚼音が部屋中に響き渡る。
「えーっと、まず・・・。こいつは俺の鞄を盗もうとして失敗した。それで、どうやら保護が必要な子供らしいと思ってそうしようとしたら抵抗されて、この通り・・・」
アンダーは袖を捲り、歯型の跡をケイナインに晒した。少年がおかずをぼろぼろと零しながら「攫おうとするからだろ!」と非難の声を上げる。
一通りの意見を聞き終えたケイナインは、頭を抱えながら言葉を切り出した。
「まず・・・。そういう施設とかに連絡は・・・?」
アンダーはしおらしく首を横に振った。
「じゃあ人攫いじゃあん・・・」
ケイナインが唸り声を上げる。手づかみでおかずを口に運ぶ少年は、ケイナインの顔色を窺っている。しばらく居心地の悪い沈黙が続いた後、ついに意を決したケイナインが顔を持ち上げた。アンダーが姿勢を正す。少年は手についたたれを舐め取って彼女に注目する。
「わかった。そのままにしとくのも良くないし、私が連絡を入れておくから、暫く家に泊めてあげなさい・・・」
少年が顔を青ざめて、「やめて!」と叫ぶのを、彼女は構わずに電話を取り出した。少年はケイナインにとりついて電話を奪おうとする。しかし、彼女はそれを躱しながらその場で連絡を入れた。
受話器ごしに詳細を説明するケイナイン。それを、少年が追いかけては躱されている。その様子を、アンダーは息をのんで見守っている。応答は非常に事務的で、返事もどこか他人事のように聞こえる。追いつかれたケイナインが、少年の頭を手で抑え込んで話を続けている。
その中にアンダーが割って入り、少年を抑え込もうと試みた。その直後に、ケイナインが「はい、お願いします」と相手に伝え、通話を切った。
「バーカ、バーカ、ブス!」
「だれがブスだ、クソガキぃ」
考え得る限りの拙い語彙で罵詈雑言を伝える少年の頭を乱雑に撫で回すと、彼女は電話を置き、アンダーに真剣な眼差しを向けた。
「取り敢えず、明日の朝ここに来て、話聞いてくれるらしい。ここで話しづらかったら自分の家なりに案内して事情を伝えること!いいかい、アンダー?」
「はい、お世話かけました」
アンダーが深々と頭を下げるのを、彼女は微笑んで応じる。そして、猛り狂った猫のように声を荒げる少年の頭を掻き撫でた。
「ガキぃ、お菓子買ってやるけど、なんか食いたいものある?」
「ガキって言うな!パピーって呼ばれてんだ!」
「かわいー。じゃ、適当に買ってくるな。そしたら仕事戻っちゃうからな」
「かわいくねー!」
ケイナインは制服を着なおし、店内へと入っていく。しばらくして休憩室に戻ってくると、ポテトや菓子パン、チョコレートなどを休憩室に置いてすぐに仕事へと戻っていった。
パピーは前に置かれた菓子の山から、いかにも高カロリーのクッキーを取り出す。表面にはべったりとチョコが塗り固められ、背面はチョコレート生地と通常のクッキー生地で斑模様を描いているものだ。指ごと齧らんほどの勢いで、思い切りクッキーを噛み砕く。それを飲み込むより早く、二の矢三の矢を掴んでいる。その様子は、さながら頬袋一杯に餌をためたハムスターだ。
その様を、アンダーは頬杖をついて眺めている。視線に気づいたパピーが、怪訝そうに眉を顰める。
「・・・んだよ」
「よく噛んで食えよ」
「・・・バーカ」
それだけを言い捨てて、クッキーの袋を完食してしまう。さらに、個包装のチョコレートを口の中に放り込んだ。口を下品に動かしたまま、さらに菓子の山に手を伸ばす。しかし、さすがに飲み込みきれないのか、激しく咳き込んだ。
アンダーが「あーあー・・・」と呆れて声を零し、紙コップに水を注いでパピーの前に置く。パピーはそれを奪い取るように持ち上げると、やはり水を一気に喉の奥に流し込んだ。
「家出して何日なんだよ。親御さん心配してんじゃないのか?」
「両親なら俺の知らないうちに死んだよ」
「えっ・・・」
つり上がった鋭い目が、じっとりとした目つきでアンダーを睨む。
「親戚の家にいたけど、あいつら俺のこと嫌いみたい。だから家出して、ずっとあそこに住んでんの」
アンダーは何も言えずに、口をぽかんと開けて硬直している。彼は仮にも大学まで進学させてもらった身である、パピーの苛酷な境遇にフォローを入れる言葉を知らなかった。
しかし、少年はさらりと言ってのけると、そのまま菓子の山を漁り続ける。我に返ったアンダーは、声を震わせながら尋ねた。
「えっ、えっ。迎えに来たりとか、しないのか?」
「・・・そう言えば来ないな。まぁ、それまでのことなんだろ」
アンダーは思わず、「それ、ネグレクトだろ!」そう声を荒げる。目の前のボロ雑巾のような少年は、鬱陶しそうに口をへの字にして見上げてくる。鼻息荒く、アンダーは大きな鞄の中を漁る。激しく中を掻きまわして、苛立ちながら参考書を引っ張り出した。ようやく見つけた携帯電話を取り出すと、すぐにダイヤルを開き、警察署の番号をタップしようとする。少年は身を乗り出して、携帯を奪い取った。
「通報はすんな!」
「なんでだよ、違法行為はだめだろ!」
「それで戻ったって、俺が誰に歓迎されんだよっ!」
休憩室が凍り付いた。ひり付いた空気の中に、ケイナインが扉をうち開ける。
「うるさいぞー。店に迷惑はかけんなー」
彼女は、それだけ言って仕事へと戻っていく。一転して、気まずい沈黙が長く続く。個包装を開ける小さな音だけが、室内に響いた。
それからどれだけ経っただろう。裏口から店長が戻ってくる。アンダーは小さく会釈をした。
ケイナインの取り計らいのお陰か、店長も汚い服装の子供に何かを言うでもなく、黙って視線だけで彼を刺す。パピーは構わずに、すっかり小さくなった菓子の山から、キャンディーを摘まみ上げた。
暫くして、ケイナインが嬉しそうに戻ってくる。すぐに、休憩室の机上を見て、目を瞬かせた。
「もうそんなに食べたの!?」
飴玉を舌の上で転がすパピーは、嫌そうに彼女を睨む。アンダーは、「こいつ一人で全部食べました」と苦笑交じりに答えた。
少し切なそうに表情を曇らせたケイナインだが、すぐにパピーの頭に顎を乗せ、左右のこめかみをぐりぐりと弄り始める。
「お姉さんが食べようと思った分も食いやがったなー。お仕置きだ、このぉー」
「いって!やめ、やめろ、ウザい!」
彼女はぽかぽかと腕を叩かれても動じずににやにやしながら少年をいじり倒した。それをぼんやりと見つめる青年に、彼女は目配せをする。
男の合図かわからずにきょろきょろとするアンダーの手が、机に山積みにされたままの参考書を崩した。床の上に大きな音を立てて崩れ落ちた書籍を、慌てて片付ける。その様子に、向かいの二人はどっと声を上げて笑う。我に返ったパピーが、顔を真っ赤にして口を噤むと、頭上の顎が離れて温い手が彼の頭をそっと撫でた。
「あんなだけど、いい子だから。安心して休みな」
パンパンに膨らんだ鞄を膝に置き、ほっと胸をなでおろす青年を見つめ、少年はゆっくりと頷いたのだった。