神との交渉
ソイノメ様に胴体は無いから、喉の奥も存在しないはずだ。このままだったら頸部の断面から外に出ちゃうんじゃ……。
そう思っていたが、暗闇の先にあったのは、真っ白い空間だった。地面も空も白一色で、壁は存在しない。
着地すると、体に巻き付いていた髪は解け、何もない空へと消えていった。
視線を前に向ける。そこには異様な光景があった。
地面に黒い線が引かれ、正方形が描かれている。縦横の長さは10メートルほどで、四つの角には直径2メートルほどの赤い点が描かれていた。
そして、対角線が二本引かれ、交差する中心点には、直径2メートルの金色の丸印があり、そこに誰かが座っていた。
近づいて、よく見てみる。それは生きた人間でも、死人の霊魂でもなく、干からびたミイラだった。ミイラは僧侶姿で、金色の袈裟を身につけている。ということは、これは即身仏、というやつだろうか。
「これが、ソイノメ様の本体……」
僕がそう呟くと、ミイラの後ろから声がした。
「違うよ」
驚いて視線を向ける。そこに立っていたのは、なんとあの時の犯人だった。妻であるミサさんを蘇らせようと儀式を行い、ソイノメ様に食べられた男……。
僕が聞いていたのは、犯人の声だったらしい。どうりで聞き覚えがあるはずだ。
「あなた、生きてたんですか?」
犯人が首を振る。
「いいや、私の肉体はソイノメ様に噛み砕かれ、異界の一部になったよ。今の私は、霊体だけの存在だ」
「……そんなあなたが、どうして僕に力を貸してくれるんですか?」
「別に、私は君を恨んでなどいないからね。儀式は成功し、私はミサに会って、謝ることができた。それで私は満足だ」
僕は犯人の自己中心的な言葉に怒りを覚えた。この男が満足するために、五人もの人間が犠牲になったのだ。
嫌味の一つでも言ってやりたくなる。が、今は協力関係にあるので、ぐっと我慢した。
「そうですか。では、力を貸してください。僕達で、あなたに殺された五人の魂を救うんです」
「……その前に、一つ訊かせてくれないか?」
「なんです?」
「私が死んだ後、ミサはどうなった?」
「……ミサさんは、成仏しましたよ。外に首だけの幽霊がいたでしょう? 村井さんというんですが、彼女がミサさんと最後まで一緒にいました。彼女によると、ミサさんはカラスに肉体を食べられ、魂が解放されたそうです」
その言葉を聞き、冷静沈着そうな犯人の顔が一変した。いかにも心配そうな表情で言う。
「ミサは、その時、苦しそうだったか?」
その情けを、どうして犠牲者に向けられなかったのか。怒りを飲み込み、薰ちゃんから聞いたことを率直に伝える。
「いいえ、むしろ、幸せそうだったようですよ。ミサさんは、自分の命が新しい命に引き継がれるのを、喜んでいたそうです」
「……」
犯人は息を呑み、両目からは一筋の涙が流れた。それを拭って言う。
「……これは、なんの涙なんだろうな。肉体は滅んだというのに、涙を流すことも、拭うこともできる……」
犯人は感情を落ち着かせると、元の冷たい表情になって言った。
「ありがとう。ミサの最期を聞けて、私は満足だ。もう何も思い起こすことはない。これで成仏できるよ。ただ、その前に、約束通り君の手助けをしよう。私も、五人の被害者に対して罪の意識は持っているつもりだ。私にできることならなんでもしよう」
『ありがとうございます』という言葉を寸前で飲み込んで尋ねる。
「それで、あなたにはいったい何ができるんです?」
「君も、あの式神使いの女と話していただろう。ソイノメ様の本体に取り次いであげよう」
「ここに、神様を呼ぶんですか?」
「ああ。ただし、相手は神だ。いくら霊感が強い君でも、まともに話せる相手じゃない。だから、私の霊魂に神を憑依させる。そうすれば、私の霊魂を通して、神と会話することができるだろう」
「……どうして、あなたにそんなことができるんですか?」
「私も一応、ソイノメ様と融合している状態だ。中途半端な形だがね。だから、神を呼び出すことが可能だと、なんとなく分かるんだ」
「そうですか。では、お願いします。……いや、その前に教えてください。この僧侶のミイラはいったい何なんですか?」
「それも神に訊けばいい。私も知らない。……では、神を私の体に呼ぶ。神の力を借りて、五人を救ってくれ」
「はい……必ず」
犯人が目を閉じる。白い空間に、耳鳴りがしそうな静寂が訪れた。固唾を呑んで見守っていると、犯人がゆっくりと目を開いた。
その瞳は、金色に輝いていた。ソイノメ様の巨大な目と同じように。が、白目の部分は赤く染まっていなかった。
犯人が口を開く。
「何が訊きたい?」
声も、口調も、さっきの犯人と同じだ。まるで普通の人間と話している気がする。これが本当に神様なのだろうか?
