会議
それから数日間、アルバイトの時間が来るたびに、ケイナインは自分が食事をとっていないことに気づくようになった。朝から晩まで、彼のことを思って筆を執る日々に、空腹を忘れる思いがした。しかし、仕事だけは止めることはできない。男が自分の個展を開くために、額縁やプリントアウトした絵の用意をしてくれたからだ。カタログの絵は全てきちんと印刷されていた。額縁は安っぽいものだったが、それでも自分の絵が収まれば悪くない気がした。もっと良い絵を描くためにと、彼は路地裏にあったプレハブ小屋を使って良いと言ってくれた。彼女は風雨をしのぎながら、絵を描くことのできる環境に強く感謝した。
彼女にとって、その一週間はまさに夢のような日々だった。アンダーとシフトが被ったある日、通勤するなり、アンダーが血相を変えて近づいてきた。
「ケイさん、さすがにやばそうですよ!ちょっとお休みした方がいいんじゃないですか・・・!」
配慮のない男の、姦しい声に眩暈がした。しかし、あの男の言っていたことを思い出すと、彼の心遣いなのかもしれないと、温かい気持ちになった。
「大丈夫、大丈夫。大事な時期だからさ」
アンダーは口をパクパクさせながら反論を探していたが、やがて意を決したように店内に出ると、パンと牛乳をレジに運び込んできた。
「ちょ、アンダー、仕事中・・・!」
ケイナインは職務怠慢を諫めようとして歩み寄ったが、足がもつれてまともに歩くこともままならなかった。
アンダーはそのままレジの中に入り、自分でレジ打ちをする。そして、ポケットから財布を取り出すと、レジスターを開いてそこに直接現金を入れていった。
目に怒りを燃やしながら、アンダーはケイナインを休憩室に押し込む。そして、パンと牛乳を彼女の目の前に置き、向かいの席に座った。
「ちょっ、ほんと、サボりとかないから!私お金に困ってるしさ、働かないと・・・!」
「黙って食え!!」
アンダーは天板を割らんばかりの勢いで机を叩く。腕組みをしてケイナインを睨みつけ、食事を口に運ぶのを見張っている。ケイナインは身を窄めて、消え入りそうな声で「乱暴だな・・・」と呟いた。アンダーはやはり怒りを滲ませながらも、いくらか落ち着いた口調を取り戻して言った。
「いいですか。これは職務上の必要なミーティング・タイムです。来店音が鳴ったら俺が出ますが、それを食べ終わるまでここで見張りますから。サボりじゃなく、必要な『会議』ですから!!」
アンダーはわざとらしく貧乏ゆすりをして、彼女を圧迫した。渋々パンを手に取ったものの、手に力が入らず、取りこぼしてしまう。すかさずアンダーが隣に席を移し、机の上に落ちたパンの一切れを痙攣するケイナインの口元へと運んだ。
みち、みち、と粘つくような咀嚼音がする。彼女の乾燥した唇には、罅割れた皮膚が浮き上がっており痛ましい。口元に食べ物を運びながら、アンダーは彼女に諭すように話しかけた。
「俺はあなたがどんな方と付き合があるのかは知りません。ですが、こんな姿になるまでケイナインさんに我慢を強いる方が、あなたのために行動しているとは思えません。休め、とは言いませんが、せめて食事だけは摂って下さい」
ペットボトルに水道水を入れただけのものを口に運ぶと、痙攣する唇がそれを咥えようと開閉を繰り返す。しかし、うまく飲み口を咥えることができず、ほとんどが唇の端から零れていく。アンダーは悲痛な思いが込み上げて、台拭きを手に取り、音が鳴るほど強く机を磨いた。
濡れた机に反射した自分の顔を見て、ケイナインははらはらと涙をこぼす。頬がこけ、堀が深くなってみえる。おっとりした垂れ目は空虚さを表していた。制服が不釣り合いに見えるほど、細く骨の露出した細腕。よく見れば、バイト用のワイシャツにも、滲んだ絵具が沁み込んでいる。オーバーオールで隠していた腹のあたりまで、飛び散った絵の具の色でマーブル模様を作っていた。
「気長に過ごしていたら・・・まだ、足りないの」
「充分足りてます。充分です」
「・・・実らなきゃ意味がないでしょ」
「あと一歩なんだから、今急ぐ必要なんてないんですよ」
嗚咽交じりの告白に、アンダーはあくまで冷静に言い放つ。不安に満たされた彼女の心を覆すには、自分が揺らいではいけない、そう思ったためだ。
目の前の頼りない女性は目にいっぱいに涙をためて、眉間一杯に皺を寄せている。剥き出しにした歯が自分のそれよりも黄色いということに、アンダーは言いようのない感情を抱いた。
店舗に入店音が鳴く。アンダーは急いでカウンターへと戻った。ケイナインのうつろな瞳に映った防犯カメラには、いつものがたいの良い男の姿が映っている。
「これ以上・・・待てないよ・・・!」
ケイナインはふらつく足で立ち上がると、老婆のように腰を丸めながら、壁伝いに店舗の裏口へと向かって行く。
会計を済ませてアンダーが休憩室に戻った時、机の上には、パンと、水を垂れ流して倒れるペットボトルだけがあった。
「あの人はぁ・・・!」
一も二もなく、アンダーはその場を飛び出した。




