顔顔顔顔顔顔
薰ちゃんが辺りを見渡して言った。
「ここだわ、首無しの奴らがいた場所は。私の胴体はここに運ばれたの」
「これが、異界……」と、菅原君が呟く。
どうやら霊感が無くともこの光景は見えるらしい。菅原君は先ほどの落ち込んだ様子とは打って変わって、目を輝かせて異界を観察している。
「すげぇ……」
神崎君も驚いて目を見開く。
僕は恐怖と驚きのあまり尻餅をついた。木々が無くなったせいで、僕の姿は犯人に筒抜けとなった。だが、犯人は僕を少しだけ見ると、どうでもいいといった感じですぐに視線を外した。
その時、辺りに奇妙な音が響いた。ブクブクブクと、まるで水の中から泡が噴き出すような音が聞こえる。
音がする方を見ると、赤い地面が、まるで池の水面のように泡を噴き出し、波紋を浮かべていた。
全員がその場所を凝視する。
僕は異様な気配を感じ取った。三日前、祭壇に感じたあの気配だ。幽霊からは感じない、全身に悪寒が走るような嫌な気配。菅原君が言うところの邪気だ。それが泡となって地の底から噴き出しているように感じる。それだけではない。とてつもなく大きな邪気の塊が、地下から地上へと近づいている。
「な、何か来る」
僕は口を震わせながら、なんとか声を出した。何か、と言っても、答えは一つしかない。
邪気の塊が、ついに地上へと出てきた。
最初に見えたのは、巨大な頭部だった。髪に血を滴らせている。
その後、真っ赤な目が二つ現れ、こちらを睨んだ。肌は目と対照的に青白い。
徐々に全貌が明らかになっていく。顔全体が見え、頸部が地上へ出てきたが、そこから先の胴体は存在しなかった。頸部の途中で切断されたかのようにして途切れている。その断面からは、ボタボタと大量の血がとめどなく流れ落ちていた。
地下から現れた巨大な首が、僕達の目の前で宙に浮かんでいる。首は全長が10メートルはあろうかというほど大きかった。
「ソイノメ様……」
犯人が恍惚とした表情で呟いた。
「すごい。神崎君の家よりデカいんじゃない?」と薰ちゃん。
僕は目の前の光景に慄きながら言った。
「いぃぃ今そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」
その時、ソイノメ様の顔に変化が起こった。顔全体に、小さな無数の顔が浮かび上がったのだ。それらは普通の人間の顔と同じ大きさだったが、皆、目が赤く、苦しそうに呻き声を出している。その何百と浮かぶ顔が、ソイノメ様の巨大な目と口以外を覆い尽くしていた。
半べそをかきながら言う。
「あぁ、もっと怖くなっちゃった。どうしよう……」
僕とは対照的に、菅原君は心の底から感動している様子で言った。
「やはりソイノメ様が怨霊の集まりという伝承は本当だったか。それをこの目で確かめられる日が来るなんて」
「そんなこと言ってる場合じゃねーだろ」と、神崎君がソイノメ様を睨みながら言う。さすがの神崎君も恐ろしいようだ。
犯人がソイノメ様を見上げ、叫ぶように言った。
「ソイノメ様、供物を捧げたのは私です。どうか、私の妻を生き返らせてください。祭壇の上で眠る、私の妻を」
真っ赤な世界に、犯人の声がどこか虚しく響く。
すると、ソイノメ様は巨大な口を開き、ケタケタと笑い出した。その笑い声は男とも女ともつかない、それ以前に人間ともつかないような声だった。熊が吠えるような低い音と、鳥が鳴くような甲高い音が混じり合っている。だが、その顔を埋めつくす小さな顔達は、笑わずに尚も苦しみ続けていた。
僕はソイノメ様と祭壇を交互に見た。犯人の願いは聞き届けられるのだろうか。それとも、儀式の段取りを早めたばかりに、願いは無効になるのだろうか。ソイノメ様は笑い、女の死体は動かない。菅原君の言う通り、やはり人が生き返るわけがないのか……。
そう思って見つめていると、信じられないことが起こった。死体の手が少し動いたのだ。最初は見間違いかと思ったが、すぐにその考えは打ち消された。死体がはっきりと両手を動かし、上半身を起こす。さらに、棺桶から足を降ろして立ち上がった。そして、自分の両手をしげしげと不思議そうに見つめる。腐敗している、自分の両手を……。
菅原君が目を見開いて呟いた。
「素晴らしい……」
伝承は本当だった。ソイノメ様には死体を生き返らせる力がある。だが、死体は腐敗したままだ。これを生き返ったといってもいいのだろうか……。
僕は犯人を見た。犯人はとぼとぼと妻に近づいていく。
「タクミさん」と妻が呟く。
「ミサ、ずっとこの時を待ってた。会いたかったよ」
犯人は妻を抱きしめた。
「どういうことなの? 私、死んだはずじゃ……」
