シャイロック・キープとは
翌火曜日、バンクスは覆面パトカーを港に向けて駆っていた。助手席にはヒラリー巡査部長。
ランク下が運転しろとか男が運転すべきとか言い合いになると日が暮れるから、自分から運転を買って出た。
いや、警察機構内でそんな発言をしたら、どちらも降格されかねない。セクハラ、パワハラ御法度、すべての異なった立場の人々の考えを尊重しなくてはならないのだ。
「捜査どころか身動きも取れない」
バンクスはつい声に出してしまい、隣の女史が片眉を上げて睨んだ。
「気心の知れた犯罪捜査部のバディでなくて悪いですね。それより、これから訪ねるステファニー・アダムズについては予習してきてくれました?」
声音から機嫌はさほど悪くないとわかり、バンクスの楽しい気分を助長する。海に向けて走るこの高速は好きだ、もう少し行けば下り坂の先に海が見える。
「ステファニー・アダムズ37歳、シンママ、子どもは男女ふたりのティーン。オキーフさんの元同僚」
「住所は港の場末のフラットです。経済的余裕はないでしょうね」
「だろうな。オレは彼女の事情よりオキーフさんが返済を求めた経緯を知りたい」
「あら?」
バンクスは隣に座るヒラリー女史の体温が下がった気がした。
「私はどんな意図であんな偽小切手を送ったか聞きたいです。特に、オキーフさんを殺せる可能性に気付いていたか。貸主が死んでも借金は帳消しになりませんが、オキーフさんの相続人は債権放棄してくれるかもしれない」
やっぱりコイツ苦手と心の中で思い直してバンクスは、
「6000ポンドだもんな、中途半端な金額だよな。帳消しにするには大きすぎるし、公式の借用証書作るには安い」
と受けた。
何か心に引っ掛かる。
「うん? ところで、オキーフさんの相続人って誰だ? 葬式は誰が出す? 遺体、誰に戻すんだ?」
「はあああ???? そんなことも調べてないんですか?」
「それ、そっくりそのまま君に返すよ。ハナから担当してたのはそっちだろ?」
ハハハハハ、とバンクスが大笑すると、巡査部長がほんのり頬を染めた。思ったより、可愛い女なのかもしれない。
ー◇ー
ステファニー・アダムズとの会見は目も当てられなかった。
コンクリート打ちっぱなしの湿った匂いの階段を上がると、狭い戸口から、齢の割には疲れ顔の女が覗いた。
持ち主に輪をかけて疲れて見える狭いソファに、ヒラリーと袖が触れあい気味に並んで座らされる。
バンクスが、オキーフさんの死亡は伏せて借金の件についてだと告げると、シンママは自己都合を滔々と語り始めた。
彼女が20歳で産んだ長男トニィは、学級崩壊首謀者として高校退学処分、転校した先でも再度退学。
近隣の高校では受け入れを拒否され、せめて高卒の学歴だけは取らせようと、父方の親戚の居るオーストラリアへ。
6000ポンドはこの息子の渡航、学費に消えたらしい。
「1年で済むと思ったのよ。オーストラリアの高等教育証書HSCを取れば済むだけのことなのに、あの子ったらまた学校行かないで遊んでるみたいなの。親戚も甘い顔し過ぎ。返そうとは思ってるのよ。シホには悪いことしてるって。でも毎月、あれがいる、これがいるって言ってきて、いつまでたってもお金が貯まらないの」
「下の女の子も物入りでしょうしね」
バンクスは何とか言葉を挟んだ。
「そうなのよ。ポリィは努力家でもっと勉強したいって言ってるの。兄のせいで妹が大学進学を諦めるのもヘンでしょ?」
ヘンはヘンだが、他人のお金借りっぱなしというわけにもいくまいが。
「息子さん、17歳ですよね、最悪、向こうで就職して自活してもらったらどうですか?」
片眉をぴくぴくさせたヒラリー巡査部長の切り捨て発言が出て、この時ばかりはバンクスも胸のすく思いがした。
「それだって高卒資格はなくちゃ、でしょ? 学校行って修了試験を受けるだけがどうしてできないのか、もう、やんなっちゃう」
やになるのはこっちだよという言葉を飲みこんで、バンクスは聞きたかった質問に誘導した。
「そんな大変な時にオキーフさんはお金返せって言ったんですか? もう少し事情を汲んでくれたら……」
「でしょ、でしょ?」
言い終わらないうちに被せられた。
「この生活費危機の真っただ中よ? お金借りた2年前より私の生活苦しいのよ? このフラットだって家賃払うのかつかつなのに、あの人あんな大きなおうち相続したんだから、もっと待ってくれたらいいじゃない。ウクライナの戦争が終わったら、ガス料金は下がるって聞いてるし」
