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負犬物語 -スラム・ドッグス-  作者: 民間人。


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望月歌

 絵を描くということ。自分を表現するということ。それは、ケイナインにとって命より大切なことだったかもしれない。

 ロータス・シティの大通りに赴き、路上にシーツを敷いてその上に小さなスタンドを立て、そこに見本のイラストを飾る。そして、彼女はシーツの上に直接座り込んだ。左手をイーゼル代わりに、まだ人の往来が少ない町の風景を描く。その日の風の色は澄んだ水色だった。


 ビジネスマンが動き始めるころになると、自動車の排ガスの耐え難いにおいと、彼女のシーツを土足で踏んでは通り過ぎていく人が現れる。彼女はさりげないくシーツを持ち上げ、スタンドを街路のわきに寄せて、この巨大な人ごみが通り過ぎるまで立って待機した。


 雑踏が通り過ぎると、焦げたアスファルトのにおいが残る。次には観光客や学生などが、大通りをまばらに埋めていくことになる。彼女は再びシーツを敷きなおし、スマートフォンやカメラをぶら下げている人に目立つように、少し見本を前に出して待機した。


 横目で、踏み出す足の数を数える。スニーカーや革靴、ブーツにサンダルまで、数多の足を流し見ながら、彼女はそれらをすべて一枚の紙面に収めた。アスファルトを踏むとりどりのスケッチが、もどかしそうにそこに収まっている。そして、色鉛筆を取り、白い地面に影を落とす靴に、命を吹き込んでいく。


 一人の観光客が彼女の前で足を止めた。カタログを手に取り、パラパラとめくる。高揚感に任せて顔を持ち上げると、観光客はカタログをシーツの上におろして去っていった。


「・・・あらら」


 苦笑いをこぼし、彩色を再開する。彼女の前をいくつも靴が通り過ぎたが、つま先を彼女に向けてくれることすらなかった。


 そして、食事もとらぬ間に夜が更ける。今宵の空には霞がかった月が瞬いている。欠け行く月明かりを遠い目で見つめながら、彼女はぽつりとつぶやいた。


「・・・お腹空いたなぁ」


 ポケットの中を探ると、飴玉を一つ見つける。それは、以前バイト先で保護した少年にもてなした菓子の一つだった。包み紙を開き、口の中に放る。空腹には激しすぎる強い砂糖の甘味を、公園の水飲み場で汲んだ水で流し込む。頭上ではいかがわしい店の主張の強いネオンサインが灯り、彼女の頭上を照らしている。「よし」という小さな声は町を包む雑踏に揉み消された。