「僕が生き返らせたんだ。ソイノメ様という神様に頼んでね。ほら、あそこにいるのがソイノメ様だよ。僕が儀式をして呼び出したんだ。……ただ、その儀式に時間がかかって、君の身体は形を保っていられなくなったけど、そんなことはどうだっていい。僕は君が側にいてさえくれればいいんだ」
「どうしてそんなことを。私は死にたくて死んだの。生き返りたくなんてない」
「そんなこと言わないでくれ。僕はミサがいなければ生きていけないんだ。それなのに、ミサを自殺に追い込んでしまった。全部僕が悪いんだ。ずっと謝りたかった」
「違う。タクミさんは何も悪くない。ただ、私が――」
妻が何かを言いかけた時、突然、ソイノメ様の髪が伸び、犯人の腰に巻き付いた。髪が犯人を引っ張り、二人の距離が遠ざかる。
「な、なんだ、やめろ」
「タクミさんっ」
妻が駆け寄り、犯人に手を伸ばす。犯人はその手を掴んだが、腐敗した手の肉は骨を滑って剥がれ、両者の手はすぐに離れた。犯人は腐った肉片を握りしめたまま、ソイノメ様に引っ張られて宙に浮く。そして、巨大な口の中に放り込まれた。
菅原君が言っていた通り、犯人はソイノメ様の怒りに触れてしまったのだ。
僕は咄嗟に目をつむった。クチャクチャという咀嚼音が辺りに響き、両手で耳も塞ぐ。その手を通して、薰ちゃんの声が聞こえてきた。
「ざまぁみろ。あと四回死ね」
それは、優しい薰ちゃんに似つかわしくない、冷淡な声だった。薰ちゃんへの恐怖が少しだけ蘇る。
僕は恐る恐る尋ねた。
「あ、あの、薰ちゃん。もう、犯人は食べられました?」
すると、薰ちゃんは元の明るい声で答えた。
「うん、もうグロくないから大丈夫よ」
「ふぅ、そうですか。ありがとうございます」
僕は安心して目を開け、両手を耳から離した。そのタイミングで、ソイノメ様がゴクンと音を立て、犯人を飲み込んだ。
「ちょっと! まだ食べ終わってないじゃないですか!」
「噛むの終わったんだからいいでしょ」
「良くないですよ! 飲み込む音もグロいんですから!」
「知らないわよそんなこと」
そう言った瞬間だった。薰ちゃんの体にソイノメ様の髪が巻き付いた。犯人と同じように引っ張られる。
僕は咄嗟に薰ちゃんの両腕を掴んだ。全力で引っ張り返すが、ずるずるとソイノメ様の方へと引きずられる。
「おい、どうした!?」
神崎君が急いで僕に駆け寄り、僕の腰に両腕を回して引っ張った。菅原君も神崎君の後ろについて引っ張る。だがそれでも、僕達の体は少しずつ引きずられた。
菅原君が言う。
「ちょっと、菊池君、どういう状況なのか教えて」
「薰ちゃんが、ソイノメ様に引っ張られてるの。このままだったら犯人みたいに食べられちゃう」
「そうか、ソイノメ様にとって薰ちゃんは自分への供物だ。だから肉体だけじゃなくて、霊体も手に入れようとしてるんだろう」
「そんな、どうすれば……」
「えっと……そうだ! ミサさん!」菅原君が呆然としていた犯人の妻に声をかけた。「あなた死人だから、髪に巻かれてる女性の姿が見えるんじゃないですか?」
「は、はい。見えます」
「そこに刺さってる日本刀で、彼女の首を切断してください!」
僕は驚いて尋ねた。
「ええっ!? どうしてそんなことするの?」
「ソイノメ様が求めているのは胴体だけだ。首には興味が無い。だから首と胴体を切り離して、胴体だけを渡すんだ」
「ああ、なるほどねぇ」と、薰ちゃんがゆるく納得する。
ミサさんが首を振って言った。
「そんなひどいことできません」
「大丈夫です。彼女は幽霊なので、痛みは感じません」
「でも、私、グロいのとか苦手で……」
「一番グロいのはあんたでしょうが! とにかく急いでください。もうオレ達の力が持たない」
「わ、分かりました」
ミサさんが日本刀の元に走り、地面から抜く。それを持って薰ちゃんの横に立った。
首だけを上手く切れるよう、僕は薰ちゃんの腕から手を離し、代わりに髪の毛を掴む。そしてミサさんに頼んだ。
「くれぐれも僕の手は切らないようにお願いしますよ」
「はい……」
ミサさんはゆっくりと刀を振り上げた。だが決心が付かないのか、なかなか振り下ろさない。
「ちょっと、さっさと切りなさいよ」と薰ちゃん。「勝手にちぎれるの待ってんの?」
「い、今やりますよ……エイッ」
かけ声と共に、薰ちゃんのうなじに刀が振り下ろされた。首はそこで切断され、胴体と切り離される。僕達はその拍子に後ろへ倒れた。胴体は髪に引っ張られ、ソイノメ様の口の中へ消える。
その瞬間、ソイノメ様の姿がぐにゃりと歪んだ。まるで雨に濡れて絵具が溶けだした絵画のように、異界の光景が血となってドロドロと下へ流れていく。大量の血は刀を差していた地面の穴に吸い込まれた。そして、あっという間にソイノメ様も赤い世界も消え去り、辺りは暗闇に包まれた森になっていた。