「どうしてだったんですか? どうして今お金返してほしいって言われた?」
一言聞き出すのに5行生活苦を述べられてしまう。
「うんと、何だったかなあ、突然訪ねてきてなんかごちゃごちゃ言ってたんだけど……」
典型的な自分語り、人の言葉聞かずだよな、この人、と次の言葉を待つと、やっとのことで、
「あ、そうだった、実家のほうで要り様だって、お父さんかお母さん。仕方ないでしょ、あの人の英語聞き取りにくいんだもん、なんかそんなだった」
こっちの質問は終わったと見てとって、ヒラリー巡査部長が尋ねた。
「オキーフさんが身体弱いの知ってました?」
「あ、ええ。それも気に入らなかったというか、優遇されてるっていうか、こっちは必死でお金稼いでるのに、体調悪いから早退とかお風呂の窓拭きはしないとか、ほんと不公平。シフト重なったらアンラッキー」
「どうしてあんなもの、送ったんですか?」
「あんなもの? あ、母の日の小切手? 見たの? 笑えたでしょ?」
バンクスは度肝を抜かれてステファニーを眺め、そのままロボットのように首を回してごく近くのヒラリーの横顔を見た。酷く顔をしかめて俯いている。
相棒は言葉を失ったようだとみて、バンクスが場を繋いだ。
「母の日のだったんですか?」
「そうなの、ポリィが小切手帳をくれたの、いろんなお手伝いするって。ほんといい子でしょ。後ろのほうに無地のが何枚かあったから使ってやれって思ったのよ。シホ相手に『お金がないので待ってください』なんて惨めったらしいこと書きたくないもの。彼女には全部通じたはずよ? あの人英語は訛ってても学があったから、シェイクスピアも知ってたし」
「「シェイクスピア?!」」
バンクスとヒラリーの声が初めてユニゾンした。
「ええ、封筒見てないの? 『ヴェニスの商人』のシャイロック。お金をキープしたい守銭奴。
私だってこう見えても、高校の国語学年トップだったのよ」
「シャイロック・キープ様、それが宛名の意味……」
ヒラリー巡査部長は呟きながらゆっくりと顔を上げた。
「お金を借りた相手が死んでも借金が無くならないって知っていますか?」
女史の顔はバンクスから見ても心配になるほど無表情で、氷の女王を思わせた。
「無くなったらいいのにね。でも私だって、シホが死ぬ前にはお金返すわよ?」
ヒラリー女史がファブリックの擦り切れた応接セットからガタンと立ち上がる。
「シホ・ヒムロ・オキーフさんは、あなたの偽小切手を受け取った翌朝に、他界しました」
そう言い捨てると、スタスタと玄関へと向かった。
「うそ、ウソでしょ?!」と言いながらステファニーが追う。
バンクスは2人の女の後にゆっくりと従って暇を告げると、「オキーフさんの相続人から葬儀や取りたての連絡があるかもしれませんから」と捨て台詞し、かびた空気の階段に出た。
バンクスは署に戻るべく愛用の覆面パトカーを走らせていたが、ふと思い立って、隣でむすっとしているヒラリー巡査部長に話しかけた。
「散々だったな」
「そうですね。反応を見るためとはいえ死亡事実を隠したのはこちらですから、ステファニー・アダムズが失礼な物言いをするのは想定済みだったのですが、予想以上でした」
「金貸すほど仲良かったのか?」
「そう思ってたのはシホだけでしょう」
オキーフさんを初めてファーストネームで呼んだヒラリーは、バンクスの目に新鮮に映った。
男女と分けるのはいけないとは思うが、女の友情の薄っぺらさを見せつけられた気がする。
ステファニーも悪い人間じゃない、ただ、生活に必死なんだろうが、比べれば助手席に座っている氷の女王のほうが、バンクスには断然可愛い。
「署に戻る前にどっかで昼飯食って、ランカスター通りに行きたいんだがどうだろう?」
「この時間だと、ご主人しかいないはずですが」
「だからだよ。もしあのウィルがオキーフさんと不倫してたら、エリカさんの前じゃ話せまい」
プッとヒラリーが小さく吹き出して笑った。
「そんな仮説を立ててるんですか? 昼ドラじゃあるまいし。署に任意同行を求めるには根拠が薄い」
「薄いな。来てくれとは言えまい。もっと気楽に、シェイクスピアの話なんてどうだろう?」
「そうですね、それなら賛成です」