加護のたね【祈り】
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さらさらと降り続く
緑色の夏の雨は
あなたとわたしを繋ぐ糸
浅い夢のようにはかなく
古き社にひびく雨音は
あなたの幸せ祈る声
あなたの夢を願う声
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「今日は雨かぁ……。」
顔を上げ鼻をおおっていた尻尾をふさふさ揺らしながらポツリとつぶやき、わたしは空を見上げました。
「これが、夏の雨……。」
わたしのご主人さまだった方が、この国には四季の移り変りがあるから美しいと、いつかおっしゃっていました。当時のわたしには何を意味する言葉なのかさっぱり解りませんでしたが、どんなに美しいものなのかと空想しておりました。
ここで暮らし初めてから、どのくらいの時が過ぎたのでしょう。
覚えているのは、わたしがここに来てから、二度、景色が変わったということ。
今は『夏』というのだそうです。
一緒に暮らしている友だちが教えてくれました。
友だち。とても優しい響きです。これまでわたしは、友だちとはどういうものなのか知りませんでした。でも今は、何となくわかります。
いえ、詳しい説明なんてできませんが、少なくとも、彼は私の……、『友だち』です。
『彼』は、何も知らない世間知らずのわたしに、いろいろなことを教えてくれました。
季節のこと、身を守る方法、そして恋のこと。
彼は、生きるのに必死だから恋どころじゃないんだと言っていました。できればずっと、恋なんてしないで欲しいな。
今は彼がお出かけ中なので、お留守番をしています。
実は最近、彼が朝に出かけていくのをよく見かけます。最初はそうでもなかったのですが、日に日に足取りも軽やかになっているように思います。
彼が恋について教えてくれたとき、好きな子に会いに行くのはとてもうれしくて幸せに思うものだと言っていました。彼は恋をしているのでしょうか。好きな子に会いに行っているのでしょうか。
彼は今、どこにいるのでしょう。
お相手は、美しい猫さんなのでしょうか。
心がかきむしられるようです。
わたしは外に出ました。雨に当たらないような場所をうろうろしたり、立ち止まったり、うずくまったり。どうしていいのか分からなくて、ムズムズする自分の心をなんとかなだめようと、ため息をついては雨の空を見上げました。
わたしと出会う前、彼はここの近くのあばら屋に独りで暮らしていました。わたしと暮らすことになったので、もっと広い場所に引っ越すことにしたのです。
彼と住んでいるこの場所は神社と呼ばれているのだそうです。ここには、神様という方がお住みになっているのだと、彼はわたしに教えてくれました。神様は、人々の願いをかなえてくださる方なのだそうです。神社の奥にある、階段のような形の『祭壇』と呼ばれるものの一番上の真ん中に、大きな丸い鏡があります。あの鏡に、神様がいらっしゃるといわれています。
神様とはお会いしたことはありませんが、不安なことがあると、祭壇の前に座って神様に話しかけます。神様は応えてくださいませんが、わたしの雨音のようなつぶやきを、聞いてくださっているように思うのです。
「神様……。わたし、自分の気持ちが解らないのです。彼がいないと心細くて心配で。今は、美しい猫さんと会っているのではないかと思ってしまって、落ち着かないのです。」
肩を落とし、ため息を吐いて、わたしは、この神社で過ごしてきた彼との日々を思い返しました。
わたしが彼と初めて出会ったのは、『雪』と呼ばれる白くて冷たいかき氷のようなものが、まだ残っていたころでした。ご主人さまは、必ず迎えに来るからと言い残して、ここよりもう少し山奥にわたしを置いて行ってしまったのです。
わたしは、必ず迎えに来るからというご主人さまの言葉を心から信じていましたから、数日間その場を離れず、ご主人さまを待ち続けたのです。
寒くてたまらないときはキュッと身を丸めて眠りにつき、お腹が空いたら雪を食べてしのぎましたが、わたしの空腹はとうとう限界に達しました。
わたし、もうダメなのかな……。わたしが死んだら、ご主人さまは悲しんでくれるかしら……。もしそうなら、それでもいいかなぁ……。
わたしは、ご主人さまに愛されていなかったことを知っていました。
ご主人さまは、おしとやかで賢い犬がお好きなのに、ご主人さまのご帰宅がうれしくて、声を出してはしゃいでしまったのです。ご主人さまは吠える病気だとおっしゃると、わたしを病院に連れて行きました。
そしてわたしは、声を失いました。
薄れる意識の中で、ご主人さまに会いたいと願ったときでした。小さな小さな足音が聞こえました。雪のように解けてしまいそうな音でしたが、わたしの心は震えました。
……生きたい。死にたくない!
わたしは、残っている全ての力を振り絞り、ゆっくり立ち上がりました。
「ねぇ……、お腹が空いているの。……助けて。」
それが、彼との出会いでした。
それから日々を重ね、ご主人さまとは二度と会えないんだと悟りました。初めは受け入れられませんでしたし、受け入れたくもありませんでしたが、彼がずっとそばにいてくれたので、現実から目をそらさず、前を向いて歩いて行こうと思えるようになりました。
「わたしは……、彼がいないと何もできないのね。」
神社の屋根に降り注ぐ優しい雨音は、わたしの心をじんわりと包みました。
「彼といつまでも一緒にいたい。彼が側にいてくれるのなら、わたしは何もいりません。……神様。わたしは、わがままなのでしょうか?」
ふと顔を上げると、祭壇が暖かな光に包まれていました。微笑みをたたえた女性のように美しく、わたしはすっかり見とれてしまいました。しばらくすると、その光は、吸い込まれるように消えていったのです。
雨音が聞こえなくなったので外に出てみると、雲一つない青空でした。でも地面は全く濡れていません。さきほどまであんなに雨が降っていたのに不思議です。
「……幻、だったのかな?」
不思議に思い首をかしげていると、遠くから複数の人間の声が聞こえました。
「いたぞ、あの犬だ!」
わたしを見て叫んでいます。身の危険を感じたので逃げようとしたのですが、怖くて足がすくんで動けずにいたら、あっさり捕まってしまいました。
「行くぞ。」
どこに行くと言うのでしょう。どこかに行くというのなら、その前に彼に会いたい。
「レディ!」
わたしを呼ぶ声が聞こえる。間違いなく彼の声です。わたしは声のするほうへ顔を向けました。
「猫だ! 猫がいる!」
人間たちに気づかれた。彼が危ない!
「逃げて! クロ、逃げて!」
「レディ!」
彼は何度も振り向きながら茂みの中へと消えていきました。わたしは、ケージの網の隙間から、彼と暮らした神社を見上げました。
……神様。いつかまた彼に会えるのでしょうか……。
……神様。彼はしあわせに暮らせるでしょうか……。
……神様。どうか、どうか……。




