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ヘムロック・キーウとは


 雑談とは言ったものの、長い話になりそうだ。

 善良な市民のウィルがどこまで付き合ってくれるのかわからないが、彼の知恵は借りておきたいというのがバンクスの正直な気持ちだった。


「Hemlock・Kievか。Kievをキーウと読むのか、キーエフと読むのか微妙ですよね。ウクライナの首都のことだと思えばキーウですが、ニンニク効かせた鶏料理、チキン・キーエフはキーエフのままです。キーウと読み替えるべきです?」


「料理の名前は変わらんだろ、歴史的に」


 ウィルの発言にはどこにワナが隠されているかわからない、いや、話しながら考えるタイプかもしれない、あまり真面目に返すもんでもないなと、バンクスも雑談の体を保った。


「全方向忖度のお巡りさんがいいというなら、お料理はキーエフでいいんですね」


「消印はこの市内だ。中には Go back to Siberia!と印刷された紙が入っていた」


「シベリアに帰れ、ですか? なぜ突然? 急にきな臭くなりましたね。シホさんをロシア人だと思ったってことなんでしょうか? 外国人排斥運動はまあ、この町にもありますが、日本人でアイルランド系イギリス人と結婚してたシホさんにシベリア? 欧州から見れば方向的には合ってるけど……」


 首を傾げるウィルにバンクスは、やはりウクライナ戦争関係だろうかと問いかけた。


「キーウとシベリアと言われれば確かに、戦争を仕掛けている人の顔が浮かびますが、それより、4年前ですか、ロシアの元スパイ毒殺未遂事件が気になりますね」


 バンクスはハッとした。

「ソールズベリーでのあれか! ドアのノブに化学兵器の神経剤ノビチョクが塗布された」 


「ノブとか、調べてます?」

 ウィルはまた警察をおちょくってと怒られると思ったのだろう、おずおずと聞いたが、バンクスは自信をもって調査済みと答えることができた。


 地方都市ソールズベリーの一般民家で起こったあの事件以来鑑識は、自然死と確定できない限り最悪を予想している。

 何せ捜査に当たった警察官も神経剤に触れ、生死の境を彷徨う被害に遭ったのだ。


 今回は、オキーフさんの玄関ノブの指紋採取時に他の薬物は認められなかったと報告が上がっている。


「ノビチョクはヘムロック以上に危険です。筋収縮して呼吸も止まるが、心臓も止まる。シホさんの死因ぴったりになってしまう」


 ウィルの沈んだ声が耳に届いたが、バンクスがさらに見解を述べるとその声はどっと気弱になっていった。

「だが、玄関からも、オキーフさんが倒れていた床のカーペットからも、ノビチョク系の化学物質は発見されていない。もし早い時間にドアノブに散布されていたら、郵便を届けたエリカさんだって倒れていたかもしれない」


「そ、そうですね、それほど、恐ろしいものだということだ……ポロニウムなんて放射性物質も見つかってないですよね?」


「リトビネンコ事件か。ポロニウム210はアルファ線だろ? 衣服や皮膚で止まる。体内摂取しないと効果が薄い」


「そ、そうでしたね」


「君でも動揺するんだな。奥さんが危険だったかもなんて俺が言ったせいか? 大丈夫だ、オキーフさんは純粋な日本人、ロシアの元スパイじゃない」


「も、もちろんです」


「顔つきや瞳の色が純粋な日本人ぽくはないと鑑識は言ってたけれど、日本大使館にも照会済み。日本国籍」

 ウィルの戦略的のろ気攻撃から復活したヒラリーがやっと口を挟んだ。


「何があったかはこれから調べるが、オキーフさんをロシア人だと思って嫌がらせした人間が町内にいるようだ。それだけのことだな」


「封筒や紙にも神経毒なんて付着してなかったですよね?」


「大丈夫だ」


 そう聞くとウィルは少し表情を取り戻し、30秒間沈思黙考したが、ふっと立ち上がって自分の机から一枚のチラシを持ってきた。


「これ、かもしれません」


「これ、とは?」


 そのチラシというか、小型だからフライヤーと呼ばれるものには、「ウクライナ戦争難民に温かい部屋を」と題され、市の協賛のもと、ウクライナ人会及び人権保護団体が貸し部屋を探している旨が書かれていた。


 戦争勃発以来、ウクライナの成人男性の多くは国に残り戦い、老人、女子供がヨーロッパ各国に避難してきている現状だ。


 英国政府は、彼らを一般家庭にて受け入れ、文化的人的交流をしながら生活支援をしていくという政策を取っている。受け入れ世帯には政府から助成金が出る。


「うちにも来ましたから。これ持って保護団体の係の人とウクライナの女の子が。うちは3LDKで主寝室、客用寝室の他にもう一部屋あるんですが、物置状態で貸すわけにはいかなくて。でも住むところのない娘さん目の前にしてノーというのは辛かったですよ。片付けようと思えばできないこともないって後ろめたさもあって。説明会に来てくれるだけでいいと言われましてもね、心理的ブラックメールだと言えなくもないというか、やっぱりこっちが悪者というか心苦しくて……」


「他人が居ると、家中で奥さんとイチャイチャできなくはなるわな」

 バンクスが茶化すとウィルは予想通り頭を掻いた。


「シホさんとこ、うちより広いでしょ? 4LDKかな、それで一人暮らしって、断りにくかったでしょうね」


「それで嫌がらせの手紙を受け取ったのか、ま、あり得るな」


「宛名は玄関先でシホさんが名字を言ったのがそう聞こえたってことですかね。ウクライナの人にすれば、今現在、敵はみんなロシア人、シベリアに退いてくれたら嬉しいでしょうし」


 断言を避ける言い方をしながらも、いろいろ考え併せて筋道の通った考えをまとめてくるのがこのウィルという男だ。


「シホさん、まだまだ他人を家に住まわせることには抵抗があったんじゃないかな、ご主人との思い出がかき消されそうで」


「かもな。一人歩いていてもぶつぶつ夫の幽霊に話しかけてるみたいだったってご近所さんも言ってたしな」


 ウィルは自分が敢えて言葉を濁したことを言いやがってと思ったのか、バンクスに顔をしかめてみせた。


「とはいえ、中身を合わせても、このヘムロック・キーウ便がシホさんの直接の死因になったとは考えにくいですね」


「そのようだな」


 雑談はまだ続く。



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