母親のたね【奪われた幸福】
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ねぇ、聞こえる?
あなたたちのパパはね
とっても素敵な方なのよ
とっても真っ直ぐで
とっても優しくって
きっとあなたたちも
思いやりと勇気のある
素敵な大人になることでしょう
さぁ、おやすみ
私の胸で優しい夢を見て……
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私はお散歩途中で、隣に住んでいる彼の家に寄り道をする。いつも縁側でひなたぼっこをしながら寄り添って話をしていた。
私の愛する彼は雄の三毛猫。彼は博識で、いろいろなことを私に教えてくれる。この日は、雄の三毛猫がめったに生まれない理由について話してくれた。
「染色体の異常なんだ。」
「センショクタイ?」
「そう、染色体の異常。この前、大学に通う兄さんが僕に教えてくれたんだ。」
彼の声は青空のわた雲だ。ぽっかりと浮かんで、ふんわりとしていて、どこか愛らしい。
「染色体っていうのはね、僕たちそれぞれを形作ったりするのに必要なさまざまな情報がぎゅぎゅっと凝縮された、ばってんのカタチをした紐っぽいものなんだ。その中に、僕たちの性別を決めるX染色体とY染色体の二種類の性染色体があってね、その組み合わせで男性になるのか女性になるのか決まるんだ。XとYが一つずつで男性、XとXが一つずつで女性。」
彼は、とても楽しそうに話す。朝露に朝の陽ざしが反射するようにきらめく瞳が愛おしい。
「つまり私はXの性染色体が二つあるのね?」
「その通りだよ。僕たちの毛の色の情報も染色体に書かれてあるんだけど、白と黒の情報は普通の染色体に書かれているんだ。でもオレンジの情報が書かれているのはX染色体だけなんだよ。しかも、情報としては弱いみたいで、オレンジ情報ありのX染色体が二つあって初めて、オレンジ色の毛が現れるんだよ。」
「さっき、男性はXとYがひとつずつだって……。」
「そこが問題なんだ。どうやら僕は、XとYの他にもうひとつXを持っているみたいなんだよ。」
「え? 性染色体が、三つ?」
彼は、にっこり笑ってうなずいた。
「いろいろな説があるんだけど、雄の三毛が生まれるのは、数千から数万匹に一匹だと言われてる。」
彼はスッと身を起こし、姿勢を正して私の目を見た。
「僕はユズちゃんに逢うために、この世に生まれてきたんだ。」
彼の愛はまっすぐだ。猫にしては珍しいと思っていたけれど、もしかすると奇跡の染色体がそうさせるのかもしれない。
「ユズちゃーん!」
幸せに浸っていると、垣根の向こうからお母さまの声が聞こえた。
「……ごめんなさい。お母さまに呼ばれちゃった。」
縁側で過ごす時間は、今ここに生きていると実感できる。でもお母さまに呼ばれて立ち上がると、世界は突然白と黒だけになる。
お母さまは、私と彼が仲良くしているのを喜ばない。彼が血統書付きでないのを快く思っていないのだ。血統書付きのロシアンブルーこそ私のお婿さんにふさわしいのだと、いつも言っている。
私が愛してるのは彼だけ。私のお婿さんは彼がいい。
私は、クルリと振り返って彼に近づいた。
「私のお婿さんになって!」
「ユズちゃん……、突然どうしたの?」
三毛猫の彼は、目を見開いてぱちぱち瞬きをした。
「他の猫じゃダメなの。」
私は、足元に視線を落とした。
「お母さまは……、お母さまは私に血統書付きのロシアンブルーを探すって言ってるの。」
再び顔を上げて彼の目を見た。彼の瞳は、今にも泣きそうに揺れている。
「……ユズちゃん。」
「……ごめんなさい!」
とんでもないことを口走ってしまった。彼を困らせてしまった。
私を呼び止める彼の声を背中に聞いて、私は急いで垣根を飛び越えた。
「ユズちゃん! また隣に行っていたのね!」
お母さまを取り巻く空気が変わる。間違いなくお母さまは怒っている。私は身構えた。
「血統書のない猫は、地位も名声も金もない男と同じ。女の幸せはね、男を選ぶことで得られるのよ。」
お母さまは、顔を私に近付けた。
「二度と、あの猫に近付いてはいけません……!」
押し殺した声は、私の恐怖心をいつも以上に煽った。
その日から、お母さまは私が隣に行かないように、私を家の中に閉じ込めるようになった。
数日後、お母さまは、私と夫婦にするために血統書付きのロシアンブルーを連れてきた。一日でも早く彼から私を離したかったのだろう。お母さまはご友人やお知り合いの方に伝手を求めて、文字通り血眼で探した。
「ユズさん。あなたは美しく聡明だ。私たちはとても素晴らしい夫婦になれる。」
私は、夫となるらしいロシアンブルーをどうしても好きになれなかった。いわゆる眉目秀麗。顔だちもよく頭もいい。でも彼とはまったく違う。彼に会いたい。
「ユズさん、今日はいい天気だ。あなたのお母さまが、窓を開けてお出かけされましたよ。」
私は、窓とロシアンブルーの彼を交互に見た。彼は私に背中を向けている。頭のいい彼だから、私の心が自分に向いていないことを分かっていたのだろう。