「あ、あの、あなたが、神様、えっと、ソイノメ様の本体ですか?」
「……君が、何を神や本体と呼んでいるのかは判然としないが、ソイノメ様から人間の霊魂を取り除き、最後に残る存在をそう呼ぶのであれば、私がそれだ」
んん、なんか分かりにくいな。とにかく、今僕と話しているのがソイノメ様の本体であり、神様なのだろう。
僕はさっそく、目の前にあるミイラについて尋ねた。
「あの、この僧侶のミイラは、いったい何なんですか?」
「この僧侶は、私の異界に最初に訪れた人間だ。名を報観という。報観がここに来たのは、今から千二百年前のことだ」
「なぜ異界に」
「仕えていた貴族の嫡子を蘇らせるためだ。そのために、報観はこの山で四人の弟子を生け贄に捧げ、異界への扉を開いた。そして、私の力を使い、自らの魂を嫡子の死体へと移し、固着させた」
ん、それっておかしくないか? 報観は千二百年前に、現代にも伝わっているソイノメ様の儀式をしたのだろう。完全に同じものかは分からないが、とにかく、それなら本人の魂を死体に込めるはずだ。
「どうして報観は自分の魂を死体に移したんですか? 嫡子本人の魂じゃなかったら、蘇らせたことにならないじゃないですか」
「嫡子の魂は、儀式の前に分解され、自然の循環の中に取り込まれていたのだろう。君達が言うところの成仏だ。私は楔山の中で起きたことしか知り得ないから、正確なことは分からないがね」
僕の脳裡に、嫌な考えが過ぎった。外れてほしいと願いながら、自分の推測が正しいか尋ねる。
「……ちょっと待ってください。ソイノメ様が最後に蘇らせた女性がいますよね。彼女は、自分の魂で蘇ったんですか?」
神様は平然と、即座に答えた。
「いいや。彼女の魂は楔山に存在しなかった。だから、彼女の死体には、この山で死んだ猪の魂を移した」
「そんな……でも、おかしいじゃないですか? それならどうして彼女は、蘇った後に生前の記憶を持っていたんですか?」
「記憶は魂だけではなく、肉体にも刻まれる。肉体を引き継げば記憶も引き継がれる。何もおかしなことはない」
「……」
僕の予測は当たってしまった。ミサさんはあの時、自分は死にたくて死んだと言っていたから、おそらくは既に成仏していたのだろう。つまり、ミサさんは蘇ってなどない。そして、犯人はそのことを知らないのだ。
なんて……なんて馬鹿げた儀式だろう。もしそうなると知っていれば、犯人は儀式を行わなかっただろうし、犠牲者も生まれなかったのだ。犯人が流した涙はなんだ。犠牲者達の苦痛はなんだ。あの儀式に、いったいなんの意味があったんだ。
しばらく、やるせない気持ちに浸っていたが、頭を振って気持ちを切り替えた。感傷に浸っている場合ではない。この馬鹿げた儀式に、この手で終止符を打てないだろうか。
僕は質問を続けた。
「報観が儀式を終えた後、どうして今のソイノメ様が生まれたんですか?」
「報観の魂が死体に移された後、四人の弟子達は異界の中に取り残された。彼らは儀式の犠牲になりはしたが、決して師である報観のことを恨んでいなかった。むしろ、最期まで師のことを尊敬していた。だから、儀式の成功を見届けると、彼らは喜んで成仏しようとした。だが、それはできなかった。彼らはなぜ自分達が成仏できないのか考えた。そして、一つの仮説を立てた。彼らの体は斬首され、首と胴体に別れている。それに伴って、霊魂もまた二つに分断されてしまった。異界の中にいるのは首の霊魂だけで、胴体に宿った霊魂は現世に残されている。この霊魂を元通り一つに繋げなければ、成仏することは叶わない、と」
「そんなこと、簡単にできるんじゃないですか? 異界の扉をまた開けばいい」
「いいや。彼らの法力は報観の足下にも及ばなかった。ゆえに、私の力を上手く利用することもできず、異界の扉を開けなかったのだ。そこで、彼らは考えた。四人の魂を一つに束ね、法力を増加させようと。こうして生まれたのが、人間の魂の集合体である、ソイノメ様だ。そこまでして、ようやく彼らは私の力を利用できるようになり、異界の扉を開くことに成功した。だが、別の問題が発生した。彼らは現世に残されていた胴体の霊魂を異界に呼び寄せたが、それと一体化することを拒んだのだ」
「え、どうして?」
