喧噪
それからしばらくというもの、アンダーとパピーの生活は穏やかそのものであった。アンダーは大学とアルバイト、自宅の往復を繰り返していたし、パピーもアンダーの帰宅までは自宅で籠もり、時折二人で日の沈むまで公園でのんびりと過ごした。パピーは子供の割には運動神経が良く、アンダーよりもだいぶ体力があるが、一方でアンダーは大学生とは思えない運動音痴ぶりで、大抵パピーが一人で遊んでいる姿を遠くから眺めているだけだった。
時折、メガロータスに行っては、日用品を手分けして買い物するようにもなり、その際には二人で一番安いハンバーガーを買うようになった。
そうしてしばらくの時が流れ、アンダーが期末試験の呪いからようやく解かれたころのことである。
テスト明け最初のアルバイトの終わりに、ロータス・シティのネオン街をゆっくりと歩いていると、アンダーはふと、パピーを捕まえた路地裏の近くを通りかかった。
相変わらず陰惨とした雰囲気のビル間には、不気味に白く光る目が幾つか行儀よく並んでいる。
(あいつが特別なわけじゃないんだよな・・・)
ふと、心の中にそんな考えが過った彼は、鞄を駅前のロッカールームに預け(割高だが、この町の中では比較的安全とされる場所であった)、スラム街へ通じる路地裏を歩くことにした。
一歩踏み出せば、繁華街の明かりがすぐに見えなくなり、視界の四隅にぼんやりと闇がかかったような、不気味な雰囲気が漂い始める。
(ああ、あいつが過ごしていたのは、こんなに暗いところだったのか・・・)
さらに奥へと進んでいくと、足元で何かが蠢くのを感じられた。彼が青ざめた顔で視線を下ろすと、暗い闇の中に、大きな白眼と青い瞳がある。明らかに小さくはないそれは、アンダーの顔をじっと見上げ、膝を抱いて座っている。
「す、すいません・・・」
アンダーが謝罪しても、何を言うでもなく、ただ、どこか落胆した様子で頭をもたげただけだった。
背筋が凍り付くような緊張感で一歩を踏み出すと、壁伝いに小さなものが走り去っていくのを目の当たりにする。彼は驚愕して飛び上がったが、それは逃げるネズミであった。胸をなでおろしたのも束の間、背後から大きな影が迫ってくる。咄嗟に振り返ると先程の不気味な影で、アンダーの横を素通りしてネズミを追いかけていった。
心臓が止まるほどの危機感に、身を竦ませ、動揺を抑えるために深呼吸する。しばらくすると、再び先程の影が息を切らせて彼の横を通り過ぎていく。黄ばんだ歯で痙攣したネズミを咥えながら。
闇の中で異様に強調された白目から、ぎろりと青い瞳が彼を睨むのを、怯えながら見送る。自然と足が震え、彼は恐怖のあまり膝から崩れ落ちた。底知れない闇を纏った人影は、アンダーの事など気に留めることも無く、すぐに闇の中へと身を隠してしまった。
耐えきれずに心臓の鼓動が早まるのに任せて、暗いビルとビルの隙間を駆け抜ける。壁に寄りかかった、ボロ雑巾のような子供の遺体に蝿が集っている様や、服に汚れのないアンダーを狙う闇の中のぎろりとした目線を振り払うように目を閉じたまま僅かな光の射す方へと走り抜けた。
瞑った目の中に、眩しい七色の光がわずかに感じられるようになり、彼は恐る恐る瞳を開ける。
都会の喧しさ、うるさいほどのネオンの輝き、電飾の微かな音、首に提げたネックレスの輝きが視界に広がる。
「・・・ここって」
アンダーははじめてみる光景に困惑し、しかし頭の片隅にあるよこしまな知識が先程とは違う心臓の高鳴りを引き起こした。
突然、自分の脇にくさいくらいの香水のにおいが迫ってくる。腕に抱きつかれ、高揚とも恐怖とも判然としない興奮に、彼の全身が硬直した。
「ねぇー、お兄さん、遊ぼうよー」
「い、いまお金ないから、ごめんっ!!」
アンダーは慌てて手を振りほどき、逃げるようにその場を後にした。
きわどい衣装、目に映るいっぱいの色気、際立った香水が混ざり合う嫌なにおい、通りかかる紅梅の薫り、吊られる男や突き放す男、目に余る若い女達、スマートフォンを片手におじを待つ少女が群がる噴水広場・・・。彼には、流れる光景の全てがピンク色に見えた。一目散にここから逃れたいと、必死にロータス・タワーのロータリーを目指す。客寄せの男性が彼の前に立ちはだかると、側溝すれすれを渡って逃れ、青い光を放つ巨大なビルへと迫っていく。
ようやく風俗街を抜けた時、アンダーは体中の筋肉痛に耐えきれずその場に蹲り、息も絶え絶えになりながらビルの壁にしがみついた。それを支えにして歩く彼のことを、通行人は不思議そうに眺めている。
その日、彼が帰宅するなり玄関先で倒れ伏したのは、言うまでもないこと。




