食卓
参考書を頭にかぶり、机の上に手枕をして眠っていたアンダーが目を覚ました時、町は朝焼けに包まれていた。オコジョ二匹と並んで眠るパピーを起こさないように、忍び足で立ち上がる。冷蔵庫の中を開けると、そこには半分残ったもやしが輪ゴムで止めた袋に入っておいてあるだけだった。頭を掻き、ポケットの中を探る。前後ろ全てを確認し、不満そうに布団の上に戻ると、脇息代わりの鞄の中を漁る。比較的浅い層から発掘された財布を手に取ると、その中身を見るまでもなく、薄くなった外観だけを確認して項垂れた。
「安酒」なんてものはあの通りにある店には存在しない。そう学習したアンダーは、パンを一人分だけ食卓に用意して、再び机に向かった。
ノートを開き、一昨日よりほんの少しだけ進んだ議題に向き合う。大学が夏休みになってから分かるのは、自分にはやることがこれしかないのだということ。それは、アンダーの生涯で10年積み重ねた実証研究の成果だった。
パピーが目を擦り、起き上がる。
「おはよう」
「・・・ん。飯あるぞ」
アンダーは用意したパンを指差して言う。パピーは無防備な手で尻を掻きながら、食卓の前に座る。アンダーが気を使ってリモコンを渡すと、パピーはそれを黙って受け取った。
朝のニュース番組がロータス・シティ周辺の事件を報道している。急増中の詐欺被害は、老人に孫を装って電話を掛けるというものだった。
「なぁ、子供の声間違えたりするのか?」
「ああいうのは、気を動顛させることで、相手の判断力を失わせるのがミソなんだよ」
アンダーは消しゴムで回答を消した。大きな消しカスが、HBのシャーペンの導線の彼方に押しやられる。答えを書き直しつつ、彼は会話を続けた。
「詐欺師の考え方は基本的に、『不安にさせる』ことと『信用させること』だろ。そのどちらか一つが欠けても相手は正常な判断力を損なわないし、どちらかだけがあっても相手の決断を導き出すことは出来ない」
「そういうもんか」
「そういうもんだ」
パンを咀嚼するパピーの口の動きは極端に速い。音もたてずに、しかも殆ど噛まずに飲み込んでいるように見える。アンダーは問題をひたすら解き続けた、汚れた左手でパピーの背中を小突いた。
「ちゃんと噛んで飲み込め」
「ぅっ」
反射的に身構えるパピーのことなど気にも留めず、彼の左腕はすぐにノートの上に戻った。
「お前の飯は誰も取らないの」
パピーが行儀の悪い咀嚼音を立て始める。そのまま何があるわけでもなく、時計の針が11時を指差した。
「・・・あっ」
「あ?」
アンダーは急ぎ立ち上がる。彼の慌てた様子にパピーが振り返ると、アンダーはへこんだ鞄から財布と袋を引っ張り出していた。
「もうスーパーやってるから行ってくるな。留守番よろしく」
「ん」
パピーは興味を失くしてテレビに戻る。現実では起こりそうもない恋模様が、情感たっぷりのBGMと共に放映されている。手荷物の全てを強引にポケットに突っ込んだアンダーは、突然思いついたようにパピーに声を掛けた。
「お前って、スポーツとかするの?」
「そういや考えたことも無かったな」
パピーはぽかんとした様子でアンダーを見つめてから答える。
路地裏生活が板についてしまっているうえ、ロータス・シティには公園も少ない。空地はあるにはあるが、工事中であったり、入念に侵入者を排除しようと簡易の柵で囲まれており、あまり広い空間はなかった。そのことにアンダーが思い至ったのは、パピーとの同棲生活がようやく日常の出来事として受け止められたためである。
「体動かしたくないか?」
しかし、パピーは難しそうに眉を顰めた。
「寝て起きて飯食える生活が一番贅沢なのに?」
「うわ、じじいかよ。体なまるぞ?」
「じゃあ買い物くらい一緒に行くか」
パピーはのそりと立ち上がる。テレビのリモコン操作も、すっかり慣れたものである。
「いや、ボールとか買ってやろうかと思って聞いたんだが・・・」
「一緒にやる奴いないじゃん。壁とやってろって?」
