事始(ことのはじめ)
これはいつの、どの指導者の頃だったろうか。
気だるげな生あくびと共に、交代時間を告げるベルが鳴り響いた。男はレジ越しに壁掛け時計を眺めながら、交代するはずのスタッフが来るのを待っていた。
「ケイさんは今日も遅刻かぁ・・・?」
眼鏡を直し、静かにため息をこぼす。入店音が鳴り響き、帰宅する高校生たちがホットスナックや菓子を買いあさっている。
残業を覚悟したアルバイトの男、アンダーは、レジに立ったままそわそわと貧乏ゆすりをした。
アンダーは、法学を専攻する大学生である。このロータス・シティにやって来たのは、今から2年前のことだ。はじめの頃こそ輝くばかりのネオン街に胸を躍らせたものだが、本業を真面目にこなしていると自然とそれらとは疎遠になる。真面目そのもので、大学の成績も悪くないのだが、生活費は自分で稼ぐと決めており、アルバイトと学業で、遊ぶ時間はあまりない。『花の大学生活』というには少々寂しい生活を送っていた。
とはいえ、特別な不満もない。生活は苦しいが寝食には困らないし、大学の図書館で調べ物をし放題の日々は、彼の性にはあっていた。
「ありがとうございましたぁ」
学生達の会計を済ませた次の入店音を聞くなり、アンダーはじっとりとした目つきで入店者を睨みつけた。
「ごめぇん!遅れた!」
絵具で汚れたオーバーオールの下にバイト用の白シャツを着こんだ女性が、息も絶え絶えにアンダーに近づいてくる。縋り付くように肩に手を掛けて、体を支えてもらいながら、謝罪を述べた。
「ケイさん、どうも。5分の遅刻ですよ」
「すぐ着替えてくるから、もうちょっと待っててね・・・!」
アンダーは黙って頷き、女の背中を叩いた。彼女、ケイナインは慌てて荷物を振り回しながら更衣室へと入っていく。その後ろ姿を見送ると、アンダーはレジ周りの商品を整え始めた。
(多分今日の遅刻は収穫があったんだな・・・)
レジ前のガムを綺麗に整列させ、ホットスナックの補充をしていると、ケイナインが制服に着替えて戻ってくる。大きなキャスケットを脱いだばかりの髪は静電気で乱れ放題になっている。
アンダーは髪の毛を整えてやりつつ、引き継ぎの連絡などを済ませた。
「・・・まぁ、そういう訳で、お願いします。今日は収穫があったんですか?」
ケイナインは親指を立ててウィンクをかます。
「ふふん、聞いてくれ坊や。二人も似顔絵を描いたんだ」
「へぇ、多いですねぇ。それで遅刻したと」
アンダーの皮肉に、先程までとは打って変わって、彼女は萎びた表情を見せた。力のない謝罪の言葉に対して、アンダーも「まぁ、良いのですけど・・・」と優柔不断に応じる。彼は夢の為の一歩ということで祝福しておこうと考えを改めつつ、あくまで事務的に、交代に応じるのであった。
「じゃ、そう言う事で・・・。よろしくお願いします」
「お疲れさまー」
彼は休憩室を素通りし、男子更衣室へ入る。室内は小さめのロッカーが三段に積み上げられており、手前から二つ目の中段の扉を開けた。扉の中には無理矢理詰め込まれた大きなエナメルのバッグが入っており、彼はこれを思い切り引っ張って、取り出した。鞄の中からチェックのワイシャツと裏地が紫と紺のチェック柄をした、黒いパーカーを取り出した。制服を乱雑に鞄の中に捻じ込むと、彼はいそいそとシャツを着こみ、パーカーを羽織る。
四角い眼鏡を掛け直すと、いかにも弱者男性然とした装いの私服姿が出来上がった。
私服で裏口から外に出ると、大きな粗大ごみ用のごみ箱を横切って、表通りへと出る。彼の装いには似つかわしくない、煌びやかなネオンライトに頭上を照らされながら、彼はあれこれと考え事を巡らせた。
講義の内容を繰り返し脳内で再生しては、些細な疑問を見つけ、それについて深く考え込む。道中の呼び込みや喧噪には目もくれず、ただ、学んだことを繰り返し脳内で咀嚼するのが、彼の帰路の習慣であった。
もっとも、それを翌日には忘れてしまうのだから、この男の能力は一向に向上することはないのだが。
街に人が溢れ返る午後6時の喧騒が、徐々に町を染め上げていく頃、彼は思い出せない単語にぶつかり、ちょうど手の位置にある鞄のチャックを開けた。
企業法務の参考書を手に取った瞬間、背後からものすごい勢いの何かが、彼の鞄にぶつかってくる。体が自然と鞄に引っ張られて、頭から転倒した。
参考書だけを持った彼はすぐに、肩が身軽になっていることに気が付いて、本を手にしたまま痛む肩に触れる。温い手の温度が直接首筋に触れた瞬間に、彼は周囲のことも憚らずに叫び声をあげた。
「窃盗だぁっ!!」
彼は人混みを押し退けて進み、鞄の中から零れ落ちた荷物を拾い上げて進む。幸か不幸か、彼の鞄の中には大量の資料が詰め込まれており、犯人はそれをうまく持ち上げることができずに取りこぼしたようであった。資料の総額は、実に7万円。落とされていたのは、一日分の教材に加えて、雑多な歴史書、ハードカバーの中世史の専門書、訳の分からない動物の図鑑など、どれもこれも彼の大切な資料の類である。そのラインナップを見た時、彼の心はあらぬ方向に火を点けた。
「人の大事な所有物を棄損するなんて、不法行為には正当な権利を主張してやるぞ!!」
周りが道を開けるほど(傍から見れば恥ずかしいほど)の剣幕で、彼は開けた視界の中に自分の白いエナメルバックが動く様を見つけて駆けだした。体がすっかり身軽になった彼は、僅かに痛む肩を不格好に振り回し、路地裏へ逃げていくバッグの掛け紐を掴んだ。
「おぉぉぉぉ!窃盗犯や、良くもまぁ大事な資料に傷をつけてくれたなぁ!」
そう言って鞄を引っ張り奪い取ると、窃盗犯は転倒して体を擦った。アンダーが地面に伏した窃盗犯の姿を確かめる。
「子供・・・?」
今まさに顎を地面に打ち付けた窃盗犯は、自分とは20センチは身長の差がある年端もいかない少年であった。ぼろぼろの衣服は成長期のために伸びた身長に見合っておらず、恐らくは長袖長ズボンであろう衣服から僅かに脛や手首が覗いている。乱れ放題、伸び放題の髪はひどい異臭がし、転倒の際に傷口についた小石の跡まで、黒ずんでいるように見えた。瞬時に保護の必要性を感じたアンダーが少年に声を掛けると、窃盗犯は体勢を立て直して一目散に路地裏の闇の中へと逃れて行った。
右手には満載の資料、左手には掛け紐を掴んだまま、彼は闇の底へと消えていく背中を呆気に取られて見送ったのだった。