一般ピーポーの勇者
~失意のマイホームと猫と女神~
加藤真守、25歳。彼は今、人生のどん底を味わっていた。
蛍光灯が侘しく照らす深夜のコンビニ。真守は一番安い第三のビールのロング缶を数本と、申し訳程度の塩豆をカゴに放り込んだ。
「……はぁ」
レジで無愛想な店員に会計を済ませ、とぼとぼと夜道を歩く。湿ったTシャツが肌に張り付く不快感も、今の彼にはどうでもよかった。
見慣れた角を曲がると、そこには真新しい一軒家が闇の中に浮かび上がっていた。彼が人生の大きな決断として購入した、5LDK書斎付きのマイホーム。家族5人で暮らせるはずだった、夢の城。
「…なにが、『他に好きな人ができたの♡ごめんなさい!』だよ。ふざけやがって…」
お見合いで意気投合し、トントン拍子で結婚の話が進んだ。相手の女性の「結婚するなら自分の家が欲しいな」という言葉に、彼は一念発起してこの家を買ったのだ。頭金を払い、35年の住宅ローンを組んで。引き渡しからまだ1ヶ月も経っていない。内装も、新しい家具も、これから二人で選ぶはずだった。
その夢は、数日前のファミレスで、彼女のあっけらかんとした一言によって木っ端微塵に砕け散った。
昼間、勤務先の中学校では、数学の授業も合気道部の部活指導も上の空だった。生徒たちの他愛ない恋愛話に、「お前らの方がよっぽど進んでるよ」と内心で毒づいてしまう始末。趣味の家庭菜園も、このところ手につかない。雑草だけが虚しく生い茂っている。
「…結局、お前だけかよ、俺の味方は」
真新しい家の壁に、そっと手を触れる。ひんやりとした感触が、今の彼の心のようだ。ローンの重圧だけが、現実のものとしてのしかかってくる。
プルタブを起こし、ぬるくなったビールを呷る。苦い液体が喉を焼いた。
その時だった。
「にゃあ」
か細い鳴き声。視線を向けると、街灯の明かりがおぼろげに照らす道路の真ん中に、小さな影がうずくまっていた。まだ子猫のようだ。三毛猫が、車のヘッドライトに怯えたように動けなくなっている。
「あ?おいおい、こんなとこにいたら轢かれちまうだろ!シッ、シッ!」
真守が声を荒らげた瞬間、轟音と共に大型トラックが交差点から猛スピードで突っ込んできた。運転手はスマホでも見ていたのか、明らかに赤信号を無視している。クラクションがけたたましく鳴り響き、子猫はさらに身を固くした。
「――危ねぇっ!!」
考えるより先に、体が動いていた。合気道の稽古で叩き込まれた体捌きと受け身の要領で、地面を蹴る。子猫を抱え込むようにして、歩道側へ身を投げ出す。
強い衝撃。視界がぐにゃりと歪む。浮遊感。
そして、真守の意識はぷつりと途絶えた。
「……てくださーい!おーきーてー!ねぇってばー、起きないと死んじゃいますよ~?いや、もう死んでるんですけどね!てへっ☆」
やけに明るく、脳天気な声が鼓膜を揺する。
真守が重い瞼をこじ開けると、そこは真っ白な空間だった。そして目の前には、フリルが幾重にも重なった軽やかなドレスをまとい、頭には猫耳のようなカチューシャをつけた、やたらとテンションの高い美少女がいた。手には猫じゃらし。
「う、う~ん……え? ここは……?」
「あ、やっと起きましたね~!私、女神アクアって言いまーす!貴方たち人間が言うところの、そーですねぇ、神様?みたいな存在ですにゃ!」
アクアと名乗る女神は、猫じゃらしをフリフリさせながら自己紹介した。
「な、何なんだよ、一体……。俺は確か、猫を助けようとして……」
「はい、どーん!トラックに轢かれちゃいました!残念ながら、加藤真守さん、貴方は先程お亡くなりになりました~。ちーん!」
アクアは悪びれもせず、残酷な事実を告げる。
真守の頭の中で、トラックのライトと衝撃がフラッシュバックする。
「な、何だって!?じゃあ、ここは……あの世ってことかよ!?マジか……結婚も結局ダメんなって、新築の家のローンが35年も残ってんのに……1ヶ月も住んでないんだぞ、あの家に……」
項垂れる真守。人生、踏んだり蹴ったりだ。
「まぁまぁ、そんなに気を落とさなくても良いですよ~」アクアはポンと真守の肩を叩いた。「私、とっても感動しちゃったんです!我が愛しの、大大大大好きなにゃんこを身を挺して助けてくれた、貴方のその勇気と!……あと、まぁ、正直言ってかなりお気の毒なその不幸っぷりに!」
「はぁ……」
「というわけで、私から貴方にビッグなプレゼントでーす!貴方を新しい世界、アステシアにご招待しちゃいます!」
「アステシア……? それってまさか、異世界転生ってやつか!?」
真守の目が、わずかに輝いた。小説や漫画で読んだことがある。チート能力で無双する、あの展開か?
「ご名答~!さっすが、不幸なだけあって、そういう知識はあるんですね!」
「よし、それなら全属性魔法使いが良いな!あと、剣神のスキルとかも捨てがたい!これで俺もリア充ハーレム……!」
真守のテンションが上がったのも束の間、アクアは猫じゃらしで彼の鼻先をツンと突いた。
「はい、却下~!そんな便利なもの、管理が面倒なのでありませーん。貴方に上げるのはこれ!」
アクアがパチンと指を鳴らすと、真守の頭の中に直接、知識のようなものが流れ込んできた。
【言語理解(アステシア標準語・古代語)スキルを獲得しました】
「それと、目玉特典!ジャジャーン!スキル『マイホーム』です!」
「マイホーム……?」
聞き覚えのある単語に、真守は首を傾げる。
「そそ!貴方がローン組んで買った、あのピッカピカのおうちあるでしょ?あれをね、異世界でドーン!と出せるようにしてあげまーす!スキル名?ん~、そのまんま『マイホーム』でいっか。シンプル・イズ・ベストでしょ?」
「え?家を出すって……どうやって?それに、家だけって……」
武器は?魔法は?せめて鑑定スキルとかは?
真守が食い下がろうとしたが、アクアは時計をチラリと見る素振りをした。
「おっと、もうお時間みたいですね~。あ、そうそう、最後に私からのささやかなサービス!そのマイホーム、貴方が最後に住んでた状態より、もーっと快適にしときましたから!色々探ってみると面白いかも?それじゃあ、加藤真守さん、良い異世界ライフをエンジョイしちゃってくださ~い!」
「え、ちょ、待ってくれ!説明が足りなすぎるだろぉぉぉぉっ!!」
真守の悲痛な叫びも虚しく、足元が不意に消失し、彼は抗いようのない力で真っ暗な虚空へと吸い込まれていった。