「彼らの魂は強く癒着することで、個の境目を失っていた。つまり、魂の集合体が、一つの魂のごとくに成り変わっていたのだ。彼らはもはや、彼らであって彼らではなく、新しい個となった。そうなれば、元の四人の魂に分裂することは、自らの体を引き裂くことに等しく、多大な苦痛を生み出すことになる。そして何より、上手く四人の魂を切り分けなければ、それぞれの胴体の霊魂に適合させることもまた叶わない。しかし、疲れ果てた彼らの魂に、それをやり遂げる気力は残されていなかった。そして、成仏を諦めた彼らは、孤独を慰めるために、新たにやってきた犠牲者の魂を、ひたすら取り込む存在と成り果てた。そんなことを繰り返したところで、彼らの孤独が癒えることは永遠にない。人は、自己に似た他者と密接することを望むが、その欲求を満たせば最後、他者は自己に変じて消え去ってしまう」
「そう思うなら、あなたが助けてあげればいいじゃないですか」
「私は誰も助けず、誰も陥れない。それを為すのは、私の力を行使するのは人間だ」
「……」
僕は悩んだ。悩むしかなかった。これは、千二百年もの長きに渡って続いた問題なのだ。僕なんかに解決できるだろうか……。
既にソイノメ様に取り込まれた魂を救済することは難しい。でも、まだそうなっていない四人の魂を救うことくらいはできるかもしれない。ソイノメ様に奪われた胴体を取り返せばいいのだから。
僕はさっそく神様に頼んだ。
「お願いします。ソイノメ様に奪われた四人の胴体を、返してもらえないでしょうか」
だが、神様は無情にも拒否した。
「それはできない」
「ど、どうしてですか?」
「ソイノメ様がそれを望まないからだ。私は君だけではなく、ソイノメ様にも力を貸す。君の意見だけを優先するわけにはいかない」
「そ、そんな……」
「私の力を行使したいのであれば、ソイノメ様の意に背かない願いを望むがいい」
「くっ……」
そんな難しいことを言われても困る。意に背かないということは、もう四人の魂をソイノメ様に渡す道しかないということだろうか? そんなことをすれば、いよいよ四人を救うことはできなくなる。でも、そうしなかったら、僕達は現世に戻ることすらできないかもしれない……。
解決策が思い浮かばず、頭を掻きむしる。代わりに思い浮かぶのは、ソイノメ様に浮んだ無数の顔だった。皆、苦痛に顔を歪め、呻き声を上げている。四人を渡すということは、彼らもその中に加えるということだ。僕達の手で……。
いいや、ダメだ。そんなことは絶対にしたくない。悲観的になるな。今の僕は、神様を味方に付けてるんだぞ! もっと気を強く持て! そうだ、なんなら四人だけじゃなくて、既にソイノメ様に取り込まれてしまった人達も全員助けてあげようじゃないか!
……そうだな。そうすればソイノメ様の意に背くことは絶対にない。というか、もうそうするしかないんじゃないか? 四人だけ救おうとするから答えが見つからないんだ。神様の力を使って、全員を助けようとすればいい。
でも、どうやって? 全員を救うということは、全員を成仏させるということだ。報観の弟子達は成仏を断念した。魂が癒着し、上手く離れられなくなったからだ。じゃあ、それをなんとかすればいいんじゃないか? 上手く癒着を解くよう、神様に願えば……。
いいや、ダメだ。そんなこと、四人はとっくにやろうとして、失敗しているだろう。
ということは、魂の癒着を解かず、胴体と首を繋げる必要がある。そんな方法があるわけ……。
その時、僕の脳裡にまたソイノメ様の姿が浮んだ。無数の顔が癒着し、巨大な一つの顔となった姿が。そして、そんな存在に相応しい対処法が閃く。
「ある! あるぞ! いい方法が!」
神が無表情で僕に問いかけた。
「何かな。言ってごらん」
「首の魂が合体してるなら、胴体の魂も合体させればいいんです! あなたの眷属は、取り込まれた人々の霊魂ですよね?」
「そうだ。別に眷属のつもりはないがね。あれは、犠牲者の魂の片割れだ。それに私の力を注ぎ、実体化させている。ただ、肉体の方は腐敗しきって、既に形を成していないがね。この男の肉体のように、異界の一部となっている」
「では、その胴体の魂を、首と同じように合体させてください。そして、一つの巨大な胴体にして、ソイノメ様の首と繋げるんです。そうすれば魂の癒着を解く必要もない。できますか?」
「それくらいのことならできるが、いいのか? もし一度胴体を合体させれば、首と同様、二度と分裂させることはできなくなる。後戻りはできないぞ」
「うぅ……」
そう言われると、決断するのが怖くなる。取り返しのつかないことだったらどうしよう……。そうだ、他のみんなに相談してから決めればいい。
「あの、外にいるみんなと相談してから決めたいんですが、できますか?」
「構わない。ソイノメ様の外に出してやろう」
「ありがとうございます。……って、うおっ!」
僕の腰に何かが巻き付く。見ると、それは長い髪の毛で、白い空の彼方から伸びていた。その髪に引き上げられ、体が宙に浮く。そのまま空高くに持ち上げられた。