「友達作れよなー」
「その言葉返すよ」
襤褸切れのような服から、彼の一張羅となった黒い服に着替え、ポケットに手を突っ込んで歩く。パピーが側にやって来ると、アンダーはポケットに入れた手を無理矢理引っ張り出した。
「転ぶと危ないだろ」
「・・・はいはい」
気だるげに答えるパピーが、先行して扉を開けた。アンダーは抜き忘れたテレビのコンセントを乱暴に引き抜くと、指差し確認をしてから外に出て、扉の鍵をかける。
「お前に予備用の鍵作って渡しとくわけにもいかないしなぁ・・・」
アンダーはそう呟きつつ、ポケットに鍵を仕舞った。そして、二人は何を話すでもなく、近所のスーパーへと向かう。
こと食料品に関しては、メガロータスは高くつく。いいものは高い。至極当然のことであるが、あの場所は本来そういう客層のための場所なのである。
徒歩で歩くこと15分、平屋建ての狭いスーパーに、二人は入店する。アンダーは取り敢えずもやし売り場に向かい、2袋を買い物かごに放り込んだ後、すぐ隣の棚にある麺を同じく2袋かごに放り込んだ。
パピーはうろうろと野菜コーナーを行ったり来たりしては、アンダーのところへと戻ってくる。迷わずに安いものをかごに入れ続けるアンダーのかごの中を覗き込む。
「そんなに買ってお金大丈夫?」
「今月は赤だなー」
「赤・・・?」
「赤字、貯金が減るってこと」
「水出るんだから二日ぐらい食わなくても生きて行けるぞ」
パピーは悪びれる様子もなく言う。アンダーは何も言葉を返せなくなり、パピーの頭を乱暴に撫でた。
彼は抵抗こそしたものの、その手を強く払いのけることはしなかった。
スーパーの入り口には、まず旬の果物がある。二人はそれを手に取ったことはないが、家族連れが入念に鮮度を見ながら果物を買っていく様は、通りすがりに見ることがあった。パピーはこの家族と同じように、時折そういう家族の姿を見に行っては、アンダーの傍に戻り、そしてまた彩りの鮮やかな商品を見に行った。
アンダーはそれに気づく素振りも見せないが、子供が美味しいものを食べたいと思うのはごく自然なことであるから、パピーが家族連れを見にどこかへ行っているのだとは露ほども思っていなかった。
やがて、二人はレジに回る。11時15分ほどに入店し、会計に並ぶ際には35分になっていた。人の数は疎らだが、レジにも家族連れは多い。それは夏休み期間という季節柄仕方ない事であったが、少年の心には穏やかならざる思いもないではなかった。
レジ打ちをする店員が、三度目のお辞儀をするまで、パピーは会計へ進んだ家族連れのお菓子を優先でレジ打ちして、子供に返してやる店員の姿を見つける。その様子をぼんやりと眺めていることに、アンダーがはじめて気づく。はじめはお菓子のことだろうと無視していたのだが、会計を済ませ、お菓子を食べている子にあれこれと注意をする母親が、袋詰めをする姿までを見ていることに気づく。さすがに鈍感な彼であっても、パピーのその仕草に胸をえぐられる思いを察しないわけにはいかなかった。アンダーはレジへの打ち込みを続ける店員に見えないように、パピーの肩にそっと手を置く。
「家帰ったら、飯作るの手伝え」
「は?めんどくせ」
ちょうど母親と子供ほどの身長差があるので、パピーは上目遣いでアンダーを見て、唇を尖らせる。アンダーには、その表情がどうしようもなくいじらしいものに思えた。
店員が金額を言う。アンダーは財布からポイントカードと共に、お金を出した。レジの中に金が吸い込まれていく。ますます薄くなった財布をポケットにしまい、パピーに笑いかけた。
「袋詰めるのも手伝えよ」
「はいはい・・・」
二人は家に帰ると、冷蔵庫に商品を仕舞い、使いかけのもやしの炒め物と、妙に味の濃い卵焼き、そして酸っぱいシーザーサラダを作った。いつになく豪華な食卓の前で、二人は兄弟のように息を揃えて手を合わせた。
それがいつになく嬉しいと思うのは、誰よりもアンダー自身にとって不思議な感覚だった。