「私は、ユズさんの笑顔が好きでした。」
その瞬間だけ、彼は私の夫になった。
私は、彼の背中にお礼を言うと開けっ放しの窓から家を抜け出し、愛する彼の元へと走った。
あの日以来、私は彼とよく話すようになった。話してみると、価値観や好きなことが似ていることが分かり、様々なことを題材に意見を交わした。三毛の彼と出会う前だったら、もしかしたらいい夫婦になれたのかもしれない。
「ユズさん、お母様の前では、仲が悪いふりをしましょう。」
「それでは、あなたが追い出されてしまうわ。」
「構いません。私が追い出された後、隙を見てお隣の三毛猫くんのところへ行ったほうがいい。愛し合う者同士が結ばれないのは、あまりにも……。」
それから数日たったある日、お母さまは、いっこうに私と恋仲になろうとしないロシアンブルーの彼を役立たずとののしった。そして思った通り、彼を返品すると言った。
「返品って、私たちは物じゃないのよ? いくらなんでもひどすぎるわ。」
彼は、私を見て微笑んだ。そして、瞳を閉じた。
「ユズさん、あなたは私のソウルメイトだ。夫婦にはなれなかったけれど、かけがえのない存在であることは間違いない。」
ゆっくりと目を開け、私をまっすぐ見た。私も彼をまっすぐ見て微笑んだ。
「ええ。私もそう思っているわ。いつかどこかで、再会できそうな気がする。その時にはまた、たくさん議論しましょう。」
それが、ロシアンブルーの彼と交わした、最後の会話だった。
しばらくして、お腹に新しい命が宿ったことを知った。もちろん愛しい彼の子だ。お母さまに知られれば、この子たちがどうなるか分からない。だからその前にこの家を出て彼と暮らそうと思っていた。
ところが、病院でお母さまに知られてしまったのだ。お母さまはみるみる鬼に変わっていった。
「まぁ、ユズちゃん! 赤ちゃんができたってどういうことよ! どうして、あのロシアンブルーを追い出してから子どもができるの! もしかしてユズちゃん……、あの汚らしい雄猫ね? そうだわ、きっとそうよ!」
私は恐ろしくなり、ぶつぶつ言いながら部屋を出たお母さまの後を追って、滑るように家を出た。
彼に教えなきゃ。
「ユズちゃん! どうしたの? 赤ちゃんいるのに、そんなに走っちゃダメだよ。」
「それどころじゃないの。」
息を切らして走ってきた私を見て彼は優しくたしなめたけれど、私は構わずにこれまでのことを説明した。
「だから、早く逃げて。」
「できないよ。」
彼は、私の目をまっすぐ見て、はっきりと言った。
「家族や君を置いて逃げるなんてできない。」
「ちょっとあんたっ!」
お母さまの怒鳴り声が辺りに響いた。来てしまった。
「うちのユズちゃんに赤ちゃんができましたの。お宅の小汚い雄猫のせいじゃございません?」
私と彼は、声のするほうへと急いだ。
「うちの子とユズちゃん、本当にお似合い。いつもうちの縁側で寄り添って、幸せそうなんですよ。」
彼のお母さまは、私のお母さまにまっすぐ応戦した。しかしお母さまは、理不尽な怒りで返した。
「なんなのよ! それじゃあまるで、うちのユズちゃんが、お宅の小汚い雄猫と恋仲みたいじゃないの!」
「恋仲『みたい』ではなくて、ずっと恋仲なんです。三毛のオスは数千匹に一匹と言われています。染色体の異常によるものですから、なかなか子宝に恵まれないと言われているのに……、本当にすばらしい奇跡です。もしユズちゃんの幸せをお考えでしたら、どうかこのままにしてあげてください。お願いします。」
彼のお母さまは、私たちを本当に大切に思ってくれている。そのことが分かっただけで、私は幸せだった。
それからしばらくして、隣の家族は引っ越してしまった。
私は五つの宝石を抱きしめている。ひとりずつ丁寧に毛づくろいしたり、できるだけみんながお乳を飲めるように手伝ったり。三毛の彼がくれた奇跡の宝石たちに、惜しみなく愛情を注いだ。
私と彼によく似たとても仲がいい姉妹が、そろってちょこちょこ歩いている。私は、ふたりを順番に口にくわえて、自分の胸の中に連れ戻し。子守唄を歌った。
愛しい愛しい、私の赤ちゃん。
健やかに育て、優しい子に育て。
そろそろ一か月、というころだった。その日、私の赤ちゃんが消えた。
私から子どもたちを奪っていくお母さまに対して牙を向けたような気がするけれど、よく覚えていない。
お母さまの車に揺られて着いた場所で、子どもたちがいなくなった。
私は、とにかくあの子たちに会いたかった。だからあの日の記憶をたどって、あの子たちと別れた場所を探していた。
「……確か、この辺り。」
長い時間歩き私の体力は限界だった。
「会いたい……、私の赤ちゃん……。」
交差点を曲がり、あの子たちと別れたあの場所が見えたところで、目の前が真っ暗になった。
「大丈夫? ねえ、大丈夫?」
青空にぽっかりと浮かんだ雲のような声が聞こえる。愛しい彼の声に似ていた。目を開けると、雲のように白い、猫の男の子が私をのぞき込んでいた。その瞳は、お婿さんになってと言って困らせたときの彼の瞳に似ていた。私は、その子に手をのばした。
「赤ちゃん……、私の、赤ちゃん……。」