「あ、ケイさん」


 聞きなじみのある声が空から降ってくる。顔を持ち上げると、そこには普段より鞄の大きいアンダーの姿があった。


「あ、アンダー。こんばんは」

「お疲れ様です。順調ですか」


 アンダーの質問に、肩をすくめて見せる。アンダーはシーツの前で屈みこみ、見本を覗き込みながら続けた。


「例の人は?」

「うーん、まだだねぇ・・・」


 ケイナインは困ったように笑う。真面目一辺倒という顔で、アンダーはカタログに手を取った。


「あっ、そうだ。これ、パピーがどうしてもお礼したいって」


 そういうと、アンダーは鞄の中を漁り始める。何度も繰り返し鞄のあちこちをまさぐり、ようやく目当てのものを見つけて、それを取り出した。

 小さな包みにくるまれた、三等分ほどに切り分けたらしいコッペパンだった。


「プレーンですけど・・・」

「助かるぅ!あのガキ、いいとこあんじゃーん」


 ケイナインはコッペパンに食らいつく。わずかな量であったが、胃袋は小躍りするように喜んだ。


「昨日さぁ、アンサーさんに二万出しちゃったからさー」


 世間話のつもりで語りだしたとき、アンダーの表情が曇った。同じほどの身長しかない彼が、彼女をにらみつける。


「それ、やっぱり詐欺ですよ。騙されてます。すぐに警察に・・・」


 鞄を漁り始めた彼の頬に、ケイナインは思わず平手打ちを打ち込んだ。


「・・・なにを」

「これが、最後のチャンスだったらどうするの!?私がどれだけ待ってたのか・・・わかっててそんなこと言うの!?」


 道行く人が初めて彼女の前で足を止めた。思わず滲む視界の中に、面白そうに口角を持ち上げる野次馬たちの顔が映る。アンダーの顔は欠け行く月にも似て見えそうにない。


「・・・私がっ!どんなにたくさん描いてきたのか!あなたは姿も知らないでしょうけど、どんなに苦しい思いを抱えて生きてきたか!」


 ほとんど遠吠えのような悲鳴が甲高く響く。外野の中からパシャッという撮影音が聞こえた。呆気にとられるアンダーの胸ぐらをつかみ、ぶるぶると前後にゆする。


「ねぇ、答えてよ!勉強もダメ、運動もダメ、やっと出会えた転機だったの!私には、他に何もないの・・・!それなのに・・・」


 誰も、見向きもしない。彼女には、そう言葉にはできそうになかった。発してしまえば、自分が改めて空っぽの命だと思い知らされる気がしたから。

 やり場のない感情とともに、彼女はアンダーに彼の鞄を押し付けた。


「帰って!もう、私に近づかないで!」


 アンダーが何かを言っても、彼女には聞こえなかった。瞳いっぱいに涙をためた視界にもアンダーは映らなかった。鞄を半開きにしたまま、アンダーが逃げるように立ち去っていくと、同時に野次馬たちの好奇の目も去った。それがたまらなく悔しく感じられて、ケイナインは一人、月に吠えるように泣いた。



 夜が更け、涙も枯れ果てた頃、ケイナインの選りすぐりの作品カタログはすっかり萎れていた。一人うすぼんやりと霞のかかった月の影を見るともなしに見上げる。ただ、やかましいネオンサインだけが、彼女をあざ笑うように見下ろしていた。


 それからどれほど経っただろう。仄かに匂い立つ紅梅の薫りが香ったのは。行き場のない視線が、ゆっくりと匂いのほうへと向かう。彼女の充血した瞳の中に、欠けるところもない青白い月が、物憂げな表情でたたずんでいた。


「ああ、よかった。何か騒ぎがあったと聞いて、心配したのですよ。ご無事で何よりで・・・」


 ケイナインは一も二もなく男に飛びついた。震える背中を優ししくさすられて、こみあげてきた不安が一気に決壊した。


「アンサーさんは、詐欺師じゃないよね?私をだましたりなんて、しないよね?」


「『心いる かたならませば ゆみはりの 月なき空に まよわましやは※ 』」


 そう静かに語りかけると、男はケイナインの御髪をかき撫で、物憂げな瞳を同じようにうるませながら、静かに抱き寄せた。


縋りつくものもない夜の深い闇の中で、馥郁と漂う紅梅の香り。抱き合うほどに匂い立つ言いようのない薫りは、彼女の心を満たし、霞がかった夜半の月よりもずっと心強く瞬いた。


「それで、ケイナインさん。どうかご無理をなさらぬように。心ならずも人が人を傷つけるのは、人の世の常というものです。どうかお心を強くお持ちになって、私に、美しいものをお見せくださいませ」


 ケイナインはスケッチブックを手に取り、昨夜の絵を見せた。物欲しげな二つの視線が交わるあの絵を。その絵に目を落とし、男は恍惚としてため息をこぼした。


「・・・まことに美しい。しかし、それは、お心におしまい遊ばせ。きっとあなたの助けになりましょう」


 彼女はスケッチブックを強く握りしめ、再びさめざめと泣いた。涙にふやけたカタログを指し示した。


「例の個展で使えそうな絵を選んだんです。つまらない見本ですが、どうか受け取ってください」


「ありがとうございます。それで・・・」


 言葉を続けるまでもなく、ケイナインは財布を取り出して1枚のお札を手渡した。それを細くしなやかな手で摘まみ上げると、男は目を細めて笑いかけた。


「貴方がこうして私に託してくださる夢の数々に、どうしてこれほど胸が痛む思いがするのでしょうか」

「貴方がそう思ってくださる限り、私は平気です」


 二人はその後長く見つめあい、静かに肩を寄せ合った。二人を無視して月は傾き、人がそれに向かって流れていこうとも、ただ青い月に寄り添う幸福だけが、ケイナインの無垢な心を満たしていく。


 ふやけたカタログを大切に指先で撫でて伸ばし、男がそのページを捲る。その絵のどれにも、翳りのない月が空に瞬いて、ビル間に吹く青い風を見守っていた。


紫式部『源氏物語』「第8帖花宴」、朧月夜2

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