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負犬物語 -スラム・ドッグス-  作者: 民間人。


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橋姫

 降りしきる雨の下、画材が濡れないように軒下に広げながら、必死に筆を執る。通りかかる人がケイナインに興味を示すことも無い。この町には、『そういう人』はごまんと住んでいるのだから。


 横風が吹き、雨が吹きかかると、キャンバスの上を滑り落ちた雨粒が、幽玄のネオン街をふやけさせた。滲んた絵具が絵の中に大きな染みを作り上げると、彼女は慌てて拭き取ろうとした。そうして、小さな染みの筋道は、大きな水溜りのようになって、大都会の中に大きな曇りガラスが浮かび上がったように広がった。


 行き場のない怒りと焦燥は、彼女を凶暴にする。濡れた手でキャンバスの角を激しく打ち叩き、ぼろぼろと涙をこぼした。


 ちょうどこの絵のような人生だった。彼女は湿った筆を掴んだ拳を絵へと叩きつけた。行き場のない感情が霧のように漂い、手に触れようとすれば醜く歪んでしまう。ちょうどそのように、掴めもしない栄光を求めて当てもなく彷徨うのは疲れた。


 打ち付けた拳がキャンバスをへこませ、窪ませ、やがては破ってしまう。そうすれば、打ち破った絵画の外側には、喧しいネオン街だけがあった。

 そこでは、排気ガスの醜いにおいと、自分にとって何者でもない人だけが、早足で通り抜けていく。画材の内側から見た世界に向けて、ケイナインは訳の分からない笑い声をあげた。


 理由もなく虚しく思った。自分の今の在り様がおかしくって、笑いが止まらないのだ。一時間も二時間も笑い転げるのは危険だと、どこかで見たことがあったが、彼女の意思では止めようがなかった。


「そりゃそうだ、そりゃそうだ、そりゃそうだ・・・!私、なーんにもなかったなぁ。なーんにも、なかったもんなぁ・・・!」


 向こう側にキャンバスに顔を埋めるように絵を描く同志が見える。実際には、それはサイドミラーに映った自分だった。


 アンダーの言う通りだった、とどうして認められなかったのだろうか。今更になって、自分に都合の良い奇跡のような出会いなどないと、どうして思いつくことになったのだろうか。何故、今までそこに思い至らなかったのだろうか。自分自身に呆れ果てて、笑うしかなかった。


 そうしているうちに、眩暈がして、地面に倒れ込み、笑い転げた。異変に気付いた人々が集まってくる。もう視界には狭いビル間街の暗い空しかなかった。それでも、彼女は金も食料もない自分が、ただ滑稽で仕方がなく思った。遠くで自分の名前を叫ぶ同僚の声がするのが聞こえた。そして、道路を挟んだ向かいのビル間から、ほのかに紅梅のにおいがした。


 彼女の目がひん剥いたまま動かなくなり、心臓の鼓動がぷつり、と糸が途切れたように止まる。彼女の倒れた衝撃で絵画は水溜りの中に落ち、新品の上質な絵の具が周りに散乱した。パレットの上に置かれた絵具の色が水溜りの中で混ざり合い、ゆっくりと、雨水に滲んだ都市の絵画へと迫っていく。

 傘もささず、制服のままで町へ繰り出したアンダーが、彼女のもとへと辿り着く。彼は集まる野次馬をかき分けて、既に動かなくなったケイナインを抱きかかえて叫んだ。


「なにやってるんですか!?すぐに救急車呼んで!!」


 ようやく周囲が動き出した時には、蝋人形のように固まってしまった彼女の瞳は、すでにくすんだビードロに成り果てていた。

 アンダーは彼女の肌をはだけさせ、知り得る限りの蘇生処置を施す。背中で感じる野次馬の視線の中を、馥郁と匂い立つ紅梅の薫りが通りかかるのを感じた。


「『おぼつかな 誰に問はまし いかにして はじめもはても 知らぬわが身ぞ※』 」


 男はそう呟いて、素知らぬ顔で彼らの背後を通り過ぎていった。



挿絵(By みてみん)

※紫式部『源氏物語』「第42帖 匂宮」、薫1

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